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倦怠の勿忘草

“汚れつちまつた悲しみは 倦怠のうちに死を夢む”

水鏡に咲く

 

 

四月九日、丁度日を跨いだ頃である。一頻り驟雨が降り、夜は霧に包まれていた。

 

霞んだ景色と潤む空気が目新しいので、私は好奇の心で外に出ていた。こういう日は、布団の中の方が却って寝苦しいものである。

 

造船に携わる人間や物資の運搬の為、戦後になってから市街と道路で繋がれた小さな島に、私の住居はある。今日のように彷徨い歩くのは決まって、街へと向かう直線的な道路の上であった。

 

作られた路は、馬鹿正直に真っ直ぐ伸びている。その先に見えるのは、製造途中の船を浮かべる海と、その周りに忙しく組み立てられた人工の埋め立て地であり、巨大な建造物とそれを覆う広大な自然との、奇形的調和が異様な空気を感じさせる風景である。背景には、反対側の島へ繋がる大きな橋が煌々とライトを浴び、さらに奥で微かな市街地の蛍光が揺れている。海に反映した無数の灯りは細く伸びて、波の揺らぎによって、その棒状の形態を幾許かに切り分けられていた。

 

道路脇に深い堀がある。堀はその両端を海と結んでおり、海が引く日は底の小石が観察できるが、満ちる日には手を伸ばして水面に触れられようかという域まで、潮を連れてくるのである。切れ切れに点滅を繰り返す街灯の下、ただ真っ黒な淵が、道路を挟んで二つの口を開けているようだ。黒い淵の存在をこの湿った暗闇の中で知らしめているのは、水面をさらさらと流れている桜の花びらであった。

 

桜が咲いているのだ。夜に、花をつけた桜を見ることは稀であろう。夜桜と呼んで見物に来る人間は、おそらく暗闇に咲く桜を知らない。彼らが見ているのは綺麗に照らされた桜なのだ。私は、野晒しに咲いた照らされない桜を見てやろうと意気込んだ。幽かなる桜の姿は、きっと身慄いを起こすほどに美しい。

 

堀に一定の間隔で架かった小さな橋のうち、最も眺めが良いと思われる橋を探した。桜も橋と同様に一定の間隔で咲いているのであるが、ひとつだけ、その間隔を乱すように蹂躙する、一際大きな桜の樹があった。私はそいつを手前に見、その背後に赤黄色の滲光を眺める一つの橋を選んで、その中間辺りの欄干に腕を臥せた。丁度梢の横に車道が線を曳き、また梢の頭上には、海と街との境界が曳かれていた。

 

桜は既に、満開の時期を過ぎてしまっていた。枝が寂しげに手放した白い花びらは、夜空に突き刺さる瑠璃色の光線を遮りながら落ちてゆく。最後は例の真黒い淵に張り付き、海へと運ばれる中途でどこからともなく、その白い躰は呑まれてしまうのであった。

 

霧雨の夜である。呼吸には水滴が含まれ、世界全体の光が微睡みに落ちている。躰が空っぽの夢想へと吸い込まれてゆくように感じられた。

 

向かい合う橋の欄干をぼんやりと眺める。濡れた円柱形の金属に、針のような光が直線を描き、そこへ落ちてきた花びらの、ひたりひたりと吸い付いてゆく様子がなんとも美しい。

 

息は深く沈んで、次第に音は遮られていった。

 

私は、時間を奪ってゆくその情景を記録に残したいと思い立ち、スマホのカメラを起動して、どこに焦点を当てるわけでもなく、漠然とそのシーンを撮っていた。

 

 

 

「…。」

 

 

 

「…っと。」

 

「…ねえ、あなた?」

 

ふと聞こえた声の方向に、咄嗟の反応で目を向ける。白いシャツに続いて、暗闇に光る薄い緋色の簪を認めた。そこには、黒髪を纏めた若い女性が立っていたのである。

 

カメラ越しにその場所を見ていた私は、彼女の存在にまったく気付いていなかった。

 

「断りもなく女性を撮るなんて非常識です。」

 

「…。」

 

「…何か言って?」

 

私は唖然としていた。彼女はいつからそこに居たのか、いったいどこから、どのようにしてやって来たのか、叩き起こされた直後のような頭で、それまでの記憶を無雑作に引き出して確認をしていたのである。しかしどうにも彼女は、突如として空から降って来たとしか他には考えようがなかった。

 

「…誰方でしょうか?」

 

「聞きたいのはこちらです。その光るモノ、下げてください。」

 

「ああ、すいません。もう、切りました。しかし私は、桜を撮っていたのです。失礼ながら貴女が居ることは知りませんでした。」

 

「ふふ、そうなの。でもねあなた、桜だって女性です。自由に撮ることが許されるだなんて考えは、少々勝手が過ぎます。」

 

そう言って外方を向いた彼女の頭から、数枚の花びらが落ちる。よく見れば、簪に纏められた頭に数枚の花びらが集められているではないか。髪の毛には無数の水滴が付き、着物はシットリと肌に張り付いている。透けた肌に血色はなく、磨り硝子のような白色が滲むばかりである。私は、硝子戸の朝露に濡れた純白のカーテンを思っていた。彼女から血の気配を感じられるは、桃色の花びらのような薄唇だけであった。

 

暫く彼女はそこに居たのだということが、私には明確に解った。けれども私には、その事実を不思議に感じる猶予もなく、直後自らの口から溢れた思いがけない言葉に気が動転していたのである。

 

「…綺麗です。簪が、素敵です。」

 

この台詞には私だけでなく、彼女も驚いてしまうことだろうと考え、私は努めて視線を避けていた。少し間を空けて、彼女は簪に手を当てようと動き始める。

 

「それは決まりきったことだわ。これは私の宝物ですもの。ひとつだけのお気に入りよ?」

 

話しながら、彼女は簪を抜き取ってしまう。確かにそれは「決まりきったこと」だった。振り解かれる黒髪は、予め決められていたような首の動きに合わせて舞い踊る。向かい合う橋と橋の間には、真黒に透き通った水鏡が隙間なく敷き詰められ、傍にあるアパートの個室の、個々の扉にひとつずつ付いた、提灯のような灯りを八つ写して、妖しく揺れている。そうして彼女が散らした花びらは、予め決められていたような動きで、そこへ舞い降りたのであった。

 

私は言葉を失っていた。その様子を見た彼女が小さく笑う。笑うと唇がいっそう薄くなる。そのまま私を誘うような言葉で続ける。

 

「まァ、そのように残念そうな顔をなさらなくたって、簪で髪を纏める所作には慣れています。スグに、元の通りに戻しますから。」

 

二の腕を晒しながら、揺れの静まらない黒髪を引き、華奢で柔らかな手先が嬌しい渦を作ったかと思った矢先には、そこに先端の跳ねた巻貝の形を再現して見せた。間髪を入れず簪を挿し込み、くるりと形を整えると、うなじを見せつけるように首を傾げ、私を見つめる。簪が垂らした二つの円い装飾は、僅かに紅潮して自慢気に揺れている。

 

「…貴女は、その巻き方を誰かに習ったのでしょうか。」

 

彼女は、少し眉を顰めると、正面に向き直して、

 

「いいえ、毎日繰り返すのです。初めは上手く付けられずに嫌になるものですけれど、曲げずにやるのです。自分の気に入る形が出来るようになるには、たくさんの時間が要るもの。本当に綺麗なものを付けたいなら、何度も、何度も、やり直すことですわ。明日はきっと良くなると、願うのではなくて、現実に見せ付けてやる。美しいものは皆、そうして完成しています。」

 

「…信じられません。その姿を見ていると、貴女は初めから美しかったのだと思いたくなります。」

 

「それは嘘。私、あなたのこと知っていました。いつもここを通りますでしょう?今日まであなたは、私に見向きもしなかったじゃないの。あなたはようやく、探し始めた。そして見つけたのです。」

 

彼女の声は、いよいよ私の耳に直接触れるような感覚を持ち、私は水月がキュッと縮む感覚に襲われ、反射的に動いた手で耳を覆っていた。

 

手に何物かの感触があった。しかし、私にはそれが何物の感触だか解らなかった。彼女は依然として、向かいの橋の上に佇んでいるのであった。

 

「ふふっ、あはははは、、。」

 

「…雨…?」

 

「…はあ、だけどもう、あなたは帰る…。」

 

彼女が笑うと途端に霧雨は沈黙し、雨垂れは頬を伝って流れるまでの大きさに成長していた。彼女が何か言い終えようとした時には、姿が霞んでしまうほどの篠突く雨が、暗闇の裡に見えない幕を降ろしていたのである。

 

私は怖しくなって、橋から逃げるように駆け出した。ふと気を留めて振り向くと、小さな人影は項垂れて、益々烈しくなるうねりの中へ連れられて行くように見えた。

 

それまで押し黙っていた溝の暗闇は、轟々と地を揺らす勢いで流れている。白い花びらを巻き込みながら蠢くその相貌は、鱗を光らせて天を這う一匹の龍のようであった。

 

住まいへ走る間、私はもはや桜の花の儚さを思い、寂しいとも悲しいとも言えなくなってしまったのだと思った。その姿は、ただ純粋に、美しいだけのものであった。

 

