倦怠の勿忘草

“汚れつちまつた悲しみは 倦怠のうちに死を夢む”

破壊の中に立つ男 、坂口安吾。 『堕落論』

 

先日、「シン・ゴジラ」を観ました。

 

話題沸騰中の作品ですから、様々な情報を持って座席に着いたのですが、どんなメッセージよりも、どんなリアリティよりも、私が感動したのは、ゴジラによる破壊のシーンだったのです。

 

あのゴジラが神であるならば、それは自然の姿をした神なのでしょう。つまり、被造物としての自然ではなく、ただそこに在るというだけの力で、あの美しき破壊を行ってしまう、いわば、無慈悲な神でありました。

 

足下で行われている人間の行為など気に留める様子もなく、ゴジラはそこに生きているだけです。生きて歩いているうちに、空から何かが落とされ、ゴジラの背中の肉を破りました。ゴジラは本能として自身を守ろうとしたのでしょう。背中は見惚れるほどに強く、青白い光を放ち、顎を割り、眼を閉じて、口から炎を吐き出すのです。

 

私はゴジラの悲しみに共鳴しました。そして、攻撃されてもなお、破壊という恵みを与えている姿に心を揺さぶられたのです。呆然として、ゴジラが立ち止まるのを見届け、この映画はここで終わりだと思いました。再生など描かなくて良い、再生は起こるものだ。人類を救う数人の英雄など知らない。ここで皆がスタンディングオベーション、そして立ち去るべきだと思ったほどです。(そこまでの度胸は持ち合わせておりません。あと、ゴジラの話はここで終わりです。すいません。)

 

破壊、炎、軍隊、映画を観ながら常に思い浮かべるのはやはり戦争。私がそうやって思っていた余計な情報のなかに、「堕落論」というエッセイがありました。小説家である坂口安吾が、戦後の混乱の中で書いた作品です。

 

帰宅して暇ができるとすぐに、「堕落論」を取り出して読みました。

 

偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。それに比べれば、敗戦の表情はただの堕落に過ぎない。ー「堕落論

 

やはり、と思いました。これだ、と思いました。破壊には既に、再生の光が射し込んでいる。見てみろ、ニュースでは、自然災害で命を取り留めた人が、少し興奮した様子で、哀愁の裏に、抑えきれない喜びの表情を覗かせながら、自分の不幸を自慢気に語っている。自然災害で何もかも失って、再スタートを切った人間は、この社会の枠組みの中で、不満気に、用意された道に文句を垂れながら、その道から逸れないように歩いている人間よりも、快活ではないか。

 

隣の大学生が言っていた。こんな大学なら辞めたほうがマシだ。自分の人生はこんなものではなかったはずなんだ。どうして間違ってしまったのか。私はその手の話を案外多く耳にするが、「早く辞めてしまえ」としか思わない。

 

生きるということは実に唯一の不思議である。…堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ。生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道があるだろうか。ー「堕落論

 

安吾は言うのだ。堕落こそが人間を育てる「真実の母胎」であると。生きて堕ちる、それが人間を救う正当な手順であると。

 

現代、人生の正当な手順といえば、義務教育、高校、大学と、まっとうな教育を受け、就活をし、会社に終身雇用されること。それ以外は許されない。それ以外は、世間が許さないのだ。自分の人生こんなものでいいのか?と考えるのは余計な悪あがきである。レールの上で、ちょっとだけ芸術や政治を語り、ちょっとだけ周りと違えばそれで大満足なのだ。

 

安吾ならば、それこそ「堕落」であると言うのだろう。しがみつく理由など、考えてみれば思いつくまい。叩いてやっと出てくるのは、見栄やプライド、世間体とかそこらが関の山で、私にとってそんなのは息苦しい埃であるのみで、吸い込めば途端に咳き込んでしまう。

 

戦時中の日本は嘘のような理想郷で、ただ虚しい美しさが咲きあふれていた。それは人間の真実の美しさではない。そしてもし我々が考えることを忘れるなら、これほど気楽なそして壮観な見世物はないだろう。たとえ爆弾の絶えざる恐怖があるにしても、考えることがない限り、人は常に気楽であり、ただ惚れ惚れと見とれておれば良かったのだ。私はひとりの馬鹿であった。最も無邪気に戦争と遊び戯れていた。ー「堕落論

 

虚構のような高台に立って、驕り高ぶっている人間よりは、全てを失って、恐怖に怯えながらも生きぬこうとする人間のほうが美しい。「人間の真実の美しさ」とは、孤独に曠野を歩いて、ある世界、ある美学を掴み取った人間の美しさなのだろう。美しさを掴んだ彼が、その地に刺した旗を、どこからともなく取りあげて、彼の美学など知らんふりをして、それを振りかざしている人間が最も醜い。

 

レールから逸れないように歩いてきた人間は、これまで真剣に芸術を考えたこともないくせに、ある日、暇になったからといって芸術を鑑賞する。結構である。自由に鑑賞するが良い。しかし、その偉そうな眼鏡は外さねばならない。立場?プライド?そんなものは、美という対象といっさい関係のないものだ。初心ならば、いや、初心ならずとも、初心者の顔で美に対面せよ。

 

なるほど、美は鑑賞するだけで充分であるか。それならば、金だけ払えば何も言わない。しかしだ。美を会得していない心に、美を感じることができるのだろうか。そんなことは知らん。そうであるか。もう言うことはない。

 

戦争に負けたから堕ちるのではない。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。ー「堕落論

 

堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかないものである。ー「堕落論

 

堕ちることで人間は救われる。何から救われるのか。欺瞞からである。社会や伝統、道義とかいうものは、人間を、天に近いという錯覚に誘い込む虚偽だと考えてみる。そして疑うのだ。この高台はいったい何物かと。それは自分で掴んだものか?血を流し、苦しみながらたどり着いた終着点なのか?そこに偽りがあるならば、生きるために堕ちよ。自身を地獄の底に叩きつけるのだ。天へ通ずる道は、地の底からしか続いてはいない。

 

人間の、又人性の正しい姿とは何ぞや。欲するところを素直に欲し、厭な物を厭だと言う、要はただそれだけのことだ。好きなものを好きだという、好きな女を好きだという、大義名分だの、不義は御法度だの、義理人情というニセの着物をぬぎさり、赤裸々な心になろう、この赤裸々な姿を突きとめ見つめることが先ず人間の復活の第一の条件だ。そこから自分と、そして人性の、真実の誕生と、その発足が始められる。ー「続堕落論

 

堕落とは単に、力を抜くことではない。ただ奔放に暮らせばいいわけではない。人間はニセの着物を脱ぐ必要があるのだ。先ず、それからだということである。ニセの着物とは、あらゆる固定観念、立場や利益守るために組み立てられた、人性とは程遠い知識のことである。

