倦怠の勿忘草

“汚れつちまつた悲しみは 倦怠のうちに死を夢む”

とケル。

 四、「山羊のツノ」

 

沈黙の中を、二つの影は進む。道に散らばる葉や土をざりざりと踏みしめながら、私は代わり映えのしない風景に飽きていた。とすれば足下から茶色いバッタは横へ跳ねて、先には不気味に漂うようなけもの道が続いている。突然、そこから何かが駆け寄ってくる。沈黙はやがてバラバラに壊れてしまう。

 

先生が拍子抜けに「おや?」と声を上げた。


「店灯りが、消えています…。」

先生の目線の向かった先を窺うと、この山中に目立って大きな一軒家が佇んでいた。すぐ隣に歩いてくるまで、その存在に気付かなかったことを不思議に思うくらいの立派な家屋だ。それほどに辺りは暗く、木々が歩道に飛び出すようにして視界を遮っていた。玄関口の戸に掛けられた「まあだだよ」との札が、バチバチと音を立てる青白い電灯に照らされていた。

奈緒さんは、少しここで待っていてください。」

 

ーはい。

 

「中に入って挨拶してきます。今日はもう店じまいしてしまったのかもしれないです。」

 

ーはい。

そう言って先生は引き戸を開け、薄暗い闇の中に消えていった。私は笑っていた。こんなに清々しい気持ちで笑ったのは久しぶりだ。声は出ていない。ただ肩が揺すれるような、胸の奥が沸き立つような、もくもくと込み上げる可笑しさに涙が溢れ出そうなくらいだった。お蕎麦、食べられないのだろうか。

 

ポツリ残されたこの躰、やりきれない。先生は少しいいかげんだ。私は息を吐いて大きな木目の覗くベンチに座った。足が痛いな。サンダルはえいっと蹴っ飛ばしてしまう。コートは寒くて手離せない。脚を折りたたんで、両腕でそれを抱いて、目の前の竹林を眺めてみた。猫がどこかで鳴いている。鈴虫の声は喧しく耳に残る。吹きつける風がきもちいい。

奈緒さん、口が開いてます。

自分で放り出すように言ってみたら、またくすくすと笑いがこみ上げてきた。可笑しい。先生って真面目なんだけど、やっぱりどこか間抜けな所もある。今度は顔がくっきり思い出せた。先生のあの目が好きだ。あの窪みに吸い込まれてしまったら、私はどうなっちゃうのだろう。そんなことは、今はどうでもいいような気もする。ふと、私も猫の真似っこして「にゃあにゃあ」と鳴いてみたいなと思った。鳴いてみないといけないような気さえするんだ。

すぅと息を吸い込んだ時、ふいに目の前の竹林がガサガサっと揺れた。密集した青白い竹の皮、何もいないように見える。けど、何かいる。

 

私は吐く息を忘れていた。

青黒い空白の隙間から、白く大きな物体がのそりと現れる様子を少しも見逃さなかった。胸の鼓動が指先まで伝わる。にゃあと鳴くかわりに「先生」と声が出た。

ー先生!…えっと、山羊がいます!

先生は何も答えてくれない。胴体を蛇のように揺らしながら、山羊はゆっくりと歩み寄ってくる。目が合ってしまっている。もう逸らしてはいけないような気がした。

 

ー先生!助けてください!

 

鈴虫の声が怯えたように、小さく、遠くに聴こえる。禍々しく伸びた山羊の角が、私と近づくにつれてしゅるしゅると成長しているように見えた。私はブワッと泣き出したくなった。イヤだ。怖い。怖いよぉ。先生、どうかこの泣きべそかいて縮こまっている私を見つけて、笑ってやってください。ここにいる子どもを宥めてください。

 

山羊は触れそうな距離に来た。目が爬虫類の目玉のように、青白く反射して光っている。何か咀嚼するように動く顎の隙間から、ぬめらんとした舌が赤々と這った。生きている。ホンモノの山羊だ。

 

私は死んだように固まっていた。

 

 

「山羊のツノ」

とケル。

 三、「暗夜行路」

 

電灯は五十メートルもの間隔を経てから、ぽつん、ぽつんと、ひとつずつ並んでいます。光は重なり合わずに、互い干渉しないような距離感でもってぼうっとしているのです。遮るものがなければ、光は間断なく綺麗な同心円を道端に落としてゆくのですね。虫がその流れを遡って、バチッと命を焚いたのを私は見ていました。

 

先生、山というものはこんなにも大きなものなのです。それに山は、闇と溶け合う性質(たち)のものらしいのです。鬱蒼とした枝々のさやぐ隙間から、空に大きな山の陰影が色濃く見えています。けれどもしかしたら、それは私たちの目が見ている幻なのかもしれませんね。そこに浮かんで見えるのは夜空より深いただの暗闇です。さすがの先生にも、あれは空の凹(ボコ)でなくて、地球の凸(デコ)なのだと明かすことはできないでしょう?