 

ふかんしょう

 

よく、わかりません。

 

私、みんなの話す言葉が

よく、わからないのです。

 

 

私、勉強は苦手です。

 

質問されている意味が

よく、わかりませんから。

 

何を目的に、

どんな手引きで、

答えに導こうとするのか、

 

考えても考えても、

わかるはずがない。

 

わかるはずがないから、

わかりたくありません。

 

点数を取る、ということ。

 

それがどうしたら、出来ることなのか、

私には、わからないのです。

 

競い合って、勝つ、という経験が無いので、

その、よろこびも、わからない。

 

よろこびかたが、わからない。

 

 

あなたのことを知りたいの。

楽しそうな顔で、言われました。

 

私は、なぜあなたが、

私のことを知りたいのか、

よく、わかりません。

 

私は、あなたのことなんか、

特別に、知りたくないもの。

 

あなたが、私のことを知りたいのは、

きっと、私の何かを、狙っているの。

 

私は、その何かが、わからないから、

あなたとは、これ以上、関わりたくない。

 

私に、触れないでください。

 

 

私、芸術、というものも、

わかりません。

 

音がわかります。

 

色がわかります。

 

花が眠らないということもわかります。

 

けれども、 どうして、ひとが、

わざわざ、知恵をしぼって、

その、獣のようなカラダを、

花のようにかざりつけたがるのか、

わたしには、わからない。

 

人間のカラダには、人間のカラダの、

うつくしさがあるはずでしょう?

 

音楽は言葉をごまかす。

意匠は美醜をごまかす。

麗句は真心をごまかす。

 

芸術って、勉強よりも、もっと、

綺麗なものだと、思ってた。

 

ゴツゴツした言葉を玩ぶことなんて、

私にも、できます。

 

 

私、思想というものも、

信じられないの。

 

私は、私で、私以外では、

ないはずなのに、

 

どうして、私が、

一生をかけて、他の人間に、

なろうとしなきゃいけないの?

 

私は、そんなに簡単に、

決めてもらえる、人間じゃ、

ないわ。

 

 

私はね。

 

なにも、感じとらない。

 

どうして?

 

私がいちばん、私自身のこと、

わかるからです。

 

だから、私は、

私で、勉強と、表現とを、

 

私が、うつくしいと感じるかたちで、

完成させないといけません。

 

それだけしか、私には、

わからないのです。

恋愛詩「少女の涙」

 

朽ちた葉つぱのきいろい頬

くちびるの移りにたゆたへば

撫子のやうに朱く染まりき

 

飛沫か涙か

朱色を空に薫らせ

紫ぶく波は泡沫の恋愛詩

 

あゝ、その引力

君の悲哀は月の濡光となり

落ちゆく雫は一つの星

 

引き合ふ摂理の驚くべき吻合よ!

 

孤高の円環は閉ざされたか

 

されども

球体は不可思議なる力を生む

 

畢竟、僕らはひとりになれず

少女の顫動に歌は絶えぬ

 

ぶむぶむぶむ…

 

ぶむぶむぶむ…

 

ぶむぶむぶむ…

恋愛詩「潮騒」

 

 

紫穂の香の

揺れるまに咲く

白浜に

紅い貝殻

ひらふ乙女よ

ひとり

 

あのこは

なにを歌つてゐるのでせうか

みはてぬあいを

みつめるひとみ

 

わたしは耳を澄まします

 

みぎわに隠れた

声を探して

 

しおらしく

寄せたまゆあひと

しらまなこ

潮風に揺れる

黒いヴェール

 

潮騒のリズムはゆるやかに

焦る私を諫めてる

 

頬を撫でると

首を傾げて

戯れて

雲の隙間に

笑む匂ひ

 

恋とは刹那で

ありませうか

 

秘密が朋に紡がれて

戀が生まれて

消えるのです

 

潮曇

隙に翳めた

斜陽の香り

君の髪毛と

交じり逢ふあか

 

すべては交叉して

飾り合ふのでした

 

ひとつは単純

ふたつが複雑

 

見惚れた男が

詩を書き留める

 

 

散りゆく美意識、坂口安吾『桜の森の満開の下』

 

…彼は始めて四方を見廻しました。頭上に花がありました。その下にひっそりと無限の虚空がみちていました。ひそひそと花が降ります。それだけのことです。外には何の秘密もないのでした。ー坂口安吾桜の森の満開の下

 

「春爛漫」なんて言葉が、過度に生々しい暖かさを感じさせる寒さですね。

 

涯のない青の片隅から、氷を薄く掻いたような白い粒が降りてきました。空から「六の花」なんて呼ばれたりする氷の花びらが降ってくる…なんとも不思議な話です。その「涯のない問い」に無邪気な子どもの好奇心は舞い踊るのでしょう。

 

対して、私たち大人はどんな顔をしているか。雪などさして珍しくもないと言った表情で、顔に降りかかったそれを迷惑そうに拭っているのでしょうか。大人という生き物は概して、「涯のない問い」に見向きもしないで、「そんなつまらない事を考えたって無駄だ」という形だけの答えで満足しているのです。私たちは、私たち自身でも知らぬ間に「桜の森の満開の下」で気が狂ってしまうような感性を鼻で嗤って終いにしているのかもしれません。

 

 

 

 

坂口安吾の「桜の森の満開の下

 

文学に興味がなければ、聞かない名でしょうか。なんとなく、この名の美しさに気を惹かれ読み始めたは良いものの、難読ではないが難解である。その耽美的な表現にしがみついて読破することは出来ても、ついに作者は何が表現したかったのか、釈然としないままだという感想が最も素直なものかもしれません。

 

桜の森の満開の下」は怖ろしい

 

いったいどういう事だろうか?このような問いは単純なようで、案外深い問いなのだと思うのです。桜を「美しい」と思い愛することは、普段から私たちの感性が働く方向と同じですね。では、それが転じて「怖ろしい」と感ずるには、どのような経験があればよいのか。どのような思想を持っていればよいのか。

 

ー 答えは「美意識」

 

その一語に尽きるのではないか、というのが私がこの記事で伝えたいことなのです。

 

もっと砕いて、「美」とはいったい何者か?という命題について考えていきたいと思っています。「桜の森の満開の下」は、ある男の「美意識」の変遷を描いた物語なのです。

 

花の下では風がないのにゴウゴウ風が鳴っているような気がしました。そのくせ風がちっともなく、一つも物音がありません。

 

花びらがぽそぽそ散るように魂が散っていのちがだんだん衰えて行くように思われます。

 

主軸を担う登場人物の男は山賊です。山に住み、都市からやってくる人々を襲っては着物を剥がします。殺人にも容赦のないむごたらしい男なのです。

 

男はそうした強奪を犯すのに加え、気に入った女をさらって来ては、女房として家に捕らえているのでした。初めは一人だった女房も七人になり、ある日彼は、八人目の女房をさらうことになります。

 

次は、その場面の描写です。

 

山賊は始めは男を殺す気はなかったので、身ぐるみ脱がせて、いつもするようにとっとと失せろと蹴とばしてやるつもりでしたが、女が美しすぎたので、ふと、男を斬りすてていました。

 

…山賊がふりむくと女は腰をぬかして彼の顔をぼんやり見つめました。今日からお前は俺の女房だと言うと、女はうなずきました。

 

淡々と描き写された「美しい女」との出会い。彼は「女が美しすぎたので、ふと、男を斬りすてて」しまうのです。彼は女にいわゆる、一目惚れ、をしてしまったのでしょう。女のあまりの美しさに、何か不可解な力に動かされて彼女の夫を殺してしまいました。

 

強奪欲、支配欲、破壊欲…。

 

女が外見に纏う美は、彼の欲望を突き動かします。かくして、女は頼りを失くし、無力な存在として空に放り出されたのでした。

 

「今日からお前は俺の女房だ」

 

無力な女はただ従順に、彼の命令を首肯する以外に選択肢を失っているのです。ここに、形のない契約、必然が取り次いで結ばれた、ごく自然な約束が成り立ちました。

  

このときの彼は知りもしないでしょうが、女との約束は彼に、大変な運命を引き連れてくるのです。

 

山賊はこの美しい女房を相手に未来のたのしみを考えて、とけるような幸福を感じました。彼は威張りかえって肩を張って、前の山、後の山、右の山、左の山、ぐるりと一廻転して女に見せて、

「これだけの山という山がみんな俺のものなんだぜ」

と言いましたが、女はそんなことにはてんで取りあいません。彼は意外に又残念で、

「いいかい。お前の目に見える山という山、木という木、谷という谷、その谷からわく雲まで、みんな俺のものなんだぜ」

「早く歩いておくれ。私はこんな岩コブだらけの崖の下にいたくないのだから」…

  

女は無力ながらも、その美貌で男を操ります。男は正直で知恵がないので、単純に騙されていくのです。

 

体力がもたないことは解りきった事ながらも、男は美しい女に力を見せつけたい一心で、山々を見せて廻ります。けれども男の懸命のアピールはヌカにクギ。女は我儘を吐いてばかりで余裕綽々なのでした。男の力を以ってすれば、彼女をひと思いに殺すことなど造作ないことでしょう。それなのに、女は男より優位に立っている。

 

何故か?