 

先ず裸となり、とらわれたるタブーをすて、己れの真実の声をもとめよ。…堕落自体は悪いことに決まっているが、モトデをかけずにホンモノをつかみだすことはできない。表面の綺麗ごとで真実の代償を求めることは無理であり、血を賭け、肉を賭け、真実の悲鳴を賭けねばならぬ。堕落する時には、まっとうに、まっさかさまに堕ちねばならぬ。ー「続堕落論

 

道義頽廃、混乱せよ。血を流し、毒にまみれよ。先ず地獄の門をくぐって天国へよじ登らねばならない。手と足の二十本の爪を血ににじませ、はぎ落として、じりじりと天国へ近づく以外に道があろうか。ー「続堕落論

 

堕落自体は常につまらぬものであり、悪であるにすぎないけれども、堕落のもつ性格の一つには孤独という偉大なる人間の実相が厳として存している。即ち堕落とは常に孤独なものであり、他の人に見すてられ、父母にまで見すてられ、ただ自らに頼る以外に術のない宿命を帯びている。ー「続堕落論

 

悪徳はつまらぬものであるけれども、孤独という通路は神に通ずる道であり、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ。キリストが淫売婦にもぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、この道だけが天国に通じているのだ。ー「続堕落論

 

裸にならなければ、自分の真実の声は聞けない。何かを偽っていて、真実の代償を得ようなど虫のいい話だ。堕落するときには、全てを手放して、受身も取らずに堕ちるべきなのだ。保険をかける人間は甘い。保身のための固定観念は悉く剥ぎ取らなければならない。この意味が、わかるだろうか。

 

堕落は悪にすぎないと言いながら、それを求めるのは何故か。堕落は孤独という人間の実相を連れてくるという。人間は、どうしたって孤独に生きるしか道がない。死ぬ時の孤独をどうして嘆くだろうか。いつだって孤独であったではないか。ひとは自分以外に頼る道を断たれて初めて、努力をはじめるのだ。

 

孤独こそが、神に通ずる道なんだ。善人でさえ往生を遂げるのだ。どうして悪人が往生を遂げることができないだろうか。これは親鸞の説いた孤独の道だ。キリストも淫売婦に礼を尽くす。なぜなら彼女らが孤独の道、天に続く道を歩くからである。孤独が人を育てるとは誰もが言うが、それ以外に道がないとは中々言えない。堕ちぬくほど強い人がいないからである。

 

悲しい哉、人間の実相はここにある。然り、悲しい哉、人間の実相はここにある。この実相は社会制度により、政治によって、永遠に救い得べきものではない。ー「続堕落論

 

痴呆の進んだ老人を、孤独から救うことができるか。それは老人が、孤独に耐え得る強い精神を持つ以外に方法がないのだ。これが人間の実相なのだ。

 

人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。何物かカラクリによって落下をくいとめずにいられなくなるであろう。そのカラクリをつくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。堕落は制度の母胎であり、そのせつない人間の実相を我々は先ず最もきびしく見つめることが必要なだけだ。ー「続堕落論

 

人間は制度なしでは生きていけない。何か掴まっておく制度がなければ、堕ちる勇気さえ生まれないかもしれない。それでも、そのカラクリをくずして、人間は進んでいくのだ。制度にしがみつく人間の実相を、最もきびしく見つめることが必要なだけだ。

 

 

 

 

どうでしたか?真っ暗な闇を思わずにはいられないこの一つの論…私を含め、戦争を知らない人には少し想像しづらいかもしれませんね。中では、親鸞の言葉やキリストの話も出てきました。宗教と堕落とは相反する観念かもしれませんが、その思想を実践していたひとは孤独だったのかもしれません。真っ暗闇のなかを、血にまみれながら歩いてきたからこそ、素晴らしい教えを説くことができたのではないでしょうか。

 

安吾は特に、と言うよりはもはや完全に、日本人に向けてこの堕落論を投げかけています。日本人は特定の宗教を持たないひとが多いですよね。神という概念によって自身を監視し、自律を助けたり、無から有の世界へ導いたりする。私は宗教の意味をそのように考えます。日本人には、この手がかりがないということです。ある意味自由で、ある意味不幸だとも言えると思います。

 

「堕落するときには、まっさかさまに堕ちねばならぬ」

 

安吾は、宗教の導きのない日本人が半端に堕落しているということを見抜いていたのかもしれません。日本人は何をするにも中途半端だと、私も思うことがあります。半端に孤独を求めるくせに、SNSなどで半端な繋がりを求める。半端に現実を語るくせに、半端に理想を抱いている。ゆるーい紐で縛られているのが一番心地がいいものです。しかし安吾は、これを最も堕落した状態であると言っているのだと思います。ひとに合わせたくないと意地をはるくらいならば、孤独を歩いたほうが健全です。どうせ半端に堕ちるならば、いっそ堕ちきってから歩き出すしかあるまい。いや、堕ちきって歩く以外に、真に人間を歩かせる道はないのだ。それが、この「堕落論」の言葉ではないでしょうか。

 

このどこまでも続いているような、深遠なる暗闇の先に、一点の光が見えるでしょうか。

 

最後に、安吾が語る美学を少し考えて締めたいと思います。

 

彼は、美の観念などないのだと言います。人間の生活が充実しており、そこから出た必要で作られた物であれば、そこに美が生まれるのです。『日本文化私観』という論述のなかで「法隆寺平等院も燃えてしまって一向に困らぬ」とまで言っています。壊れてしまっても、必要ならば作ればいい。それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生まれる。なぜなら、そこに真実の生活があるから、だそうです。

 

日本人は、伝統や文化を重んじようと言って、なんでも残そうとしますよね。もし壊してしまって、もう一度作れないような物であるならば、それはもう無用であったと考えるのです。寺がなくても、良い考えを持った僧侶がいるならば、日本文化はなくならない。とても変わった考えですが、間違っているとも思えません。伝統や文化がそんなに大事ならば、自分で作ってみせよと。形が残らなければ消えてしまうような文化など、もう無用であるのではないかと。

 

底知れぬ虚無を実践した小説家、坂口安吾。彼の作品は難解だと言う人もいますが、この「堕落論」を掴んでしまえば、他の作品の空虚感にも実感が生まれるのではないでしょうか。ぜひ、身に刺さるような言葉を味わってみてください。

 

 

 

 

 

虚無であるということ:2 「アンチクリスト」

 

 

虚無とは何か。

 

人間が虚無であるというのはどういうことなのか。

 

ニーチェの話す、「消極的ニヒリズム」を克服するための「積極的ニヒリズム」、この逆説を孕んだニヒリズムは、はたして本当にニヒリズムと言えるのだろうか。

 