 

星空が夢に沈んだ枕の刺繍のようです。巨大な空白にも見えるあの暗闇は、夜空に浮かぶ惑星に描かれたクレーターなのでしょうか。このまま真っ直ぐに進んでしまえばいずれ先生と私、宇宙の真ん中にポイと放り出されてしまうのではないのかと思いました。

 

 「寒くはないですか?」

 

先生にそう言われてから冷たい空気が私の肌を掠める。遅れを取り戻すように慌てた毛穴が飛び出した。山の空気はひそひそと一層ごとに温度が変わってしまうのだった。

 

「上着を持って来たので貸してあげます。」

 

温かさと冷たさは私たちを横目に抜駆けして去ってしまう。先生の手の温度を確かめていたかった私は、咄嗟に「大丈夫です。」と嘘をついてしまった。

 

先生の影が深夜の公園に遊ぶブランコの影のようだ。先生が覗き込んで私の目を見る。いつもならば逃げるように目をそらすところを、静けさにキッとして堪え、私は先生の目を見つめ返してみる。目と目を見合わせていると、魂を抜き取られているような感じがしてやりきれなくなる。そのためか私は、これまで先生の横顔ばかりを見てきたような気がする。正面から見た人間の顔は目だけが浮き上がって見えて苦手だ。けれども不思議なことに、先生の顔から目が浮かんでくることはなかった。

 

「強がるもんじゃありませんよ」と言って先生は薄手のロングトレンチを私の肩にかけた。裾が地面すれすれを揺れる。これまでほのかに隣から香っていた匂いが私の躰を包み込んだ。男性の匂いは変な感じがする。嗅いでいて妙に安心するのはどうしてだろう。先生の匂いは特に好きかもしれない。煙草や香水の、人間らしくない匂いはちっともない。もっと動物のような、でも獣ではない匂い。革製のちょっとお高い紳士用バッグ?と、それは少し言い過ぎたかもしれないが、ともかく先生の匂いというものがあって、私は先生の匂いに包まれると、これまで嗅いでいた土と花と獣の匂いに混じ入ったような気分になって、どうしようもなく泣きたくなってしまうのだった。

 

あーあ、私は迷子なんだ。いつも場所を探している。私はどこにいたらいいのだろう。私は、私を固めて、縛って、触れて叩いて、そうして私の形を確かめてほしいだけなんだ。そこに私がいたのだとわかったら、そっと耳もとに囁いて教えてほしい。

 

「大丈夫、あなたはあなたです。確かにここにいるのです」と。

 

今度こそ私の方から先生の手を握り直す。そしたら先生の歩みが遅くなって、やっと二人が並ぶ形になった。

 

「せんせ。」「何か?」「…いえ。」というような漠然としたやり取りをいくつか交わしたような、また交わしていないような感じで黙々と歩いていると、先生が「暗夜行路」という小説の話を持ち出してきた。前に会った時分にも同じ話になったのに、私はその小説を今日まで読んでいなかった。どぎまぎとする返答をごまかすため、私は口数がめっきり減ってしまう。

 

「こうして暗い夜道を歩いていると、先生はあの小説のある一節を思い出します。」

 

そう言ってから先生は黙り込んだ。私は疎くてこれまで気付きもしなかったけど、先生が黙り込むときは何か返答が欲しいときなんだ。私は意を決した。

 

「どんな一節ですか?」

 

先生が意外そうに私の顔を見るので、私はムッとする。もったいぶらずにはやく答えてください。聞いてあげますから。とは言えない。先生はにっこりとして「はい、次のような言葉です。」と言って息を吸った。

 

「大地を一歩一歩踏みつけて、手を振って、いい気分で、進まねばならぬ。急がずに、休まずに。」

 

「はあ」

 

「それともうひとつ。」

 

「なんですか?」

 