 

それは偏に、彼女が「美しい」から。

 

「お前はもっと急げないのかえ。走っておくれ」

「なかなかこの坂道は俺が一人でもそうは駈けられない難所だよ」

お前も見かけによらない意気地なしだねえ。私としたことが、とんだ甲斐性なしの女房になってしまった。ああ、ああ。これから何をたよりに暮したらいいのだろう」

「なにを馬鹿な。これぐらいの坂道が」

「アア、もどかしいねえ。お前はもう疲れたのかえ」…

 

男は美しい女の機嫌をとるために奔走し、やっと家に着いた頃にはすっかりくたびれておりました。

 

家には七人の女房が待っています。

 

「まア、これがお前の女房かえ」

「それは、お前、俺はお前のような可愛いい女がいようとは知らなかったのだからね」

「あの女を斬り殺しておくれ」

女はいちばん顔形のととのった一人を指して叫びました。

「だって、お前、殺さなくっとも、女中だと思えばいいじゃないか」

「お前は私の亭主を殺したくせに、自分の女房が殺せないのかえ。お前はそれでも私を女房にするつもりなのかえ」…

 

…男はためらいましたが、すぐズカズカ歩いて行って、女の頸へザクリとダンビラを斬りこみました。首がまだコロコロととまらぬうちに、女のふっくらツヤのある透きとおる声は次の女を指して美しく響いていました。

 

…男は血刀をふりあげて山の林を駈け狂いました。たった一人逃げおくれて腰をぬかした女がいました。それはいちばん醜くて、ビッコの女でしたが、男が逃げた女を一人あまさず斬りすてて戻ってきて、無造作にダンビラをふりあげますと、

「いいのよ。この女だけは。これは私が女中に使うから」

「ついでだから、やってしまうよ」

「バカだね。私が殺さないでおくれと言うのだよ」

「アア、そうか。ほんとだ」

 

…ふと静寂に気がつきました。とびたつような怖ろしさがこみあげ、ぎょッとして振向くと、女はそこにいくらかやる瀬ない風情でたたずんでいます。男は悪夢からさめたような気がしました。そして、目も魂も自然に女の美しさに吸いよせられて動かなくなってしまいました。けれども男は不安でした。

 

…女が美しすぎて、彼の魂がそれに吸いよせられていたので、胸の不安の波立ちをさして気にせずにいられただけです。

 

美しい女は、自分以外に女房がいるということが許せません。これは女が元々、都市に住まい常識を知っていたからでしょう。山賊である男には、これがどういう理屈なのか理解し難い。

 

「ついでだから、やってしまうよ」
「バカだね。私が殺さないでおくれと言うのだよ」
「アア、そうか。ほんとだ」

 

男の無知は、女の指示にわけもわからず従うという行動理念のみ受け入れます。男自身、なぜ自分が女の言葉に従うのか、なにが女の言葉に説得力を持たせているのか、まったく知れないのです。

 

彼にとって、七人の女房は自分を認める他者として唯一の存在でありました。彼の自尊心、彼の欲望、彼の充実、すべては女房によって認められていたのです。

 

そいつを今、美しい女の指示に右往左往して殺害してしまった。

 

彼は不安に襲われます。けれども、忽ち傍に佇む美に魅了され、不安は掻き消されてしまうのでした。

 

…なんだか、似ているようだな、と彼は思いました。似たことが、いつか、あった、それは、と彼は考えました。

 

桜の森の満開の下です。あの下を通る時に似ていました。

 

…今年はひとつ、あの花ざかりの林のまんなかで、ジッと動かずに、いや、思いきって地べたに坐ってやろう、と彼は考えました。そのとき、この女もつれて行こうか、彼はふと考えて、女の顔をチラと見ると、胸さわぎがして慌てて目をそらしました。自分の肚が女に知れては大変だという気持が、なぜだか胸に焼け残りました。

 

さて、ここに描かれた女の ー 帰するところ桜の ー「美しさ」と「怖ろしさ」はどこから来ているのでしょうか。

 

男はそれまで愛していた女房を、たったいま出くわした、たった一人の「美しい女」のために斬り殺してしまいました。それだからといって「美しい女」は喜んだり笑みを見せたりで満足しているわけでもなく、ただ遣る瀬のない視線を虚空に浮かべているのです。

 

男は、女の旦那を斬り殺した時点で、女の「美」を手に入れた気分になっていたのでしょう。

 

確かに、あの約束の瞬間には、女の「美」は男の「力」に跪いて従ったのです。しかし、女は男の「力」を試しました。そこで虚勢を張った男の「力」は、いつの間にやら女の「美」に従う形に変わっていたのです。

 

ここに、「美」という何者かの絶対性が描かれているのだと思います。今そこに、女性の「美」を脅かすものはなく、「美」はその驕慢なる魔力を世界の端まで開け拡げているのでした。女は、彼女の存在の裡に「美」を独占し、平時からその視線の向かう先を探しているのでしょうか。

 

 

 

 

それから、男と女の生活が始まります。

 

女の「美」に結びつけられ、操り人形のように働く男。それまでの唯我独尊なる男の性分がそんな生活に納得するのでしょうか。

 

男は納得せざるを得ないのでした。

 

「お前は山男だからそれでいいのだろうさ。私の喉は通らないよ。こんな淋しい山奥で、夜の夜長にきくものと云えば梟の声ばかり、せめて食べる物でも都に劣らぬおいしい物が食べられないものかねえ。

 

都の風がどんなものか。その都の風をせきとめられた私の思いのせつなさがどんなものか、お前には察しることも出来ないのだね。

 

お前は私から都の風をもぎとって、その代りにお前の呉れた物といえば鴉や梟の鳴く声ばかり。お前はそれを羞かしいとも、むごたらしいとも思わないのだよ」

 

女は櫛だの笄だの簪だの紅だのを大事にしました。彼が泥の手や山の獣の血にぬれた手でかすかに着物にふれただけでも女は彼を叱りました。

 

まるで着物が女のいのちであるように、そしてそれをまもることが自分のつとめであるように、身の廻りを清潔にさせ、家の手入れを命じます。

 

その着物は一枚の小袖と細紐だけでは事足りず、何枚かの着物といくつもの紐と、そしてその紐は妙な形にむすばれ不必要に垂れ流されて、色々の飾り物をつけたすことによって一つの姿が完成されて行くのでした。

 

男は目を見はりました。そして嘆声をもらしました。彼は納得させられたのです。かくして一つの美が成りたち、その美に彼が満たされている、それは疑る余地がない、個としては意味をもたない不完全かつ不可解な断片が集まることによって一つの物を完成する、その物を分解すれば無意味なる断片に帰する、それを彼は彼らしく一つの妙なる魔術として納得させられたのでした。

 

女は音楽を知っています。詩を知っています。装飾によって自身を着飾ることも知っています。即ち、女は芸術によって美を表現することが出来る。男は初めて目の当たりにするその魔術を見、無邪気に感動し、尚且つその実直なる眼で観察しているのです。

 

男は次第に、この摩訶不思議で深遠なる人間の技、女の手が紡ぐ美の織物に魅了され、自らの「力」がその一端を担っているということに喜びを見出すようになりました。

 

お天気の日、女はこれを外へ出させて、日向に、又、木陰に、腰かけて目をつぶります。部屋の中では肱掛にもたれて物思いにふけるような、そしてそれは、それを見る男の目にはすべてが異様な、なまめかしく、なやましい姿に外ならぬのでした。魔術は現実に行われており、彼自らがその魔術の助手でありながら、その行われる魔術の結果に常に訝りそして嘆賞するのでした。

 

ビッコの女は朝毎に女の長い黒髪をくしけずります。そのために用いる水を、男は谷川の特に遠い清水からくみとり、そして特別そのように注意を払う自分の労苦をなつかしみました。

 

自分自身が魔術の一つの力になりたいということが男の願いになっていました。そして彼自身くしけずられる黒髪にわが手を加えてみたいものだと思います。いやよ、そんな手は、と女は男を払いのけて叱ります。

 

男は子供のように手をひっこめて、てれながら、黒髪にツヤが立ち、結ばれ、そして顔があらわれ、一つの美が描かれ生まれてくることを見果てぬ夢に思うのでした。

 

物思いに耽る人間の姿、髪の手入れをする女の仕草、そこに漂う魅惑的な香りと耽美なる均整に男は陶酔しています。

 

今も尚、物と物との調和や関係、飾りという意味の批判はありません。けれども魔力が分ります。魔力は物のいのちでした。物の中にもいのちがあります。

 

…彼には驚きがありましたが、その対象は分らぬのです。

 

…そして男に都を怖れる心が生れていました。その怖れは恐怖ではなく、知らないということに対する羞恥と不安で、物知りが未知の事柄にいだく不安と羞恥に似ていました。女が「都」というたびに彼の心は怯え戦きました。

 