消極的ニヒリズムとは、世の中の決まりや人生の手順、そういった運命的なもの、個人の自由意志を阻害するものを厭う気分によって、形式や束縛からの解放を望む思想である。

 

どうにもならない事柄に対し、理想という高台に立って、現実という汚らしい欺瞞に溢れた世界とは関係を切りたいと願っている。なぜ、人間は運命に振り回されなければならないのか。そういう疑問から逃れようのない者が抱く思想なのだろう。いわゆる、「俗世から離れて自由に生きる」という考えだ。

 

キリスト教では、観念的に死を肯定した。善き生をおくった者の死の先には、安楽が与えられると説き、この消極的ニヒリズムに捕らわれた民衆に救いの手を差し出したのだ。現実と人間は汚れているが、それでも隣人を愛し、情けをかけて罪を赦し、自身の罪も償うことで、死後、神によって天へと導かれるというのだ。

 

では、キリスト教のいう罪とは何か。

 

原罪、アダムとイブが神との約束を破り、悪魔に唆されて、「知恵の実」を食べてしまったことで、人間は原罪を背負うことになった。知恵とは、物事の善悪を判断しようとする心の働きである。人間が善と悪を判別しようとしたこと、目を開いて善悪を見てしまったこと、それが罪だというのだ。

 

確かに、善悪を捉えてしまったことが原因で人間は思い悩み、答えのない葛藤に苦しむのであろう。世間が悪に見えてきたとき、ひとは虚無感を抱く。虚無は苦しみを生む。この苦しみを救うものは何か。それは神が決めた善悪、つまり道徳観念だ。世間から退けられた弱者は、世間に敷かれた価値観を、神に示された道徳観念により否定し、死後の世界で強者は悪として裁きを受け、自分は善として救われる。そうした感情がキリスト教の信者のうちにはあるのだ。このような嫉妬心に支配された信仰を、ニーチェは、「ルサンチマン」と呼んで批判したのである。

 

ニーチェ著作「悲劇の誕生」でこう語っている。

 

 

キリスト教の教えは、ひたすら道徳的であり、道徳的であることを欲している。それは、その絶対の尺度をふりまわして、たとえば神は絶対にうそをつかないというだけですでに、芸術を、どの芸術もすべて、虚偽の世界へ追放してしまう、ーつまり、否定し、弾劾し、断罪するのである。

 

キリスト教は始めから、本質的に、また根本的に、生が生に対しておぼえる嘔吐であり倦怠であった。この嘔吐・倦怠が、「もうひとつの」生、あるいは「よりよい」生の信仰のもとに仮装し、正体をかくし、化粧していたにすぎないのである。「現世」に対する憎悪、情念に対する呪い、美と感性に対する恐怖、此岸を一層上手に誹謗するために考えだされた彼岸、つきつめたところ、虚無へ、終末へ、寂滅へ、「安息日のなかの安息日」へ行きつこうという望みーこれらすべては、道徳的な価値だけを妥当させようとするキリスト教の絶対的な意志と同様、私にはいつも、「没落への意志」のありとあらゆる形式のうちでも、一番危険な、一番不気味な形式のように思われた。すくなくとも、生に対する最も深い疾患・疲労・不満・消耗・貧困化の兆候と思われたのである。

 

ニーチェにとって、「生」とは自らの意志と自由によって世界を切り拓くことであり、「知恵の実」を食べたことを罪として、神の呈示した善悪、道徳観念を絶対の価値として信者に押しつけたキリスト教の教えは、理想を描くことで新たな世界を創ろうとする芸術のすべてを虚偽として、否定、弾劾、断罪する教えであったのだ。

 

自らの意志と自由によって世界を切り拓く「生」の力は、隣にある同様な「生」と摩擦を起こす。つまり、隣り合う「生」に対する摩擦、即ち「嘔吐・倦怠」を飾りつけ、「よりよい」生、「もうひとつの」生として、信仰の形をとっているのがキリスト教だと言う。

 

よりよい生を生きているように見せてはいるが、結局それは、現世におけるより強い生を否定し、断罪するための「消極的ニヒリズム」の裏返しに過ぎない。

 

はたしてこれは、キリスト教の教えを否定しきるほどの論理的根拠を示すまでには至っていないが、自分の知性によって善悪を見極めようともせずに、神から呈示された道徳が偶々、弱者にとって都合が良かったというだけで正義の仮面を被り、強者を断罪しようとする信者の精神を、烈しく批判するものである。

 

さて、弱者に都合の良い道徳を説く神とは何者であったのか。無神論者ならば、すぐに合点がいくだろう。神を想像したのは、他でもなく人間である。

 

アダムとイブが知恵の実を食べた後、神は人間を罪から解放する救世主の出現を預言する。

 

弟子の裏切りや民衆の愚かさを嘆きながら、誰を責めることもせず、ただ祈りを捧げていたイエスが十字架に磔にされたとき、人々は彼こそが「イエス・キリスト」であると祀り上げたのだ。

 

イエス・キリストは人間の罪を背負って死に至り、3日後には復活して様々な教えを説いた。」そんなフィクションが、彼を死に至らしめた当の人間の都合によって描かれているのが「新約聖書」であるとニーチェは言う。

 

イエス自身は、自らの知性で素晴らしい思想を築いた賢人である。それはまるで、神が人間の姿を纏い、地上に降り立ったような光景であったのかもしれない。それならば、彼が死んだときに「神は死んだ」のである。復活などしていない。キリスト教信者は目を開けるべきだ。自ら世界を切り拓く以外に、人が幸福を手にする方法はないのである。

 

こうして真実を知ろうとすれば、悪魔に取り憑かれていると言って制裁を加えようとする。もはや、何が善で、何が悪であるかなど関係はなく、邪教であるか正教であるか、それだけが問題になってしまった。この考えが、現代も多くの争いを生み出しているということは、疑いようのないことに思われる。

 

 

 

 

 

…はい、ニーチェキリスト教を批判していた理屈が少しでも伝わったでしょうか?