「過去は過去として葬らしめよ、です。」

 

「なんというか、一休さんみたいですね。」

 

先生が楽しそうに笑った。私はいたって真面目なんだけども。笑ってくれたのでちょっと嬉しくなる。

 

先生はまた何か聞いてほしそうに黙っていたけれど、これ以上はダメだった。だって私はその小説を読んでいない。意味なんかわかりっこない。

 

沈黙も、この闇夜では自然なのだと、私は安堵した。

 

 

 

「暗夜行路」

無題

 

静まるカーテンひるがえし

風が一脈吹きました

 

鈴の音の鳴る夜に

靡く布地をカラダに絡め

息を詰ましておりました

 

桃色靡かせ焼けた胸

すずろなる歌声に没すれば

 

無垢なる信頼心は

恋に被さるれ

 

強欲の罪は重なりて

罰せられたるは我が心

 

 

ー 夜が明ければ喪失の風、清よらかにこそ吹きあぐれ。さては虚しきこの心、許しを乞うても惨めにありなん。

 

 

とケル。

 

二、「ミルクティー」

 

「そう口をぱっくり開けていると、どこやらか名も知れぬ虫が飛び込んで来ますよ?」

 

空を眺めてポカンとしている私に向け、先生が言った。「虫」と聞いて我に返り、私はキュッと唇を結ぶ。空は私の口から何かを抜き出して、さらに何か悪いものを口に飛び込ませたのだろうか。飛び込んできたものは虫なんかよりもっと、大きくて透きとおったものだと思う。先生が苦笑して私を見ている。気付けば私の口は幼いこどものように、カパカパとだらしなく開いているのである。

 

先生には、私の口を侵す何かが見えたのだろうか?はたしてその忠告は間に合いましたか?

 

ねぇ、先生。どうですか?

 

私に魂というものがあるのならば、この身体のどこかにあるのではなくて、あの空のどこかにポッカリ浮かんでいそうなものだ。

 

奈緒さん。さあ、行きますよ。」

 

先生がそう言って私の手を引こうとしたとき、私は胸が縮んで一歩退がってしまった。先生はまるで何も考えていないように見えるのだけど、私がそれに安心して魂を飛ばしていると、中身が抜けて柔らかくなった私の心に、細く角張って大きな、また反対に少女のように白く繊細なその手で躊躇わずに触れてくるのだ。そんな先生の悪戯心は、私の苦手とするところだった。なによりいまは、私の手がサビ臭い。

 

「あの、先生、その私、、お手洗いへ行きたいです。」

 

「ああ、この広場にあったはずですよ。ほら、あちらに。」

 

「では少し、失礼します。」

 

そそくさと、先生から逃げるようにトイレの方へ歩く。ああ、このサンダルは失敗だ。広場の泥に踵は刺さって、何かをグチャグチャと跳ねている。初めは鮮やかだった黄色も、くすんだ黄土色に見えてきた。

 

「失礼します」とは一体何だ。「失礼します」とは。

 

私は相手が誰であったとしても、稚拙な「敬語らしきもの」を使ってしまう。なので頻繁に時宜に合っていない言葉を吐いてしまうのだ。私はその度に泣きたくなる。私はどうしようもなく、見えない壁を抱えているらしい。みんなその壁を見て、呆れた顔をして私の許から去ってしまう。

 

個室に座って私は、ドアの白い壁に先生の顔を思い浮かべて見た。あんまり上手に描けない。太い潰れたペン先で書かれたような下品な落書きが、私の邪魔をする。

 

先生と会うのはこれで何度目になるのだろうか。街の港公園に、内装の広々として客の少ない私好みのカフェがある。そこへ入ると度々、難しい顔をしてぶあつい本とにらめっこしている先生を見つけた。先生は決まって、テラス席に座っていた。私はいつも、潮風の吹き抜ける大きな硝子戸の側の、いちばん壁際、隅っこの席に腰掛ける。私は特にやることがないので、ずっとずっと、先生のしかめ面と港の風景を眺めていたのだった。

 

先生が読んでいる本は名前も聞いたことのない難解めいた本ばかりで、そいつをうんうん唸りながら読んでいる先生を見ているのが、なんとなく可笑しくて私は好きだった。初めに声をかけたのは、驚くべきことになんとこの私である。

 