魔力とは、物の命。物の命を生かすこと。命を奪い、物品を奪い、それだけで生きてきた、それだけですべてを手に入れた気になっていた自分の傲慢さに、男は気付き始めています。しかし男は決して物事に拘りません。反省ということを知りません。ただ感動し、ただ欲しがり、ただ怖れるだけ。「美」が自らの信じてきた力よりも高踏的であることが許しがたい。そのとき男の目には「美」という力、その曖昧な存在が現実に存在する形…即ち「都」という場の存在が、魅惑的でありながらも憎むべき敵だとして映じていたのです。

 

「都」と「山」とを結ぶ道には、あの「桜の森」が厳然として存するのでした。

 

…彼は女の美に対して自分の強さを対比しました…。

 

「都には牙のある人間がいるかい」

「弓をもったサムライがいるよ」

「ハッハッハ。弓なら俺は谷の向うの雀の子でも落すのだからな。都には刀が折れてしまうような皮の堅い人間はいないだろう」

「鎧をきたサムライがいるよ」

「鎧は刀が折れるのか」

「折れるよ」

「俺は熊も猪も組み伏せてしまうのだからな」

「お前が本当に強い男なら、私を都へ連れて行っておくれ。お前の力で、私の欲しい物、都の粋を私の身の廻りへ飾っておくれ。そして私にシンから楽しい思いを授けてくれることができるなら、お前は本当に強い男なのさ」

「わけのないことだ」

 

男は都へ行くことに心をきめました。

 

…一つだけ気にかかることは、まったく都に関係のない別なことでした。 それは桜の森でした。 二日か三日の後に森の満開が訪れようとしていました。今年こそ、彼は決意していました。 

 

…あと三日、彼は出発を急ぐ女に言いました。

「お前に支度の面倒があるものかね」と女は眉をよせました。

「じらさないでおくれ。都が私をよんでいるのだよ」

「それでも約束があるからね」

「お前がかえ。この山奥に約束した誰がいるのさ」

「それは誰もいないけれども、ね。けれども、約束があるのだよ」

「それはマア珍しいことがあるものだねえ。誰もいなくって誰と約束するのだえ」

男は嘘がつけなくなりました。

「桜の花が咲くのだよ」

「桜の花と約束したのかえ」

「桜の花が咲くから、それを見てから出掛けなければならないのだよ」

「どういうわけで」

「桜の森の下へ行ってみなければならないからだよ」

「だから、なぜ行って見なければならないのよ」

「花が咲くからだよ」

「花が咲くから、なぜさ」

「花の下は冷めたい風がはりつめているからだよ」

「花の下にかえ」

「花の下は涯がないからだよ」

「花の下がかえ」

男は分らなくなってクシャクシャしました。

「私も花の下へ連れて行っておくれ」

「それは、だめだ」

男はキッパリ言いました。

「一人でなくちゃ、だめなんだ」

女は苦笑しました。

 

…彼はひそかに出かけました。桜の森は満開でした。一足ふみこむとき、彼は女の苦笑を思いだしました。それは今までに覚えのない鋭さで頭を斬りました。それだけでもう彼は混乱していました。

 

花の下の冷めたさは涯のない四方からドッと押し寄せてきました。彼の身体は忽ちその風に吹きさらされて透明になり、四方の風はゴウゴウと吹き通り、すでに風だけがはりつめているのでした。

 

彼の声のみが叫びました。

 

彼は走りました。何という虚空でしょう。彼は泣き、祈り、もがき、ただ逃げ去ろうとしていました。

 

そして、花の下をぬけだしたことが分ったとき、夢の中から我にかえった同じ気持を見出しました。夢と違っていることは、本当に息も絶え絶えになっている身の苦しさでありました。

 

女には、桜の怖ろしさがわかりません。それまで女の我儘を聞き入れてきた男が、珍しく女の声に耳を貸しません。まさか男に自分より優先すべき事物があるとは。いったい何が彼を動かしているのか。

 

「桜」でした。

 

しかし、女には桜の怖ろしさがわからないのです。

 

女は苦笑しました。

 

女の苦笑は、美の形式を理解した人間の誇り、自らの所有する「美」に裏付けられた自尊心の表れではないでしょうか。

 

 

 

 

桜の怖ろしさに敗北を喫した男は、女との約束のとおり都に住まいを移します。

 

都に移った女は、奇妙な要求を始めます。他人の家から物品だけでなく、人間の首を獲ってくるように言うのです。

 

…女の何より欲しがるものは、その家に住む人の首でした。

 

…女は毎日首遊びをしました。首は家来をつれて散歩にでます。首の家族へ別の首の家族が遊びに来ます。首が恋をします。女の首が男の首をふり、又、男の首が女の首をすてて女の首を泣かせることもありました。

 

…姫君の首は大納言の首にだまされました。大納言の首は月のない夜、姫君の首の恋する人の首のふりをして忍んで行って契りを結びます。契りの後に姫君の首が気がつきます。姫君の首は大納言の首を憎むことができず我が身のさだめの悲しさに泣いて、尼になるのでした。すると大納言の首は尼寺へ行って、尼になった姫君の首を犯します。姫君の首は死のうとしますが大納言のささやきに負けて尼寺を逃げて山科の里へかくれて大納言の首のかこい者となって髪の毛を生やします。姫君の首も大納言の首ももはや毛がぬけ肉がくさりウジ虫がわき骨がのぞけていました。二人の首は酒もりをして恋にたわぶれ、歯の骨と歯の骨と噛み合ってカチカチ鳴り、くさった肉がペチャペチャくっつき合い鼻もつぶれ目の玉もくりぬけていました。

 

ペチャペチャとくッつき二人の顔の形がくずれるたびに女は大喜びで、けたたましく笑いさざめきました。

 

「ほれ、ホッペタを食べてやりなさい。ああおいしい。姫君の喉もたべてやりましょう。ハイ、目の玉もかじりましょう。すすってやりましょうね。ハイ、ペロペロ。アラ、おいしいね。もう、たまらないのよ、ねえ、ほらウンとかじりついてやれ」

 

女はカラカラ笑います。綺麗な澄んだ笑い声です。薄い陶器が鳴るような爽やかな声でした。

 

女はここで、言葉による創作を始めています。人形劇のような、物語性を持った遊戯を見せているのです。

 

「姫君」の悲哀は、いったい何から想起されているのでしょう。大納言の暴力は、いったい誰を想って形作られているのでしょう。

 

首と首の接吻や、その他肉体の交渉がグロテスクに描かれ、その背景には「薄い陶器が鳴るような爽やかな声」で「カラカラ」と笑う美女の姿があるのです。

 

いったいどうして、女は「人間の首」に拘るのでしょうか。

 

坊主の首もありました。坊主の首は女に憎がられていました。

 

…坊主の首は首になって後に却って毛が生え、やがてその毛もぬけてくさりはて、白骨になりました。

 

新しい坊主の首はまだうら若い水々しい稚子の美しさが残っていました。女はよろこんで机にのせ酒をふくませ頬ずりして舐めたりくすぐったりしましたが、じきあきました。

「もっと太った憎たらしい首よ」

女は命じました。

 

…女の気に入ったのは一つでした。それは五十ぐらいの大坊主の首で、ブ男で目尻がたれ、頬がたるみ、唇が厚くて、その重さで口があいているようなだらしのない首でした。女はたれた目尻の両端を両手の指の先で押えて、クリクリと吊りあげて廻したり、獅子鼻の孔へ二本の棒をさしこんだり、逆さに立ててころがしたり、だきしめて自分のお乳を厚い唇の間へ押しこんでシャブらせたりして大笑いしました。けれどもじきにあきました。

 

美しい娘の首がありました。清らかな静かな高貴な首でした。子供っぽくて、そのくせ死んだ顔ですから妙に大人びた憂いがあり、閉じられたマブタの奥に楽しい思いも悲しい思いもマセた思いも一度にゴッちゃに隠されているようでした。

 

女はその首を自分の娘か妹のように可愛がりました。黒い髪の毛をすいてやり、顔にお化粧してやりました。ああでもない、こうでもないと念を入れて、花の香りのむらだつようなやさしい顔が浮きあがりました。

 

…娘の首のために、一人の若い貴公子の首が必要でした。貴公子の首も念入りにお化粧され、二人の若者の首は燃え狂うような恋の遊びにふけります。

 

すねたり、怒ったり、憎んだり、嘘をついたり、だましたり、悲しい顔をしてみせたり、けれども二人の情熱が一度に燃えあがるときは一人の火がめいめい他の一人を焼きこがしてどっちも焼かれて舞いあがる火焔になって燃えまじりました。

 

けれども間もなく悪侍だの色好みの大人だの悪僧だの汚い首が邪魔にでて、貴公子の首は蹴られて打たれたあげくに殺されて、右から左から前から後から汚い首がゴチャゴチャ娘に挑みかかって、娘の首には汚い首の腐った肉がへばりつき、牙のような歯に食いつかれ、鼻の先が欠けたり、毛がむしられたりします。

 

すると女は娘の首を針でつついて穴をあけ、小刀で切ったり、えぐったり、誰の首よりも汚らしい目も当てられない首にして投げだすのでした。

 

悪趣味です。目の当たりにしたならば、その強烈な臭いと鮮烈な光景に、腹の底から不快感が押し寄せてくるでしょう。

 