 

突然、文語調に変わったので読みにくかったかもしれないですね。それだけ私が慎重に書いたのだと理解していただければ幸いです。

 

「消極的ニヒリズム」として、キリスト教が批判されているというところまではなんとか行き着いたと思います。

 

では、ニーチェが求める「積極的ニヒリズム」とはどういうものなのか。

 

それはまた次の記事で書いていきたいと思っています。

 

この記事の内容はともかく、聖書に書かれている言葉はとても深みのあるものばかりなので、読んだことのない方は、一度読んでみるとおもしろいかと思います。

 

ニーチェが言いたいことはいつも、誰かの言葉を真に受けるのではなく、自分の知性と感性を働かせて考えろ、ということなのです。

 

 

 

 

美を求める心

 

「美を求める心」とは、批評家である小林秀雄によって書かれたエッセイです。数ある彼のエッセイのなかでも、小・中学生向けに書かれていると言われているので、難解な表現は少なく、誰にでも読み易い内容となっています。

 

このエッセイは、彼がよく若いひとから受けるという、ある素朴な疑問からはじまります。それは「絵や音楽はどう鑑賞したら良いのか?」というものです。

 

この疑問を聞いて、何を言っているのか、と一笑に付すのは簡単ですが、これに答えられるひとは少ないのではないかと思います。

 

絵をみても、音楽を聴いても、その感動は胸に起こるものであって、例えどんなに伝えることが達者なものがあったとしても、他人がどのように感動しているのか、一切理解できないのが人間のコミュニケーション能力の限界というものです。

 

他人がどのように感動しているかもわからないのに、いったいどのようにして、音楽、絵画の鑑賞のいろはを掴めばよいのか、考えてみれば、これは自然な疑問かもしれません。

 

いずれにせよ、一度もそのように考えたことのないというひとより、この疑問に捕らえられてどうにもならないと踠いているひとのほうが、誠実に芸術と向き合っているように思えます。

 

これに、小林秀雄はどう答えたか。それは一言で済む話でした。

 

何も考えずに、沢山見たり聴いたりすることが第一だ

 

何だそんなものか、と思いますでしょうか。ところがもう少し読み進めると、どうにもこれは、簡単にみえて、そう都合の良い話でもないようなのです。

 

極端に言えば、絵や音楽を、理解するとかしないとかいうのが、もう間違っているのです。

 

「そう言ってしまえば、もうそれで結構だ」などとは言わずに聞くのです。このエッセイを最も聞くべき人間は、そういう早計な人間だと思います。

 

先ず、何を措いても、見ることです。聞くことです。そういうと、そんな事は解り切った話だ、と読者は言うでしょう。処が、私は、それはちっとも解り切った話ではない、読者は、恐らく、その事をよくよく考えて見たことはないだろうと言いたいのです。

 

彼は言います、絵をみて、難解だ。簡単だ。といっているのは、ひとがそれに見慣れているかいないかの問題に過ぎないと。見慣れてくれば、ひとはもう解らないとは言わないのだろうから、頭を働かせるより、眼を働かすことが大事であると。

 

ぼくは現代の芸術をみて、難解だと思います。なぜ難解かと言うと、芸術の表現が向くところが、個人の、より内的な、より深遠な感覚世界に変わったからだと思うのです。それをおもしろがっているひともいるようですが、一般には理解し難いということを逆手にとって、「難解であればよい」という逃げ道ができているようにも感じます。そこで、共感というやりかたで感動しようとするならば、芸術の評価は、単に、好きか嫌いか、という好みの話になってしまうようにも思えるのです。

 

芸術はどこまでも分野を広げ、芸術家はどんどん自然な感動から離れていくのかもしれません。それはおもしろくない。なぜ、おもしろくないかと言うと、芸術の感性が特異であればそれだけ良いとされてしまうような土台では、芸術家は表現の純化よりも、表現の多様化を追い求めるほうに走りたくなるからです。

 

表現の多様さは、表現者の多様さに任せておくべきで、ひとりの表現者がより広くあろうとして、表現のひとつひとつが浅い表現となってしまえば、芸術の萎縮になろうと言っても、大袈裟な預言として笑えないように思います。

 

鑑賞する側に立ってみても、あまりに日常的感覚から離れてしまった芸術を鑑賞して、正直な者は「よく解らん」と言い、軽率な者は神妙な面持ちで、「言葉では表しきれぬ」と感嘆した振りをするようになるのではないでしょうか。

 

芸術の深遠たる所以は、その洞察が深く、遠くまで及んでいるからであり、なんでもかんでも構わないから、我儘な性癖を露出しておけば、意味深で、表面を舐めたような人気が取れるというものではないでしょう。そんな評論が私のなかに湧いてくるほど、浅はかな芸術の世界ではなかったはずです。

 

見るとか聴くとかいう事を、簡単に考えてはいけない。……頭で考える事は難しいかも知れないし、考えるのには努力がいるが、見たり聴いたりする事に何の努力が要ろうか。そんなふうに、考えがちなものですが、それは間違いです。見ることも聴くことも、考えることと同じように、難しい、努力を要する仕事なのです。

 

音楽家は、音を聴く。画家ならば、色を見る。それぞれ、一般と同様に見たり聴いたりしているのではなく、反復した訓練と努力の結果、普通では見分けることのできない色の調子や、聞き分けることのできない細かな音の違いを感じているに違いない。そういう眼や耳を持ったひとの、色や音の組み合わせなのだから、ただぼんやりとしていれば、絵は自ら眼に写ってくる、音楽は耳に聴こえてくるというようなことはあり得ない。

 

あまりに単純明解な話に、拍子抜けするようですが、自分の身に立ちかえって考えてみると、こんなに納得のいく芸術論は他にないと思います。

 

こんな、芸術論というまでもないようなことが、私たちには忘れられているのではないでしょうか。

 

批評家として見ることを純化して考えた彼だからこそ、それこそ批評家独特の、訓練と努力の結果、見えたことなのかもしれません。

 

話は、見ることについて、さらに深く掘り下げます。

 

特になんの目的もなく物の形だとか色合いだとか、その調和の美しさだとか、を見るという事、謂わば、ただ物を見るために物を見る、そういうふうに眼を働かすという事が、どんなに少ないかにすぐ気が附くでしょう。

 

眼が普段、どういうふうに働いているか、考えてみなさいと言うのです。時計を見る眼は、時間を、時刻を示す針を見るために働きます。林檎は食べるものだ、椅子は座るためにある。そういって、林檎がどのような色合いをしているか、椅子がどんな形で成り立っているのか、はっきりと見定めるひとは少ないのだと。

 

絵画をみるときにも、そのように見て、終いになってはいないでしょうか?