ある日先生は、宮沢賢治の童話集を読んでいらした。海風が強く吹きつける日だった。先生はこれまでに見たことのない、穏やかでやさしい顔をして澄ましていらした。私は先生に近寄らずにはいられなくなってしまって、日頃鬱積した何かを発散するかのように、ひと思いに声をかけたのであった。傍で鷗がきゃおきゃおと騒いでいた。私は勢いづいて「あっ、私ここに座りたいです。」とかなんとか言ったらしい。

 

挙動不審。その挙動は私にとって「窮余の一策」とでも言うべきものだったのだが、もっと気を利かせて、頭に「失礼します」とか何とか言えなかったのだろうかと思う。

 

案の定、先生は困惑した様子で「では、私は退(ど)きましょうか。」と腰を浮かせた。私はうろうろとして「い、いやです。座っていてください。読書の続きをどうぞ。だからあの、向かいに居てもいいですか?」と言った。

 

先生は「はてな」といったような顔で、いっときは考えを巡らせていたようだったけれど、すぐに何かを了解して、少し私に笑いかけてから、「では、ご一緒させていただきます。」と小さく頷き、再度宮沢賢治の童話集を開いたのであった。

 

先生はアイスティーにミルクとシロップを垂らして、ミルクとシロップを垂らしたままのオレンジ色のアイスティーに、赤いストローを挿していらした。私は同じく、アイスコーヒーに挿された赤いストローを指でつまんで、無闇にくるくると掻き混ぜていた。

 

ミルクが粒の大きな氷にまとわりついて、シロップは透明な層を作って沈んでる。私はジッと見る。ミルクのモヤと先生の澄んだ表情を交互に見る。傍で鷗がきゃおと鳴いた。私に構わないようにしていた先生も、ついに私の落ち着かない目線を捕まえて「お名前は?」と言った。

 

「お名前、ですか?」

 

「はい、名前です。」

 

「ええっと、奈緒、と申します。『奈落の底』の『奈』に、『へその緒』の『緒』で、奈緒です。」

 

私がワタワタしながらそう言うと、先生は楽しそうに「あはは」と笑って、『奈落の底』ですか、なるほどねぇ、と言って頻りに頷いている。何が「なるほどねぇ」なのだろうかと考えていると、私の口から「先生は、宮沢賢治が好きですか。」という質問が、打ち上げられた魚のように跳ねて飛び出した。

 

「…先生?」

 

「はい、好きですか。」

 

「…ええ、先生は宮沢賢治が好きですよ。」

 

「やはり」

 

私は、自分が「やはり」なんて堅い言葉を放ったのが意外で、カフェで出会ったばかりの見知らぬ人間に突然「先生」と呼ばれ、目をパチクリやっている向かいの男性には関心が向かなかった。

 

鷗がきゃおきゃおきゃおと鳴きながら、西日をキラキラと反射している海原の方へ飛び立った。私が口を開けて鷗の去ってゆくのを眺めていると、遠方を歩いている人を呼び止めるような声で先生が「奈緒さん」と言った。私がビクッとして返事をすると、先生は真面目な面持ちで、耳を疑うようなへんちくりんなことを言い始めたのだった。

 

奈緒さん、今度私とデートしませんか。」

 

「…はあ、デート、とは。」

 

「会う約束をして、食事や散歩を共にすることです。」

 

この人は何を言っているのかと思った。けれども、話をしている先生の笑みがあまりにやさしいので、実はひとつもおかしなことなどないのだと思えてしまう。側から見れば、よっぽど私の挙動の方がおかしいものだろうと考えると、先生がそのように突飛な私をデートに誘ってくれたことが、それが嬉しくて仕方なくなった。

 

「先生は、私とデートしたいですか。」

 

「はい、ぜひとも。ダメですかね?」

 

「そんなことないです。でも、どこに行くのですか?」

 

「そうですね…美術館、ここから見えていますが、あそこの美術館に行きましょう。今はマリーローランサンの絵が貼ってあります。」

 

「ローランさん。」

 

「はい、愛と女性の美を描いた20世紀を代表する女流画家ですよ。」

 

愛、女性の美、20世紀、、、。「よくわからない」と言ったら先生はどう思うだろう。

 

「美術館で食事もとれますし、この辺りのカフェやレストランなら、予約なしでランチも大丈夫でしょう。」

 

私は「ふうん」「はい」「いいですよ」を繰り返し、なしくずしに先生と会う約束をしてしまい、アイスコーヒーの入っていたグラスを空にしてしまっていた。先生の話はどう繋がったのか詩の話になっていた。