もしもここにいる女が美しくなければ、このような描写に熱意を込める作者の気は狂っているのではあるまいかと疑うところです。

 

そうです。女が「美しく」なければ、これは気味の悪い戯れに過ぎません。女が「美しい」という事実だけが、この場面に陰翳を与えているのです。

 

「首」という存在は、人間の「形」を象徴する存在なのだと思います。普通の人間は、人間の首から下だけを見て個体を識別する術を知らないでしょう。

 

人間は、人間の顔の「形」に固執する。

 

「美しい女」と形容した場合、皆さんの頭には「美しい顔」をした女性が浮かぶものであると推察します。

 

美しい身体が横たわって、いやらしく捻れていようとも、そこに悩ましげな表情を持った首がなければ、人間はその物体を人間だとは思えないでしょう。命と性、人間の容姿に取り憑いた「美」を暗示するものとしては、「首」が最も一般的な存在かもしれません。

 

さて、女は美しい容姿を持っています。女は、その美しい容姿と美を表現する技術によって、男の力を従えてきました。男は、女の織りなす美の虜となっているのです。

 

女の首遊びは、都に移ってから発したものです。女は首の見た目に執拗に拘り、飾り付けたり壊したりを繰り返し、すぐに飽きて放り出してしまうのです。

 

これは女の焦燥を表しているのだと取れないでしょうか。形は作られ腐っていく。どんなに美しい形も、時の流れには逆らうことができないのです。山と違い、都には時の流れを感じさせる何かがあるのです。そこでは美が美である間に消費され、醜いものは淘汰されていく。もしかすると女は、自らの身体の衰えや、美を作り出す技術の限界を感じているのかもしれません。

 

それらの問題が、女を狂気的な表現の世界へ誘っているのでしょうか。

 

 

 

 

一方で、女に首を捧げ続ける生活は男に何をもたらしたのか。

 

それは、意外にも「退屈」というものでした。

 

男は都を嫌いました。都の珍らしさも馴れてしまうと、なじめない気持ばかりが残りました。

 

男は何よりも退屈に苦しみました。人間共というものは退屈なものだ、と彼はつくづく思いました。彼はつまり人間がうるさいのでした。大きな犬が歩いていると、小さな犬が吠えます。男は吠えられる犬のようなものでした。

 

…彼は女の欲望にキリがないので、そのことにも退屈していたのでした。女の欲望は、いわば常にキリもなく空を直線に飛びつづけている鳥のようなものでした。

 

…彼はただの鳥でした。枝から枝を飛び廻り、たまに谷を渉るぐらいがせいぜいで、枝にとまってうたたねしている梟にも似ていました。

 

彼は敏捷でした。全身がよく動き、よく歩き、動作は生き生きしていました。彼の心は然し尻の重たい鳥なのでした。彼は無限に直線に飛ぶことなどは思いもよらないのです。

 

男は山の上から都の空を眺めています。その空を一羽の鳥が直線に飛んで行きます。空は昼から夜になり、夜から昼になり、無限の明暗がくりかえしつづきます。

 

その涯に何もなくいつまでたってもただ無限の明暗があるだけ、男は無限を事実に於て納得することができません。

 

その先の日、その先の日、その又先の日、明暗の無限のくりかえしを考えます。彼の頭は割れそうになりました。それは考えの疲れでなしに、考えの苦しさのためでした。

 

…家へ帰ると、女はいつものように首遊びに耽っていました。彼の姿を見ると、女は待ち構えていたのでした。

 

男の退屈、それは「涯のない明暗の繰り返し」に辟易とするような、一種の倦怠感なのでした。

 

男は女の美に魅了された。しかし、いい加減に飽きてしまった。女は焦燥から首を求め続けるだろう。首を求めて、最後に何になるのか。何にもならない。当たり前だ。そんな当たり前の事に、都に住む人間たちはなぜ気付かないのか。何が悲しくて美を作り、美を破壊し、その「明暗の繰り返し」に耽ることができるのか。

 

思案の果て、遂に男は女の要求を拒否します。

 

「俺は厭だよ」

 

女はびっくりしました。そのあげくに笑いだしました。

「おやおや。お前も臆病風に吹かれたの。お前もただの弱虫ね」

「そんな弱虫じゃないのだ」

「じゃ、何さ」

「キリがないから厭になったのさ」

「あら、おかしいね。なんでもキリがないものよ。毎日毎日ごはんを食べて、キリがないじゃないか。毎日毎日ねむって、キリがないじゃないか」

「それと違うのだ」

「どんな風に違うのよ」

男は返事につまりました。けれども違うと思いました。

 

…彼はなぜ、どんな風に違うのだろうと考えましたが分りません。だんだん夜になりました。彼は又山の上へ登りました。もう空も見えなくなっていました。

 

彼は気がつくと、空が落ちてくることを考えていました。空が落ちてきます。彼は首をしめつけられるように苦しんでいました。

 

それは女を殺すことでした。

 

空の無限の明暗を走りつづけることは、女を殺すことによって、とめることができます。

 

そして、空は落ちてきます。

 

彼はホッとすることができます。然し、彼の心臓には孔があいているのでした。彼の胸から鳥の姿が飛び去り、掻き消えているのでした。

 

あの女が俺なんだろうか? そして空を無限に直線に飛ぶ鳥が俺自身だったのだろうか? と彼は疑りました。

 

女を殺すと、俺を殺してしまうのだろうか。俺は何を考えているのだろう?

 

なぜ空を落さねばならないのだか、それも分らなくなっていました。あらゆる想念が捉えがたいものでありました。

 

そして想念のひいたあとに残るものは苦痛のみでした。

 

「空」を無限に飛ぶ鳥。あれは何を目指して飛んでいるのか。直線を引くように飛んでいく、あの鳥。

 

「空の無限の明暗」にはキリがないのだ。だからもうウンザリなんだ。そうだ、「空」を落としてしまえばいい。それは即ち、女を殺すことである。

 

空が落ちてきた。男はホッとしたが、何か空虚な感が胸に風穴を開けている。彼は首が締めつけられるような苦しみを覚えた。彼は既に、無限の明暗を飛び続ける鳥であったのか。

 

空がなければ、苦しくて堪らない。

 

ある朝、目がさめると、彼は桜の花の下にねていました。その桜の木は一本でした。桜の木は満開でした。

 

…彼は鈴鹿の山の桜の森のことを突然思いだしていたのでした。あの山の桜の森も花盛りにちがいありません。彼はなつかしさに吾を忘れ、深い物思いに沈みました。

 

山へ帰ろう。山へ帰るのだ。なぜこの単純なことを忘れていたのだろう?

 

男は決意します。あろうことか、あれだけ怖ろしかった桜に対する「懐かしさ」のようなものが、男の思念を押しやったのです。男は決意を女に伝え、話し合いました。結果、女も一緒に山へ帰ることになります。

 

…二人は直ちに出発しました。ビッコの女は残すことにしました。そして出発のとき、女はビッコの女に向って、じき帰ってくるから待っておいで、とひそかに言い残しました。

 

 

 

 

目の前に昔の山々の姿が現れました。呼べば答えるようでした。旧道をとることにしました。その道はもう踏む人がなく、道の姿は消え失せて、ただの林、ただの山坂になっていました。その道を行くと、桜の森の下を通ることになるのでした。

 

「背負っておくれ。こんな道のない山坂は私は歩くことができないよ」

「ああ、いいとも」

男は軽々と女を背負いました。

 

男は満ち足りた気分で女と話します。男に怖れるものなど一つもありません。「美」の探求という涯のない問いなど、たいした価値もない。男は美しい女を軽々と背負い、山へ向かうのです。彼を脅かす存在、彼を従えようとする存在は、都にも山にもいないことがわかった。それで彼の胸は、幸福に包まれているのでした。

 

…男は桜の森の花ざかりを忘れてはいませんでした。然し、この幸福な日に、あの森の花ざかりの下が何ほどのものでしょうか。彼は怖れていませんでした。

 

そして桜の森が彼の眼前に現れてきました。まさしく一面の満開でした。風に吹かれた花びらがパラパラと落ちています。土肌の上は一面に花びらがしかれていました。

 

この花びらはどこから落ちてきたのだろう?