 

「なんだ、絵画だ。なんちゃらという名の画家が描いたらしい。彼はちょっと頭がおかしくて、逆立ちしてこの絵を描き上げたそうだ。ふぅん…。」

 

これでは、彼が絵の具の色を使って、いったい何を表したかったのか、ひとつもわからないでしょう。逆立ちして描いたのは、きっと、逆立ちしなければ見えない何かを掴んでいたからなのです。画家が見るために努力したことを、鑑賞者は笑いながら眺めて、「そんなものか」と通り過ぎてしまう。これではいけないのではないか、と彼は言っているのだと思います。

 

 

この一文は有名です。読めば読むほどに新たな景色を見せてくれます。「へぇ、そうなんだ。」の先があります。その世界こそ、芸術の世界なのだと思います。

 

何んだ、菫の花だったのかとわかれば、もう見ません。これは好奇心であって、画家が見るという見る事ではありません。画家が花を見るのは好奇心からではない。花への愛情です。愛情ですから、平凡な菫の花だと解りきっている花を見て、見厭きないのです。

 

考えてください。あなたが、私が、何か芸術を見に行くとします。身近な例を挙げるならば、映画やアトラクションでしょうか。その動機は何でしょう。感動を求めて、と言ってみます。では、美を求めて、と言うひとはいるでしょうか。

 

いつの間に私たちは水族館や博物館に行くような気持ちで、芸術を見ていたのでしょうか。これは、好奇心を満たしたいからなのです。好奇心と言えば聞こえはいいでしょうが、野次馬精神から、と言い換えたらどうでしょう。

 

そのくらい簡単に、私たちは言葉に誑かされています。

 

美には、人を沈黙させる力があるのです。これが美の持つ根本の力であり、根本の性質です。絵や音楽が本当に解るという事は、こういう沈黙の力に堪える経験をよく味わう事に他なりません。ですから、絵や音楽について沢山の知識を持ち、様々な意見を吐ける人が、必ずしも絵や音楽が解った人とは限りません。

 

現代の人はよくしゃべります。お茶の間でテレビを見ながら、よくしゃべります。ライブを見ながらスマホを持って、よくしゃべります。私はおしゃべりは下品だと思います。彼の言うことを無邪気に受けるならば、真に美を求める者はあまりしゃべらないものだと言えるかもしれません。しかし、批評家とはよくしゃべる人種でしょう。一見すると矛盾しているこの事実に、私は彼の批評精神の深さを感じるのです。

 

 

 

 

彼はこのエッセイで、言葉についても言及します。感動は言葉にならないかもしれない。美しさを味わうのに、言葉が邪魔になるかもしれない。ならば詩人は、詩人はどうして、美を言葉で表現しようとするのか。そこにも詩人の工夫があるのだと言うのです。

 

詩人は、日常、私たちが使っている言葉を使う以外に表現のしようがありません。ならば、言葉の表現する力を、最大限に引き出すように工夫をするのだと言います。

 

先に、見ることを反省したように、日常的に言葉を使うことを、反省してみてください。言葉とは、何か要件を相手に伝えるために発せられ、相手に事が伝わったならば、消えていく。つまり、言葉とは、人間の行動と理解との為の道具なのだという事に気附いてください。そうして、話は次のように続きます。

 

ところで、歌や詩は、諸君に、何かしろと命じますか。私の気持ちが理解できたかと言っていますか。諸君は、歌に接して、何をするのでもない。何を理解するのでもない。その美しさを感ずるだけです。何の為に感ずるのか。何の為でもない。ただ美しいと感ずるのです。歌や詩は、解って了えば、それでお了いというものではないでしょう。歌や詩は、わからぬものなのか。そうです。わからぬものなのです。この事をよく考えてみてください。……歌は、意味のわかる言葉ではない。感じられる言葉の姿、形なのです。言葉には、意味もあるが、姿、形というものもある。ということをよく心に留めて下さい。

 

歌は溢れています。音楽との共鳴という形ではありますが、私たちは歌に囲まれて暮らしていると言ってもいいでしょう。しかし、感じられる姿、形を持った歌が、まさにそのように感じられていることはあるのでしょうか。

 

ひとは歌詞を聴いて、この歌詞の意味はどうだとか、実は裏にこんな意味が隠れているのだとか、そんなことばかりを話し、言葉の感じが美しく、心にどのような景色が見えたとは言いません。そもそも、そのような描かれ方をして生まれた歌詞がどれだけあるのか、というのも疑問です。

 

意味を伝えることばかりが重要視され、おしゃべりを喚起するために書かれているような歌詞が多いようにも感じます。

 

私達の感動というものは、自ら外に現れたり、叫びとなって現れたりします。そして、感動は消えて了うものです。だが、どんなに美しいものを見た時の感動も、そういうふうに自然に外に現れるのでは、美しくはないでしょう。……悲しみの歌を作る詩人は、自分の悲しみを、よく見定める人です。悲しいといってただ泣く人ではない。自分の悲しみに溺れず、負けず、これを見定め、これをはっきりと感じ、これを言葉の姿に整えて見せる人です。

 

ひとの感動は醜いものだ。ひとの叫びは美しく聞こえてはこないだろう。では、なぜその醜いものを表現した芸術は美しいのか。それは、芸術家の見る世界、聞く世界が、私たちのそれとはまるで違っているからなのかもしれない。その変換には、訓練と努力が必要なのでしょう。

 

芸術の伝統を壊したいなら、壊せばいい。壊したほうが美しいと思うならば、壊せばいい。しかし、自然に起こる感情を、ありのままの叫びの姿を、美しいと言って片付けてしまうのは、怠慢とは違うと言えますか。いや、言えなければいけない。芸術家とは、そういうものだと、私はこのエッセイを読んで思いました。

 

現代の虚無感のなかで、若い人はみんな、自然に帰りたがっているのではないか。難しいことはできるだけ避けたい。いつか死んでしまうのだから、いまを一番心地よい状態で過ごしていきたい。

 

そうなれば芸術だって、より享楽に沿ったものが良い。そういうものばかり求められているのも頷けることです。

 

しかし、ありのままで生きていけるのは、あなたがしあわせだからでしょう。そのような希望は、不幸のなかには起こり得ない。

 

自分さえしあわせならばそれでいいと言っているように、自分の醜い姿を、醜い裸を、晒して何が悪いか、ということではありません。

 

芸術は、そんなに単純な世界ではない。

 

美しさとは、見ようとするひとにしか見えないのです。

 

詩人は、自分の悲しみを、言葉で誇張して見せているのでもなければ、飾り立てて見せるものでもない。一輪の花に美しい姿があるように、放って置けば消えて了う、取るに足らぬ小さな自分の悲しみにも、これを粗末に扱わず、はっきり見定めれば、美しい姿のあることを知っている人です。悲しみの歌は、詩人が、心の眼で見た悲しみの姿なのです。これを読んで、感動する人は、まるで、自分の悲しみを歌って貰ったような気持ちになるでしょう。悲しい気持ちに誘われるでしょうが、もうその悲しみは、不断の生活のなかで悲しみ、心が乱れ、涙を流し、苦しい思いをする。その悲しみとは違うでしょう。悲しみの安らかな、静かな姿を感じるでしょう。そして、詩人は、どういう風に、悲しみに打ち勝つかを合点するでしょう。

 

どうしようもない悲しみが突然、私を襲うかもしれない。ある夜に音もなく忍び寄るその影に怯えるとき、私たちは歌を聴いて心を落ち着かせます。

 

詩人は、動き回るその悲しみに、ある美しい形を見出して、その形に固めてみせる技を持っているのです。悲しみを忘れ去るために踊るのではなく、悲しみ克服するために、じっと対象を見つめているのです。