 

ひと通りの話が済んで、先生は再び読書をはじめていた。なかなか減ってくれない先生のアイスティーは、ミルクのモヤがようやくシロップの層に到達しようかというところだった。百合のような白さのテーブルクロスに斜陽の光が射す。ミルクとシロップとアイスティーと、半分は溶けてしまった氷の半透明の影は、夕空を机に溢して、そのままこびりついた染みのような色をしていた。

 

奈緒さん、口が開きっぱなしです。」

 

先生の忠告を聞き流し、私はこの綺麗な染みが私の胸にも染みついて、いつまでも消えずに残っていてくれないものかと、ただそれだけを願っていたのであった。

 

 

 

「ずいぶんと丁寧に手を洗っていたのですね。」

 

「待たせてすいません。」

 

「気にしないで。さあ、行きましょう。」

 

二人は手を取り合って、闇に沈む人気のない山道を歩きはじめた。

 

 

 「ミルクティー」

とケル。

 

一、「山吹色と桜色」

 

私はどこに来ているのか。

 

先生から教えてもらった「恵理」という停留所の名を頭の中で繰り返す。えり、えり、えり、えり。「駅前から乗れば370円で着く筈です」と先生は暢気に言っていた。整理券に書かれたのと同じ番号の下に「370」と表示されてから、えりえり、と口を動かしているのに、アナウンスはなかなか答えてくれない。

 

窓に流れる景色は私の見たことのない景色のはずだ。本当に見たことはないのだけれど、ガソリンスタンドの橙色の看板と、車道の傍に植わっている欅の木の並びは、記憶のどこかしらに埋まっていた景色の配色とよく似ている気がする。いつかこの場所にやって来たのだ、とまでは言えないけども、いつか車やバスで通りかかったかもしれない。その頃の私はきっと、安心しきって眠っていた。

 

「次は終点、えり、えりでございます。長らくのご乗車、お疲れ様でした。」

 

不意を突かれた私、ギョっとして案内を見ると、 整理番号「3」の下には「380」との表示がされている。体温でぬるくなった小銭は「10」円分足りていない。焦って財布を覗いたけれど、十円玉は見つからなかった。それまでさらさらと流れていた景色は、すっかり素知らぬ顔をして止まっている。

 

慌てて両替機に五十円玉入れる。私が「すいません」を繰り返すと、運転手さん黙って前だけを見て、ゆっくり会釈した。表情が読めなくて感じが悪い。これだから両替というものは苦手なんだ。終点だったからまだ良かったものの、降りる直前になってから両替をするのはなんとも賤しい感じがする。私はなんでも、人目に付くことを嫌うのです。誰にも見られず空気のように過ごしていられたらそれで満足なんだから。バスや電車に乗るときには、事前に料金を調べてから乗らないと落ち着かない。降車してホッとするとき、掌は汗ばんで少し錆びの匂いがする。でも今日は違った。先生の理不尽に憤憤として降りたから、手の匂いなんて気に留まらなかった。

 

「あの頓珍漢!」と頭の中で叫びながらバスを降りると、ヒールのある山吹色のサンダルが「トン、チン、カン」と音を立てたような気がする。「チンカン」のところは、躓いて転げそうになった音である。「いったい何に対してはりきっているのか」と、慣れないヒールを履いている私を見て、ほんに誰も見ちゃいないのに、誰かから笑われたような気分になってしまうのだった。それまでの憤りもぴゅうと冷めちゃって、また、知らない風の香りに包まれると、ストンと寂しくなってしまう。

 

先生、ここはどこですか。

先生、どこにいらっしゃるのですか。

 

半べそをかいて周囲を見渡すと、停留所の背面にある広場の方から、普段とちっとも変わらない様子の先生が平然として歩いてきた。襟のついた、はっきりとした紺色のシャツが案外似合ってしまう顔立ち。私のように顔が色に負けてしまう人間には、羨ましい限りのお顔立ちでございます。

 

お久しぶりですね。おや?奈緒さん。なんだか雰囲気が変わりましたか。これまでの奈緒さんよりずっとおとなしい感じがします。」

 