 

なぜなら、花びらの一ひらが落ちたとも思われぬ満開の花のふさが見はるかす頭上にひろがっているからでした。

 

男は満開の花の下へ歩きこみました。あたりはひっそりと、だんだん冷めたくなるようでした。彼はふと女の手が冷めたくなっているのに気がつきました。俄に不安になりました。とっさに彼は分りました。

 

女が鬼であることを。

 

突然どッという冷めたい風が花の下の四方の涯から吹きよせていました。 男の背中にしがみついているのは、全身が紫色の顔の大きな老婆でした。その口は耳までさけ、ちぢくれた髪の毛は緑でした。

 

男は走りました。

 

振り落そうとしました。鬼の手に力がこもり彼の喉にくいこみました。彼の目は見えなくなろうとしました。

 

彼は夢中でした。全身の力をこめて鬼の手をゆるめました。その手の隙間から首をぬくと、背中をすべって、どさりと鬼は落ちました。

 

今度は彼が鬼に組みつく番でした。鬼の首をしめました。

 

そして彼がふと気付いたとき、彼は全身の力をこめて女の首をしめつけ、そして女はすでに息絶えていました。

 

彼の目は霞んでいました。

 

彼はより大きく目を見開くことを試みましたが、それによって視覚が戻ってきたように感じることができませんでした。

 

なぜなら、彼のしめ殺したのはさっきと変らず矢張り女で、同じ女の屍体がそこに在るばかりだからでありました。

 

彼の呼吸はとまりました。彼の力も、彼の思念も、すべてが同時にとまりました。

 

女の屍体の上には、すでに幾つかの桜の花びらが落ちてきました。彼は女をゆさぶりました。

 

呼びました。抱きました。徒労でした。彼はワッと泣きふしました。

 

たぶん彼がこの山に住みついてから、この日まで、泣いたことはなかったでしょう。そして彼が自然に我にかえったとき、彼の背には白い花びらがつもっていました。

 

そこは桜の森のちょうどまんなかのあたりでした。四方の涯は花にかくれて奥が見えませんでした。日頃のような怖れや不安は消えていました。花の涯から吹きよせる冷めたい風もありません。

 

ただひっそりと、そしてひそひそと、花びらが散りつづけているばかりでした。

 

彼は始めて桜の森の満開の下に坐っていました。いつまでもそこに坐っていることができます。彼はもう帰るところがないのですから。

 

桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分りません。あるいは「孤独」というものであったかも知れません。

 

なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独自体でありました。

 

彼は始めて四方を見廻しました。頭上に花がありました。その下にひっそりと無限の虚空がみちていました。ひそひそと花が降ります。それだけのことです。外には何の秘密もないのでした。

 

ほど経て彼はただ一つのなまあたたかな何物かを感じました。そしてそれが彼自身の胸の悲しみであることに気がつきました。

 

花と虚空の冴えた冷めたさにつつまれて、ほのあたたかいふくらみが、すこしずつ分りかけてくるのでした。

 

彼は女の顔の上の花びらをとってやろうとしました。彼の手が女の顔にとどこうとした時に、何か変ったことが起ったように思われました。

 

すると、彼の手の下には降りつもった花びらばかりで、女の姿は掻き消えてただ幾つかの花びらになっていました。

 

そして、その花びらを掻き分けようとした彼の手も彼の身体も延した時にはもはや消えていました。あとに花びらと、冷めたい虚空がはりつめているばかりでした。

 

坂口安吾桜の森の満開の下」 

 

 

 

 

桜の森の満開の下

 

現代では街並みも整えられ、桜の木も綺麗に並んで咲いています。それは、「満開の桜並木の下」になるのでしょうか。形は溢れている。自然の模倣から始まった、この美しい形の探求。私たちにはむしろ、「形ない物」の方が想像できないのではないでしょうか。手付かずの自然、例えば、富士の樹海のようなあの怖ろしさは、私たちの目の付かない所に隠れているだけで案外近くに存在しているのかもしれません。人間の存在が呑み込まれ、美しい形を、忽ち鬼のような形に変えてしまう何か…。

 

 

堕落論」で安吾は語りました。

 

人間は一度、あらゆる形、決まり事、人間の甘えが掴んでしまうその手枷を破壊して、まっさかさまに堕ちなければならない。

 

また、こうも言います。

 

法隆寺平等院も燃やしてしまって一向に構わぬ。必要ならば作れ。作れぬ形に要はないのだ。

 

悲しい哉、人間は形に媚びなければ美しくなれない。形に収めなければ、そいつが「美」であるとも気付きやしない。

 

山賊の男は、無知であるが故に純粋な審美眼を持っていたのです。彼の眼は美を見極める。醜悪さを批判的に感じ取り、美しいものには、手放しに没頭する能が彼にはあった。

 

醜い形を除し、美しい形だけを追求する。その涯に見るものは何か?「桜の森の満開の下」のような、「ガランドウ」の虚空であるか?

 

トンネルのように、暗闇の涯に光があれば人間は正気のまま進んで行けるのです。

 

空、鳥が一直線を描き飛んで行くあの空。空の涯には何があるのか。「桜の森の満開の下」のように、「無限の虚空」があるのではないか。

 

「外には何の秘密もないのでした」

 

ほら、あなたが掴んでいるその美しい形。何かを縛り付け、動かなくしてしまうその形式。そいつは決して完全ではないだろう。完全ではないにしろ、他と比べていくらか見た目が好いから、あなたはそれを離さぬように掴んでいる。

 

無知なる山賊の気持ちになって見てみなさい。それは醜い鬼かもしれない。しかも、それは永遠に続く美しさではない。いつかは疲れ果て、腐臭を放ち、忘れられていく。はたして、もっと美しいものはどこにあるのだろうか…。

 

…堕ちた。堕ちたのだ。私たちはそうして、底の、さらに底のほうまで堕ちてしまった。深淵と呼ぶに相応しいその暗闇の頭上には、満開の、見果てぬ美しさの、桜の森が見えるでしょう。

 

私には、夕暮れの空が見えています。赤い光に焦がされた影は、一直線にあの暗黒を目指しているのです。

 

 

 

…もう、止めにしませんか?

 

詩人の眼 ー「萩原朔太郎の詩心」

 

 

幼い頃の記憶である。小学校の傍に大きな楠を祀った神社があった。神主さんがいるのかどうかもはっきり知れないほど、人々に忘れられ、寂れた神社であった。

 

小学生の私と数人の仲間たちは、その神社に群れて住んでいる野良猫を可愛がっていた。数十匹はいたと思う。一様に汚らしく、身体中が傷だらけの猫ばかりであったが、たれ差別することなく甘えてくる彼等を、兎も角も私たちは大好きであったのだ。

 

或る日、そこに真白い子猫が紛れ込んでいた。飼い猫のように毛並みが整っており、空を吸い込むような瞳を持っている。その妙霊な美しさを纏った子猫に私たちは一目惚れした。ひとりの女の子が、私たちの間にあった暗黙の了解を破り、この白猫を飼いたいと言い始めるほどの惚れ込みようであった。しかし、飼って独り占めしたいという思いは私たちに共通したものであったので、私たちの恋心は必然的に友情の内へ、あらぬいざこざを招いたのである。

 

その賤しい喧嘩のおかげで、それまで外部に漏らさないようにしていた猫との触れ合いが、各々の両親に知れ渡ることになり、結果として私たちは神社に立ち入ることを禁じられてしまった。

 

あの白猫がその後どうなったか知らないが、あの弱々しい身体で生きていくのは難しいと思われた。生きていたとしても毛並みは乱れ、怪我もするであろうし、あの美しい姿のままでいるという事はないであろう。

 

私は、青年の汚れたセンチメンタルにすっかり埋もれていたその小さな感傷を、寂しい雨の夜に布団を膝にかけた状態で、萩原朔太郎の詩集「青猫」を声にして読んでいて鮮烈に思い出したのであった。

 

恋びとよ

お前はそこに坐つてゐる 私の寝台のまくらべに

恋びとよ

お前はそこに坐つてゐる。

お前のほつそりした頸すぢ

お前のながくのばした髪の毛

ねえ やさしい恋びとよ

私のみじめな運命をさすつておくれ

私はかなしむ

私は眺める

そこに苦しげなるひとつの感情

 

病みてひろがる風景の憂鬱を

ああ さめざめたる部屋の隅から つかれて床をさまよふ蝿の幽霊

ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ

 

恋びとよ

私の部屋のまくらべに坐るをとめよ

お前はそこになにを見るのか

わたしについてなにを見るのか

この私のやつれたからだ 思想の過去に残した影を見てゐるのか

恋びとよ

すえた菊のにほひを嗅ぐやうに

私は嗅ぐ お前のあやしい情熱を その青ざめた信仰を

よし二人からだをひとつにし

このあたたかみあるものの上にしも お前の白い手をあてて

手をあてて。

 

恋びとよ

この閑寂な室内の光線はうす紅く

そこにもまた力のない蝿のうたごゑ

ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ。

恋びとよ

わたしのいぢらしい心臓は お前の手にかじかまる子供のやうだ

 

恋びとよ

恋びとよ。

 

ー 詩集「青猫」より『薄暮の部屋』 萩原朔太郎

 

幼心に寄り添ってきたあの、恋心にも似た儚い慕情。それは、その感情自体を発端とした諍いによって、ばらばらに割れてしまった。以後、私たちは動物に対し、それほどの愛を感じた事があったろうか。動物を嫌う人は多い。なぜなら、人間には動物の思いがわからないからである。理解できないものは怖ろしい。尤もであるが、動物の心というものは、私たち人間の方から寄ろうとしない限り、決して近づき得ないという事もさればこそなのである。

 

朔太郎は言う。「動物は人間にない特種の官能器官を持っているのである」と。

 

「動物は、人間の見ることの出来ない物象を見、人間の聴くことの出来ない音を聴いている」のだと言うのである。そして、詩人としての自分はまるで、意志の通じない人間に向かって泣き叫んでいる動物のようではないか。彼は、そんな悲しみを繰り返し嘆いているのだ。

 