 

現代の虚無感のなかで、叫びを抑えきれないあなたは、悲しみから逃げ出すのか、悲しみを捉えてしまうのか、どちらを望みますか。

 

私は、美の問題は、美とは何かという様な面倒な議論の問題ではなく、私たちめいめいの、小さな、はっきりとした美しさの経験が根本だ、と考えている…。美しいと思うことは、物の美しい姿を感じる事です。美を求める心とは、物の美しい姿を求める心です。

 

彼は、この美しい姿を感じる能力は、誰にでも備わっており、「美を求める心」は誰にでもあるのだと話します。

 

ただ、現代のように、知識や学問に重点を置く状態では、この能力がどれだけ貴重であるかということ、これを養い育てようとすれば衰弱してしまうということを知る人が、少なくなってしまう。

 

現代は物の性質を知りたがる、物の性質を知る道とは、物の姿を壊す行き方をする。そのために、例えば花の姿を感じる能力を、知らず識らずのうちに疎かにするようになるのだ。

 

彼は戦後に活躍した文士ですが、彼の言葉は現代の日本の姿を予見して、危惧していたのです。科学に支配され、唯物論に根ざした感性が、観念を迫害し、いよいよ「美を求める心」は萎えきっているのではないでしょうか。

 

一輪の花の美しさをよくよく感ずるという事は難しい事だ。

 

花をみて、綺麗だというのは簡単です。しかし、花の美しさに感じ入り、その感性を愛情によって心に留めておくことは難しい。

 

花を愛する者が、日常では隣人の弱さに苛立ち、愛を見失っているということは、よく見られると思うのです。

 

神経質で、物事にすぐ感じても、いらいらしている人がある。そんな人は、優しい心を持っていない場合が多いものです。そんな人は、美しい物の姿を感ずる心を持った人ではない。ただ、びくびくしているだけなのです。ですから、感ずるということも学ばなければならないものなのです。

 

いらいらしていることを、感性が豊かなだけだと言い逃れしていることがあるが、それは違っている。すぐに苛立つ感性は豊かなのではなく、怯えている何かに、過敏となっているに過ぎない。

 

物の姿を感じる心は、寛容な心と似ているのではないでしょうか。どんなに醜く、自分の利益を害するものがあったとしても、そこにある美しい姿を感じることができたならば、いらいらせず、すぐに許せるものなのです。泣いているひとの心を、優しく包み込めるものなのです。

 

そして、立派な芸術というものは、正しく、豊かに感ずることを、人々に何時も教えているものなのです。

 

個人の自由を叫ぶのも良い、性癖を晒すのも良い。ただ芸術の普遍的な価値とは、隣人との共感、隣人との共感への感動であり、それを美しい形として表現している芸術は素晴らしいものだと思います。

 

孤独のうちで泣いている、怯えた小さな心を、掬い取り、抱きしめてあげられる表現ほど、美しい姿を持った表現はないのだと、私は思うのです。

 

小林秀雄は批評家ですが、芸術の上に立って蹂躙してやろうとしているのではないのだと、彼の文章を読んだことのある方は理解できるかと思います。

 

私は、彼の文章を読んで感動してしまいます。それは、彼が見出した美を、彼の言葉が表現し、私の心のうちにありありと、その美しい姿を示して見せたからなのでしょう。

 

批評とは、物の姿を破壊し、分析して欠陥を探し出し、否定する、というものだと思われているかもしれませんが、彼の批評は、まるで詩人のように、感動の対象を描いてみせるのです。そこが彼の仕事の欠陥でもあり、また、ひとを惹きつけて止まない魅力なのかもしれません。

 

彼はこのエッセイによって、優しい表現で、誰の心にもある「美を求める心」を掬い出してくれました。

 

私は、「美を求める心」というものはつまり、「生きる力」だと言いたいのです。

 

どんなに暗い闇のなかからでも、どんなに深い悲しみのなかからでも、美を見つけ出し、表現してしまう力、これは決して、人生を楽観しているのではありません。人生に起こる悲しみも、悦びも、その姿を誠実に捉えることで、それに打ち勝つのです。

 

もしも、周囲の人間を軽蔑し、孤独に鬱ぎ込んで泣いているひとがいるならば、一度、このエッセイを読んでみてほしいのです。

 

そうして、様々な芸術を、ここに書かれていることを意識しながら感じてみると、勇気が湧いてくると思います。

 

あなたと同じような悲しみを、自分の身など顧みずに見つめ続け、固めてしまった勇敢な芸術家の姿が見えるようになってしまえば、彼らと対話してみたくなると思います。

 

何でも相談のできるような、信頼の置ける人間が見つからないと嘆いているのならば、過去に同じ苦しみを噛み尽した人間が沢山いるのだということを知ってください。そうすれば少しだけ、躰が軽くなるのではないでしょうか。

 

 

 

 

虚無であるということ

 

 

虚無と聞いてなにを思いますか?

 

 

「ニヒルな笑い」なんて言うとなんだかかっこいいですね。「ひとはみんなニヒリストである」なんて考えた上で世界を観察すると、案外おもしろいとか聞いたことがあります。やってみると随分つまらない世界になりました。空想としてはおもしろいかもしれませんが、ただの冗談で済みそうになかったので止めました。

 

それはともあれ、いまほど「虚無」という言葉の比重が軽くなっていることがあったのでしょうか。

 

ちょっと痛い男子の抱く偶像みたいな扱いを受けているように思われるのです。そうでなくとも、世に溢れる知識人との対比として、単純に阿呆、教養がなく、夜中に街をふらついているような不審者という感じで、人々の嘲笑の的となりつつあるような空気が、確かにあるのだと思います。

 

それとは反対に、ひとが真面目にこの言葉を使うときには、そこに畏敬の念が込められているということを感じないでしょうか。

 

私は考えました。この違いはどこにあるのだろうか?