話す言葉の一息が長いところ、私のことを「なおさん」と呼ぶときに、「を」とも「ほ」ともつかないような微妙な発音で、空気の抜けたような「なおさん」を連呼するところ、すべて普段通りである。先生の笑顔はのんびりしている。さっきの運転手さんには絶対に真似っこできない笑顔だ。でもあなたバスの運賃、間違ってましたよ。

 

「…先生、ここ終点らしいです。ご存知でした?」

 

「ええ、家から最寄りのバス停はここですからね。でも私は普段から、教会前のバス停で降車します。歩きたいからなのです。」

 

知っていたのなら教えてくれたって良さそうなものだ。私の心の奔走も余所にして、教会前からここまでの散歩路を、まるでいま歩いているかのように話している。実に楽しげだ。私の心の奔走も余所にして。

 

私はどうして、なるがままに頷いているのか。 私はどうして、なるがままにこんな辺境へとやって来たのか。先生はいつも、私ではなく他の何かを見ているらしかった。

 

奈緒さん、お蕎麦は好きですか?」

 

「はい、好きですよ。」

 

「よかった。では、向かいましょう。」

 

先生が微笑むと同時に、秋風が山吹色をして私たちの背中を押した。まだ秋蟬が残って鳴いている。山の土の匂いの奥に、微かな潮の香りが漂っているような空だ。

 

「薄花桜」という言葉を調べると、ちょうど今の、この空の色の名前だとわかる。「桜」なのに、それは青色の仲間である。群青の空に、仄かな桜色の靡いた色。

 

先生のシャツも、新調した私のワンピースもまるっきし、おんなじ色に染まっていた。

 

 

「山吹色と桜色」

 

水鏡に咲く

 

 

四月九日、丁度日を跨いだ頃である。一頻り驟雨が降り、夜は霧に包まれていた。

 

霞んだ景色と潤む空気が目新しいので、私は好奇の心で外に出ていた。こういう日は、布団の中の方が却って寝苦しいものである。

 

造船に携わる人間や物資の運搬の為、戦後になってから市街と道路で繋がれた小さな島に、私の住居はある。今日のように彷徨い歩くのは決まって、街へと向かう直線的な道路の上であった。

 

作られた路は、馬鹿正直に真っ直ぐ伸びている。その先に見えるのは、製造途中の船を浮かべる海と、その周りに忙しく組み立てられた人工の埋め立て地であり、巨大な建造物とそれを覆う広大な自然との、奇形的調和が異様な空気を感じさせる風景である。背景には、反対側の島へ繋がる大きな橋が煌々とライトを浴び、さらに奥で微かな市街地の蛍光が揺れている。海に反映した無数の灯りは細く伸びて、波の揺らぎによって、その棒状の形態を幾許かに切り分けられていた。

 

道路脇に深い堀がある。堀はその両端を海と結んでおり、海が引く日は底の小石が観察できるが、満ちる日には手を伸ばして水面に触れられようかという域まで、潮を連れてくるのである。切れ切れに点滅を繰り返す街灯の下、ただ真っ黒な淵が、道路を挟んで二つの口を開けているようだ。黒い淵の存在をこの湿った暗闇の中で知らしめているのは、水面をさらさらと流れている桜の花びらであった。

 

桜が咲いているのだ。夜に、花をつけた桜を見ることは稀であろう。夜桜と呼んで見物に来る人間は、おそらく暗闇に咲く桜を知らない。彼らが見ているのは綺麗に照らされた桜なのだ。私は、野晒しに咲いた照らされない桜を見てやろうと意気込んだ。幽かなる桜の姿は、きっと身慄いを起こすほどに美しい。

 

堀に一定の間隔で架かった小さな橋のうち、最も眺めが良いと思われる橋を探した。桜も橋と同様に一定の間隔で咲いているのであるが、ひとつだけ、その間隔を乱すように蹂躙する、一際大きな桜の樹があった。私はそいつを手前に見、その背後に赤黄色の滲光を眺める一つの橋を選んで、その中間辺りの欄干に腕を臥せた。丁度梢の横に車道が線を曳き、また梢の頭上には、海と街との境界が曳かれていた。

 

桜は既に、満開の時期を過ぎてしまっていた。枝が寂しげに手放した白い花びらは、夜空に突き刺さる瑠璃色の光線を遮りながら落ちてゆく。最後は例の真黒い淵に張り付き、海へと運ばれる中途でどこからともなく、その白い躰は呑まれてしまうのであった。

 