人は何故、詩という言語を忘れてしまうのか。朔太郎は、「天に達する正しい路は感傷の一路である。」という結論を置く前に、次のように語っている。

 

私は私の肉体と五官以外に何一つ得物をもたずに生まれて来た。そのうへ私は、書物といふものを馬鹿にしている。そして何よりきらひなことは「考へる」といふことである。(詩を作る人にとつて、いちばん悪い病気は考へるといふことである。中年の人はよく考へる。考へるといふことを覚えた時、その人は詩を忘れてしまつたのである。)

 

そこで私の方針は、耳や、口や、鼻や、眼や、皮膚全体の上から真理を感得することになつて居る。言はば、私は生まれたままの素つ裸で地上に立つた人間である。官能以外に少しでも私の信頼したものはなく、感情以外に少しでも私を教育したものはなかつた。

 

人間のつくつた学校はどこでも私を犬のやうに追ひ出した。

 

ー「言はなければならない事」 萩原朔太郎

 

私は常々、「詩とは何か?」という疑問を拭えずにいる。言葉によって精密に組まれた世界観の表現は、「物語」という手法で向かうのが妥当であるように思われる。言葉によって厳密で複雑な思想を伝えるならば、論理を手に、問題となる対象とぶつかれば良い。そこで詩は、詩人は何を表現しようとしているのだろうか。詩人と言われている人々は、いったい何の因果で詩という形式を求めるようになったのか。

 

「詩は言葉以上の言葉である」という確信を、この陰鬱な叙情性を纏った詩人は、どのようにして得たのだろうか。

 

詩の表現の目的は単に情調のための情調を表現することではない。幻覚のための幻覚を描くことでもない。同時にまたある種の思想を宣伝演繹するのことのためでもない。詩の本来の目的は、むしろそれらの者を通じて、人心の内部に顫動する所の感情そのものの本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させることである。

 

「月に吠える 序」萩原朔太郎

 

以前、私は中原中也の記事を書いたが、彼もまた、叙情詩という芸術に取り憑かれていた。人が自然や人と対峙し、ある官能が刺激されて感動が起こる。そのときに、人は「ああ!」なる感嘆の吐息を漏らすのであろう。しかし、この叫びのようなものは、私の中の官能的気分を完全に表現してはいないのだ。

 

さて、この感動の正体は何か?

 

素裸で地に立ち、己の五官以外は信用するに足らんと言い切ってしまえば、この感動の正体を見るように努めること以外で、彼が真理に迫り得る路はないのである。

 

彼は呟くだろうか、「神よ、願わくばこの私を純朴なる動物に変身させよ!」

 

彼は代わりに詩という言葉を得たのである。言葉を超えた言葉、リズムと調和を持った言葉を得たのである。

 

人がこれを読み上げれば、それはまるで電流を帯びた物質のように振る舞い、読者の肌、耳、口、鼻、心臓を震わせ、理性や知性と言ったような、人間の作り出した虚構に隠れている切なる感情を抉り出してしまう。そんな不可思議な力を持った言葉を、彼はこの世界で唯一、汚れなく普遍性のものであると確信して手に取ったのだ。

 

人は一人一人では、いつも永久に、永久に、恐ろしい孤独である。原始以来、神は幾億万人という人間を造った。けれども、全く同じ顔の人間を、決して、二人とは造りはしなかった。

 

人はだれでも単位で生れて、永久に単位で死ななければならない。とはいえ、我々は決してぽつねんと切りはなされた宇宙の単位ではない。一人一人にみんな同一のところをもっているのである。

 

この共通を人間同士の間に発見するとき、人類間の「道徳」と「愛」とが生れるのである。この共通を人類と植物との間に発見するとき、自然間の「道徳」と「愛」とが生れるのである。

 

そして我々はもはや永久に孤独ではない。

 

ー「月に吠える 序」萩原朔太郎

 

私は「自己」という存在を関係性の内に見出す。「私」という存在は永久に孤独である。それはもはや疑いようもないが、「私」は私自身を或る世界の中に投入し、そこに「自己」を発見するのである。

 

「私」を取り囲むあらゆる物質、自然や人、動物の総てが「自己」と関係を持ち、私は五官を以て、世界との関係性を感じることが出来る。「関係性」とは一本の綱のようなもので、それはひとまとまりで「関係性」、つまり綱なのであるが、私たちはいかんせん孤独に耐え切れず、関係性の正体を知りたいと急ぎ過ぎて、わざわざ綱を幾千、幾万に切断してから、その断面を嘗めようとしてしまう。

 

実に「自己」と、結ばれている世界との関係性は、一見すると極めて単純なものであり、また同時に、絡み合って複雑なものでもあるのだ。

 

これは、感情と、その感情の波を隆起させる対象との関係性にも共通する真理ではあるまいか。触れることを怖れてはいけない。触れて感ずることなくして、関係性を愛することは叶わないのである。

 

詩は、一瞬間における霊智の産物である。ふだんにもっている所の、ある種の感情が、電流体のごときものに触れて始めてリズムを発見する。この電流体は詩人にとっては奇蹟である。詩は予期して作らるべき者ではない。

 

私どもは、不具な子供のようないじらしい心で、部屋の暗い片隅にすすり泣きをする。そういう時、ぴったりと肩により添いながら、ふるえる自分の心臓の上に、やさしい手をおいてくれる乙女がある。その看護婦の乙女が詩である。

 

私は詩を思うと、烈しい人間のなやみと、そのよろこびをかんずる。

 

詩は神秘でも象徴でも鬼でもない。詩はただ、病める魂の所有者と孤独者との寂しいなぐさめである。

 

詩を思うとき、私は人情のいじらしさに自然と涙ぐましくなる。

 

ー「月に吠える 序」萩原朔太郎

 

夜、毛布の匂いと、肌の擦れる感覚が恍惚として感じられる。こうも静かに黙り込んでいると、時は実際に止まる。空気は凍りつき、長い年月を眠って過ごしてきた化石のように、私は詩も歌えないほどの寂しさに襲われるのである。

 

そんなときに、静寂の隙間から猫の歌声が聴こえてくるのだ。街を彷徨い歩き、疲れ果てた身体を慈しみ合いながら歌っている。どうか、そうやって朝まで歌い続けてくれないか。

 

そう願いつつ、私は眠りについてしまった。

 

朝、座った姿勢のまま目が覚めると、膝の毛布の上に一匹の白猫が、窓からの陽射しに照らされて眠っているのだ。整った毛並みは、光を反射して、人のなだらかな皮膚のように見える。私がこの掌で彼女の顔を包んでやると、空色の瞳を開き、体重を私に預けてくれた。親指で鼻のあたりを撫でる。彼女は二、三度そいつを嘗めると甘噛みをして甘えてきた。微笑むような表情を、私たちは共有していた。

 

私はずっとそこに居たい気持ちであったが、次第に頭がハッキリしてくると、唐突に用があった事を思い出し、立ち上がる。彼女は急に警戒の態度を見せ、跳ねるように窓から逃げて行った。私はすぐに日常へ引き戻されたのである。

 

どうして。私も青猫にでもなって、この部屋を逃げ出したかった。そうして、いつまでも君と触れ合っていたかった。そう考えているうちに、私の幻想は早朝の霧のように消えて行くのだ。

 

ぬすつと犬めが、

くさつた波止場の月に吠えてゐる。

たましいが耳をすますと、

陰気くさい声をして、

黄いろい娘たちが合唱してゐる、

合唱してゐる、

波止場のくらい石垣で。

いつも、

なぜおれはこれなんだ、

犬よ、

青白いふしあわせの犬よ。

 

ー詩集「月に吠える」より『悲しい月夜』萩原朔太郎

 

音楽

 

 

芸術や表現ということを考えていると、あるハッキリとした疑問に必ずぶつかります。

 

学校で習う学問は、問題があれば当然のように答えがあるものが大半でしょう。しかし、ただ習っているだけの私には、当然の裏にどれだけの、意識されずに放られている不可解な事実が隠れているか、そちらの方へ興味が向くことはないのです。解らないものは、解らないという納得の仕方をして、片付けてしまっているのでした。

 

芸術はその性格上の趣向から、抗えず不可解な事実の方へ歩み寄ってゆきます。問題があっても答えはわからない、それまでならばまだ良い方で、世間に溢れる自意識の解放や、内面の露出などの酔狂な表現の殆どが、向かうべき問題さえも見えていないという表情で、まるで吹きつける異常な冷風に気圧された種々雑多な植物たちが、出るべき季節を取り違えて、それぞれの勘だけを頼りに顔を出してしまったというような、異界とでも言うべき景色が見えてくるかのようです。あまりに近くに生えてきた別種の植物どうしが、聞こえないように小言を吐きながら、「個人」という鉢の中にある安泰を求めて叫んでいる。殖えすぎた形式に溺れた者が浪漫を求めていた景色は既に懐かしくもあり、膨張して破裂しそうな浪漫に呑まれた個人は、消えたわけでもない形式の山の中から自身の叫びに似合う形式をさがしだそうと血眼になっているのではないでしょうか。はたして、形式は答えになってくれるのか、蔓延するニヒリズムの前で、形式は単なる個性の容れ物となってしまったのではないか。わたしたちの要求する表情は、そしてその表情の要求する形式は、いったいどこへ消えてしまったのでしょう。