 

…いったい半端者の私が、どんな立場でそれほど深遠なテーマに挑んだのか…。

 

疑問は拭えませんが、取るに足らない愚か者の戯言だと思って聞いていただければ幸いです。

 

 

虚無。

 

 

それほど難しい言葉ではありませんね。「虚ろ」と「無」、似たようなイメージの言葉に「空」があります。中身がない、からっぽ、ゼロ、色は白や黒を思い浮かべるでしょうか。

 

調べてみましょう。「なにも存せず、むなしいこと。空虚。特に、価値のある本質的なものがないこと。」…やはり、「むなしい」「空虚」という言葉を使わざるを得ないようです。それほど、この言葉の意味が独自のイメージを持っているのだと思います。

 

さて、ニヒリズム虚無主義)と言うと、これは思想になります。この世界に存在するあらゆるものに価値や意味を認めないという思想です。過去、または現在において、人間が存在しているということに意義や目的、納得できるような真理、本質的な価値なんてないんだよ、という、なんだか絶望を感じさせるような考えのことで、聞いていると「じゃあ私たちは何の為に生きてるの?」という疑問を抱いてしまいそうです。というか、それ(虚無主義)しか信じられるものなんてない、といった感じですか。何か開き直っている印象もありますね。

 

 

さらに哲学の世界を見て行きましょう。

 

 

哲学の世界でこの価値観を確立したのは、フリードリヒ・ニーチェだと言われています。

 

ニーチェニヒリズムにもふたつの態度があると言うのです。

 

まずは、消極的ニヒリズムです。

 

ひとが何も信じられないような状況に絶望し、疲れきってしまったために、あえて自分の置かれた状況に抗わず、流れるままに生きるというような考えです。受動的ニヒリズム、弱さのニヒリズムとも言われています。

 

もうひとつは、積極的ニヒリズムです。

 

こちらは、消極的ニヒリズムを克服しようとするニヒリズムという意味で積極的なのです。全ては無価値、偽りばかりで、仮の形しかとらないものであると認めた上で、自らが生きていくその時々の場面に応じて、その無価値な抵抗を続けていこうという考えで、能動的ニヒリズム、強さのニヒリズムとも言われています。

 

と、ここまで来たのですが、私が初めに問題提起した内容がニーチェニヒリズムを調べることによって簡単に説明されてしまいましたね。

 

つまり、ひとの嘲笑の的となるようなニヒリズムは「消極的ニヒリズム」であり、ニーチェに言わせれば、まだまだ未熟だ、ということなのでしょう。

 

逆に、成熟したニヒリズム、畏敬の念を周囲に抱かせるようなそれの正体は「積極的ニヒリズム」だったのです。

 

どうやら、虚無という言葉を正確に掴むには、ニーチェの哲学を考えると良いみたいです。

 

というわけで、ニーチェ的なニヒリズムを考えていきます。

 

…えぇ、実は私、ここまで見切発車で来たのでした。

 

虚無についての単純な興味と疑問が私の中にあったのでこの記事を書き始めたのですが、まさかニーチェに行き着くとは…!

 

…感動しているのです。つまり、ニーチェ虚無主義に近いとは知っていましたが、私の疑問を解く鍵を彼が握っているなんて予想外だったのです。

 

こうやって知識ってのは広がっていくんだな!という実感に震えながら書いていきますので、些細なミスは見逃してください。

 

ニーチェニヒリズムについて書いていく過程で、彼のキリスト教批判にまで考えを及ぼす必要があるのですが、どうやら長くなりそうなので一度ここで切らせていただきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自意識

 

「自意識」という言葉があります。

 

自分という存在がある、という意識です。自我の存在を信じる意識のことを言います。

 

私はこの言葉を聞くと、「なんと自意識過剰な言葉だろう」と思うのです。自意識という言葉に意識を向けているとき、ひとは正に自分という存在をみつめているのでしょう。自意識について悩むということは、自分という存在の意味や価値、即ち「私はどうして生きるのか?」と問うているのだと思います。

 

私はこの文章を、自意識過剰な人間への妙な愛着さえ持ちながら書いているのです。決して非難したいのではないということを理解していただきたい。しかし、この厄介な意識の扱い方が未熟だと、人間はどうも浅はかな、卑屈な目しか持てないようだと、私は感じています。

 

自意識を持つということは、他人からの視線や評価を気にするということです。自分という存在は他人によって固められなければ掴めないのでしょう。鏡がなければ、誰も自分の顔を知らないのに似ています。しかしながら、鏡に映った自分が本当に自分なのか、そういった悩みはありふれていますが、皆、どこかで諦めるのでしょう。本当の自分など、どう足掻いても掴めるわけがない。そうやって、まるで他人事のように自我を捨て去るのです。それが成熟だとあなたはいいますか。しかしそれは単に自我の放棄です。自分の存在をあたかも存在しないものであるかのように扱い、それを他人にまで押し付けようとしているに違いない。あまり身勝手ではありませんか。彼らには、自我を持った人間など邪魔者でしかないのです。変な欲求を呼び起こす悪魔なのです。悪魔ならば殺してしまえ、いいやそれは悪魔なんかではなく、より人間らしい人間なのです。

 

自我は正しく観察されなければなりません。捨ててもよいわけなどなく、捨てたほうがよいと思えるのは、正しく自我を掴めていないだけなのです。ひとには自分の存在を表現する自由があって然るべきではないか。そして、自我の観察が他人に依存せずに行える方法といえば、自我を試しに潰してみるしかないように思える。潰して滲み出た中身の様相を、ただ誠実に描写せしめること。誰がやるのか?あなた自身に決まっている。潰された痛みは誰に来るのか?あなた自身に決まっている。それでも、それをしなければ、どうしても他人と比べることでしか、自分を掴めません。他人と比べる根性は、卑屈にならざるを得ないのです。他人と比べられた自我は、嫉妬します。自分がどこにもないのは、他人のせいだと思い込みます。自分があることを、必要以上にアピールします。そうして認められなければ、憎みます。自分の能力以上のことを、偽って他人に認められようとします。自らの仮象を作って、壊されたなら怒ります。都合に合わせて、あれは本当の自分ではないと言い出します。そして、本当の自分はもっと魅力的であると、そんな虚栄心からまた新たな仮象を作ります。

 

 

 

 

つまり、言いたいことはひとつです。卑屈にならないための自己表現をしなさい。何も偽らない自己表現をしなさい。それによって生じる苦しみは必ず自我を成長させると信じることです。苦しくないような表現などがあるならば、そこにはきっと偽りがあるのです。逃げ道を作ってはならないのです。逃げ道が、自我を逃します。そうしてあなたは、いつまでも自我を逃し続けているのです。

 

性善説と性悪説

 

よくある話です。

 

人の本性は悪であるか、善であるか。

 

この話題になると、私は性悪説の感覚に共感します。なぜなら、そちらのほうがひとの心に反省する姿勢を生むからです。悪いことをしたなら反省をして、善いほうに改めようとするのが人間の在るべき姿だと思います。

 

  • 善悪を決めたのは人間

 

この議論では、まず「人間の善悪を判定するのは人間である」ということを確認する必要があります。したがって、個人の都合や立場によって意見を分けるのは禁物なのです…とはりきってみたところで、これは議論の基本なので、当然、動かしてはいけません。

 

  • それぞれの説の確認

 

性悪と性善の議論がどのようなものであったのか、ここで再確認します。

 

順序でいうと、孟子性善説を説いたのが先になります。内容は次の通りです。

 

人は生まれつき、善を行うような性質を持っており、悪とはこの性質を隠したり、汚したりすることで生じるものである。

 

これに対し、荀子が反対する意見として説いたのが性悪説です。

 