霧雨の夜である。呼吸には水滴が含まれ、世界全体の光が微睡みに落ちている。躰が空っぽの夢想へと吸い込まれてゆくように感じられた。

 

向かい合う橋の欄干をぼんやりと眺める。濡れた円柱形の金属に、針のような光が直線を描き、そこへ落ちてきた花びらの、ひたりひたりと吸い付いてゆく様子がなんとも美しい。

 

息は深く沈んで、次第に音は遮られていった。

 

私は、時間を奪ってゆくその情景を記録に残したいと思い立ち、スマホのカメラを起動して、どこに焦点を当てるわけでもなく、漠然とそのシーンを撮っていた。

 

 

 

「…。」

 

 

 

「…っと。」

 

「…ねえ、あなた?」

 

ふと聞こえた声の方向に、咄嗟の反応で目を向ける。白いシャツに続いて、暗闇に光る薄い緋色の簪を認めた。そこには、黒髪を纏めた若い女性が立っていたのである。

 

カメラ越しにその場所を見ていた私は、彼女の存在にまったく気付いていなかった。

 

「断りもなく女性を撮るなんて非常識です。」

 

「…。」

 

「…何か言って?」

 

私は唖然としていた。彼女はいつからそこに居たのか、いったいどこから、どのようにしてやって来たのか、叩き起こされた直後のような頭で、それまでの記憶を無雑作に引き出して確認をしていたのである。しかしどうにも彼女は、突如として空から降って来たとしか他には考えようがなかった。

 

「…誰方でしょうか?」

 

「聞きたいのはこちらです。その光るモノ、下げてください。」

 

「ああ、すいません。もう、切りました。しかし私は、桜を撮っていたのです。失礼ながら貴女が居ることは知りませんでした。」

 

「ふふ、そうなの。でもねあなた、桜だって女性です。自由に撮ることが許されるだなんて考えは、少々勝手が過ぎます。」

 

そう言って外方を向いた彼女の頭から、数枚の花びらが落ちる。よく見れば、簪に纏められた頭に数枚の花びらが集められているではないか。髪の毛には無数の水滴が付き、着物はシットリと肌に張り付いている。透けた肌に血色はなく、磨り硝子のような白色が滲むばかりである。私は、硝子戸の朝露に濡れた純白のカーテンを思っていた。彼女から血の気配を感じられるは、桃色の花びらのような薄唇だけであった。

 

暫く彼女はそこに居たのだということが、私には明確に解った。けれども私には、その事実を不思議に感じる猶予もなく、直後自らの口から溢れた思いがけない言葉に気が動転していたのである。

 

「…綺麗です。簪が、素敵です。」

 

この台詞には私だけでなく、彼女も驚いてしまうことだろうと考え、私は努めて視線を避けていた。少し間を空けて、彼女は簪に手を当てようと動き始める。

 

「それは決まりきったことだわ。これは私の宝物ですもの。ひとつだけのお気に入りよ?」

 

話しながら、彼女は簪を抜き取ってしまう。確かにそれは「決まりきったこと」だった。振り解かれる黒髪は、予め決められていたような首の動きに合わせて舞い踊る。向かい合う橋と橋の間には、真黒に透き通った水鏡が隙間なく敷き詰められ、傍にあるアパートの個室の、個々の扉にひとつずつ付いた、提灯のような灯りを八つ写して、妖しく揺れている。そうして彼女が散らした花びらは、予め決められていたような動きで、そこへ舞い降りたのであった。

 

私は言葉を失っていた。その様子を見た彼女が小さく笑う。笑うと唇がいっそう薄くなる。そのまま私を誘うような言葉で続ける。

 

「まァ、そのように残念そうな顔をなさらなくたって、簪で髪を纏める所作には慣れています。スグに、元の通りに戻しますから。」

 

二の腕を晒しながら、揺れの静まらない黒髪を引き、華奢で柔らかな手先が嬌しい渦を作ったかと思った矢先には、そこに先端の跳ねた巻貝の形を再現して見せた。間髪を入れず簪を挿し込み、くるりと形を整えると、うなじを見せつけるように首を傾げ、私を見つめる。簪が垂らした二つの円い装飾は、僅かに紅潮して自慢気に揺れている。

 

「…貴女は、その巻き方を誰かに習ったのでしょうか。」

 

彼女は、少し眉を顰めると、正面に向き直して、

 