 

ところで、最近の私はというと専ら音楽のことを考えています。芸術の底を覗くと、音と色という悪魔のような恰好をした子供が二人、こちらを見ているのですね。彼らは言葉を持たずにニコニコと笑っているだけで、私が語りかけても、聞いたような素振りは、一応とるのですが、答える積りは微塵もないと言った様子なのです。

 

ドイツの文豪として有名なゲーテは、モーツァルトの音楽を次のように評していたと言います。

 

如何にも美しく、親しみ易く、誰でも真似したがるが、一人として成功しなかった。幾時か誰かが成功するかも知れぬという事さえ考えられぬ。元来がそういう仕組みに出来上がっている音楽だからだ。はっきり言って了えば、人間どもをからかう為に、悪魔が発明した音楽だ。

 

音楽の才能が、たぶん最も早くあらわれるのは、音楽はまったく生まれつきの内的なものであり、外部からの大きな養分も人生から得た経験も必要でないからだろう。しかし、モーツァルトのような出現は、つねに説き難い奇跡であるにちがいない。けれども、もし神が時として我々を驚かせるような、そしてどこからやってくるのか理解できないような偉大な人間にそれを行わないならば、神はいったいどこに奇跡をおこなう機会を見出すだろうか。

 

ー エッケルマン「ゲーテとの対話」

 

若い頃のゲーテは、ドイツにおける、感情の解放、天才の独創を叫んだ文学運動「Sturm und Drang(シュトルム・ウント・ドランク)」の担い手でありました。しかし、ゲーテを分析する学者の間には、彼は浪漫主義を嫌った古典主義者であるという定説があります。この理性に対する感情の優越に呆れ返り、厳格な智者として数々の功績を残した文学者の目が、音楽の悪魔を捉えていたとしても可笑しな話ではないように思えるのです。

 

私はショパンの「仔犬のワルツ」から始まる三つのワルツ(ショパンの作品64は、三曲のワルツで編成され、なかでも64-1は、親しみを込めて「仔犬のワルツ」と呼ばれている)を聴きながら、気儘に跳ねて歌っている浪漫派音楽家に笑われているような気分になっているのでした。現代に名を残す音楽家で、好んで自身を浪漫派とか古典派とかいう観念に縛り付けた者がいたのでしょうか。そのような言葉の復讐は、後になってなんとか彼らの才能を理解しようとした理論家たちの虚しい抵抗であったのではないか。音楽を言葉で捕らえようと懸命になる私たちのような人間は、いつも自分の投げた縄に絡まって身動きが取れなくなるのです。「自分の耳が許す音だけが音楽である」と言い放つ音楽家の前で、私に何が言えるのでしょう。個性や主観の表現には、特殊な心理と感情が伴い、またそれを意識して発見することが必要になります。当然それは、あらゆる経験に対する個人特有の解釈と形式を求め始めるのでしょう。この仕事は比較的簡単に、言葉が果たしてくれることを私たちは知っています。音楽家が音という自分等に特有の材料をわざわざ言葉によって分析し、その運動を理解しようという方向に進んだ結果、そこに不吉な悪魔の姿を見て発狂してしまうという、滑稽とも言える姿を空想してみても、ちっとも笑えないのです。

 

音とは何か。空気の振動である。もっと砕いて言うならば、私たちを取り囲む大気中の物質が、同じく大気中にある物質の振動に影響されることによって波状運動を始め、さらに人間の身体がそれを感知することで捉えられる物理現象である。ここに何か音楽を生む要素があるでしょうか。いや、音楽というものはもっと私たちの側にあるものではなかったか。そのような回りくどい理解をしなくても、私たちの捉える世界は音で溢れているではないか。

 

音にはどうやら、聴いていて心地よい音と、不快な音とがあるようなのです。そこで、音をよく観察してみると、自然に響く音は幾つかの単純な音に分解できるのだとわかる。そうやって刻まれた音階を、再び並べなおすことで旋律が生まれます。ある音を基底に置き、跳ねたり沈んだりさせることで美しい旋律となるのです。これを皆が一様に認識出来るように、時間という概念を幾つかに区分するのでしょう。美術が空間を彩る技術だとするならば、音楽は時間を彩る技術だと言えそうです。そうして、時間をどれくらいの速さで進めようかと考え出されたのが律動であり、主題に深みを増すために音と音の調和を研究した結果、和声という概念が生み出されるのでしょう。

 

このように、楽器演奏の経験の浅い私が、少々乱暴に言葉で説明した音楽という概念も、結局は現在完成されている西洋音楽を聴くことで、逆説的に創作された物語でしかありません。音楽という形式は、たったの一度だけ、空間的に断絶された様々な土地に住む人々によって発明されたのみではないのか。それ以降はそこに言葉の解釈を貼り付けたことで、何かを発明した気分になっているだけなのかもしれないのです。本来は意味のない音の組み合わせという単純な土台の上に、上手くそれを説明するために付属した、素人目にはとても音楽そのものとは思えない形式によって、その骨格を成しているのだと思います。優れた芸術が暗に語るところの、美とも呼べるある目標は、全てこの形式の枠組みの裡に取り込まれているのでしょう。安易に形式を否定したがる浪漫派の人間は、形式を解体し、そこにある残り滓こそが美だという顔をしている。ところが、そいつもよくよく見ると、感覚を麻痺させて涎を垂らした怠惰な表情に見えてくるのです。過ぎ去ったものに縋りたがる古典派の人間もまた、形式を解体し、美の全てを理解したような顔をして澄ましています。ところが、解析されていない新たな美を前にした途端に、肝を潰したような苦笑いを浮かべているのではないでしょうか。父親による徹底した音楽の英才教育で、形式を感覚のレベルまで沈めてしまったモーツァルトは、父に宛てた手紙の裡に、「自分は音楽家だから、思想や感情を音を使ってしか表現出来ない」という実感を告白しています。音楽家にとってあまりに単純で、あまりに深すぎるこの実感は、いまではすっかり忘れられているのではないか。言葉が、人を沈黙に誘い込むような絶対的な美を表現するに至るとき、このモーツァルトに捉えられた素朴な実感のように、ごく単純で素朴な実感に、だんだんと付与されていった言葉が、積もり固まっていく、というような動きをするのだと思うのです。実証や論証によって与えられる自尊心を破り棄て、表現によってその高みへ辿り着こうとする。そんな胆力を絶えずに持った人間だけが、真に美の形式の発明を果たす可能性を握っているのだと思います。多くの形式を全て崩し去ってしまおうと割り切ったような、狡賢い方法の先に真の美があるだろうという根も葉もない約束は、全く幻想に過ぎないのかもしれないのです。

 

実に、音楽の父とも言われるバッハがバロック音楽の時代を牽引し、その後、古典派浪漫派と流れていく音楽史の定説には、長い停滞の流れを、細かに分類したがる学者の短気が表れているように思われるのです。この間に数多の器楽形式が発明されたのは疑いようもなく、父親に「作曲のどんな種類でも、どんな様式でも考えられるし、真似出来る」と無邪気に語るモーツァルトの影さえなければ、堂々たる音楽の歴史に違いありません。

 

「きらきら光る 夜空の星よ」と口ずさんでみてください。この有名な童謡のメロディーは、モーツァルトの手によって新たな十二の顔を見せてくれます。この悪戯っ子の笑い声のようにも聴こえる作品の全体像は、準備された形式を練って苦心の先に出来上がったという趣を感じさせるものではありません。作曲家の耳に聴こえている、星空を一目で眺めたような、完成された姿で表れる音の豊かさを感じることが出来るでしょう。おそらく彼の耳には、自然が提示する多様な和音の美しい響きが聴こえているのです。ある主題の旋律が流れると、たちまちその後に続く無駄のないメロディーの変遷が浮かび上がるというような、凡人にはとても考えられない、また反対に、凡人だからこそ親しみやすいような、端的に表されてしまう美学公式があるのではないでしょうか。

 

音楽を聴いて気持ちが良いのは、私たちに共通して流れている時間の感覚を、巧みに切り取り、最小の表現へ至らしめた形式の美があるからなのです。あるリズムを感じると人間の身体は無意識のうちにそのリズムに合わせようと働きます。身体は次に来る拍子を本能的な時間感覚で掴むのです。それがピタリと嵌れば快感になります。そこで唐突に変化が訪れても不快感があるだけなのですが、音楽は変調にもきちんと自然の美を描くのですね。自然は常に変化するものですが、その変化は崖から落ちるような具合のものではありません。感知されないほどの微妙な勾配を転がるような変化なのです。音楽はその事実を如実に表現にしているのだと思います。

 

星が瞬く、雲が流れる、山が彩りを着替える、雪が溶けていく。時間と共に流れるものは自然に溢れています。世界には常に音楽が流れていると言えるのではないでしょうか。音楽がいつ始まったのかと考えても始末がつきません。つまり音楽は、終わりを表現しているのでしょう。人間がこの世界に悠然と流れている時間を捉えるには、終わりを意識するしか方法がないということかもしれないのです。