「いいえ、毎日繰り返すのです。初めは上手く付けられずに嫌になるものですけれど、曲げずにやるのです。自分の気に入る形が出来るようになるには、たくさんの時間が要るもの。本当に綺麗なものを付けたいなら、何度も、何度も、やり直すことですわ。明日はきっと良くなると、願うのではなくて、現実に見せ付けてやる。美しいものは皆、そうして完成しています。」

 

「…信じられません。その姿を見ていると、貴女は初めから美しかったのだと思いたくなります。」

 

「それは嘘。私、あなたのこと知っていました。いつもここを通りますでしょう?今日まであなたは、私に見向きもしなかったじゃないの。あなたはようやく、探し始めた。そして見つけたのです。」

 

彼女の声は、いよいよ私の耳に直接触れるような感覚を持ち、私は水月がキュッと縮む感覚に襲われ、反射的に動いた手で耳を覆っていた。

 

手に何物かの感触があった。しかし、私にはそれが何物の感触だか解らなかった。彼女は依然として、向かいの橋の上に佇んでいるのであった。

 

「ふふっ、あはははは、、。」

 

「…雨…?」

 

「…はあ、だけどもう、あなたは帰る…。」

 

彼女が笑うと途端に霧雨は沈黙し、雨垂れは頬を伝って流れるまでの大きさに成長していた。彼女が何か言い終えようとした時には、姿が霞んでしまうほどの篠突く雨が、暗闇の裡に見えない幕を降ろしていたのである。

 

私は怖しくなって、橋から逃げるように駆け出した。ふと気を留めて振り向くと、小さな人影は項垂れて、益々烈しくなるうねりの中へ連れられて行くように見えた。

 

それまで押し黙っていた溝の暗闇は、轟々と地を揺らす勢いで流れている。白い花びらを巻き込みながら蠢くその相貌は、鱗を光らせて天を這う一匹の龍のようであった。

 

住まいへ走る間、私はもはや桜の花の儚さを思い、寂しいとも悲しいとも言えなくなってしまったのだと思った。その姿は、ただ純粋に、美しいだけのものであった。

 

 

ふかんしょう

 

よく、わかりません。

 

私、みんなの話す言葉が

よく、わからないのです。

 

 

私、勉強は苦手です。

 

質問されている意味が

よく、わかりませんから。

 

何を目的に、

どんな手引きで、

答えに導こうとするのか、

 

考えても考えても、

わかるはずがない。

 

わかるはずがないから、

わかりたくありません。

 

点数を取る、ということ。

 

それがどうしたら、出来ることなのか、

私には、わからないのです。

 

競い合って、勝つ、という経験が無いので、

その、よろこびも、わからない。

 

よろこびかたが、わからない。

 

 

あなたのことを知りたいの。

楽しそうな顔で、言われました。

 

私は、なぜあなたが、

私のことを知りたいのか、

よく、わかりません。

 

私は、あなたのことなんか、

特別に、知りたくないもの。

 

あなたが、私のことを知りたいのは、

きっと、私の何かを、狙っているの。

 

私は、その何かが、わからないから、

あなたとは、これ以上、関わりたくない。

 

私に、触れないでください。

 

 

私、芸術、というものも、

わかりません。

 

音がわかります。

 

色がわかります。

 

花が眠らないということもわかります。

 

けれども、 どうして、ひとが、

わざわざ、知恵をしぼって、

その、獣のようなカラダを、

花のようにかざりつけたがるのか、

わたしには、わからない。

 

人間のカラダには、人間のカラダの、

うつくしさがあるはずでしょう?

 

音楽は言葉をごまかす。

意匠は美醜をごまかす。

麗句は真心をごまかす。

 

芸術って、勉強よりも、もっと、

綺麗なものだと、思ってた。

 

ゴツゴツした言葉を玩ぶことなんて、

私にも、できます。

 

 

私、思想というものも、

信じられないの。

 

私は、私で、私以外では、

ないはずなのに、

 

どうして、私が、

一生をかけて、他の人間に、

なろうとしなきゃいけないの?

 

私は、そんなに簡単に、

決めてもらえる、人間じゃ、

ないわ。

 

 

私はね。

 

なにも、感じとらない。

 

どうして?

 

私がいちばん、私自身のこと、

わかるからです。

 

だから、私は、

私で、勉強と、表現とを、

 

私が、うつくしいと感じるかたちで、

完成させないといけません。

 

それだけしか、私には、

わからないのです。