人は生まれつき、自身の利益や欲望を追い求める性質を持ち、成長するうちに善行を学びとるものである。

 

議論の発端となる主張を確認しました。勘違いしてはいけないのは、性悪説が悪を肯定しているわけではないということです。「みんな本当は悪い奴なのだから、自分も少しくらい悪くたっていいじゃない。」というような主張ではありません。

 

 

…はい、少し遠回りをしてきたような気もしますが、これはあまりに人間の核心に迫る問題であり、言葉を使わずに考えを貫くことは難しいと思ったので、こうして歩いてきました。

 

ようやく出発地点です。

 

ここからは私の見解を話していこうと思います。

 

  • 人間には良心があるということ

 

いきなり罵声が聞こえてくるような気分です。

 

私の意見は性善説を支持します。ひとは生まれつき善くあろうとする生き物です。環境や教育の中で、悪さを学びます。

 

性悪説を主張しているひとは、何か外的要因の影響で善い心を見失っているだけなのです。

 

もしも、人間の本性が悪であるならば、なぜ人間は善くあろうと葛藤するのでしょうか。

 

いくら私が、葛藤の結果として自己嫌悪に陥り、「自分は悪いやつなのだ」と思い悩んだとしても、己の悪事を悔やむという行為は、善く生きようとする意欲によって起こるものであるために、これは性善を肯定する事柄だと言うことができます。

 

つまり、人間が悪事をはたらく際に、良心の呵責に苛まれるという事実が、性善の妥当性を証明しているのです。

 

  • 本性とは、「どうあるべきか」ではなく「どうであったのか」

 

本性という言葉について考えます。

 

私が初めに、性悪説に肩入れをしたのは、それによって人間の心に反省する姿勢が生まれるからだと言いました。

 

しかし、それは「人間がどうあるべきか?」という考え方であり、「人間の本性が悪である」という論の裏づけにはなりません。

 

本性とは「本来の性質」ということであり、そうすると、性悪か性善かの議論というのは、善と悪のどちらが先にあったのかということの判定に行き着くのです。

 

 

  • 感性と理性では、感性が先立つ

 

性善説は悪を後天的なもの、つまり環境や教育によって学びとるものだと考えます。

 

学びとるということは、それは理性によって捉えられているということです。

 

 

例えば、大量殺人のように、良心の呵責など感じさせない凶悪な犯罪が起こったとします。

 

殺人鬼は衝動的に犯行を起こしたのでしょうか。

 

彼が供述するには、「ひとを殺してみたかった。誰でもよかった。」ということです

 

この言葉、聞き飽きたとは思いませんか?

 

それは凶悪殺人犯ともあろう者が、似たような殺人事件の模倣をしているということを示しています。

 

では、この殺人事件を報道で知った一般人はどう感じるでしょうか。

 

おそらく、殺人犯の奇妙な供述と犯行の異様さに嫌悪感を覚えるでしょう。

 

つまり、思想的な暴走に滑車をかけるのは、また思想なのであり、それを抑えるのはある種の感受性、即ち良心だということなのです。

 

したがって悪とは、理性によって作り出された思想であり、感覚的なものではありません。

 

むしろ、感覚的なのは良心のほうです。このことが、「人間の本性は善であり、悪は後天的なものである」という性善説の考えを肯定しています。

 

 

 

 

私が性善説を支持する理由は以上です。

 

性悪説を主張する方は、「性善説が妥当なら世界はなぜ善くならないのか?」という疑問を抱いているのかもしれません。

 

性善説が「人間っていいな」的に解釈されていては、それも仕方のないことかもしれませんが、孟子が示したような性善とは、能天気な考えを肯定しているのではありません。人間が悪いようにみえるのは、世の中には善い心を様々な理由で隠したり、汚されたりしたひとがたくさんいるということなのです。

 

また、人間の乳児は命に対して残酷であるという反論もよくみられますが、それは本質的な議論になっていません。

 

前置きした通り、善悪とは客観性に依存する価値基準です。この議論は「人間の本性」を捉えようとするものであり、どちらがより強いかを求める議論ではありません。

 

乳児なら、人間の本性を観察するのに適しているとの考えかもしれませんが、乳児は理性も未発達なら、善い心を作る感性も同様だと思います。

 

そんな対象の行為に、発達した大人が善悪の判断をつけてしまうのは少々軽率だと思うのです。

 

 

 

最後に、孟子性善説を次のように説いています。

 

「人性の善なるは、猶ほ水の下きに就くがごときなり。人善ならざること有る無く、水下らざること有る無し。今夫れ水は、搏ちて之を躍せば、顙を過ごさしむべく、激して之を行れば、山に在らしむべし。是れ豈に水の性ならんや。其の勢則ち然るなり。人の不善を為さしむべきは、其の性も亦猶ほ是くのごときなり。」

 

「ひとの本性が善であることは、水が下に流れていくように自然なものである。水は下に流れるが、これを手で叩いて跳ねさせれば額にまで届き、せき止めてしまえば山を上らせることもできる。しかし、これは水の本性ではない。ひとが不善を行うことも同様で、それは外的な要因によって引き起こされるものなのである。」

 

私は、善は良心という感性によるもので、悪は思想のような理性によるものであると言いました。

 

孟子の言葉では、善が水の流れのような自然現象に喩えられています。

 

感性と理性、どちらがより自然かと考えれば、感性のほうだと私は思うのです。

 

 

 

あなたはどちらだと思いますか?

 

 

 

芸術、詩、表現。

 

要するに芸術とは、自然と人情とを、対抗的にではなく、魂の裡に感じ、対抗的にではなく感じられることは感興或ひは、感謝となるもので、而してそれが旺盛なれば遂に表現を作すといふ順序のものである。


然るに、事物を対抗的にではなく感受し得るためにはそれ相当の条件がある。(但し私の云ふその条件とは、金銭や環境、又は個性なぞと呼ばれてゐるものの裡にあるのではない。)

 

 扨、対抗的でなくなるためには人は先づ克己を持てばよい。尤も、克己なる語の用ゐられる多くの場合は個人精神の中のこととしてであるが、私の今云ふ意味は、誠実であるといふことをも含むでゐる。

 

抜粋: : 中原中也. “中原中也全集.” Public Domain, 2015-07-01. iBooks.

iBooks Store https://itun.es/jp/Iam18.l

 

中原中也による散文のうち「詩に関する話」冒頭から抜粋した一編です。

 

中原中也は抒情詩の表現を探求して創作を続けた詩人です。

 

抒情とは何でしょうか。

 

抒情とは「情を抒(叙)べる」という意味で、抒情詩は詩人の心中に起こった出来事、感情や人情を、何も飾ることなく描き出す詩の形態のことです。

 

彼は自身を取り巻く芸術を次のように批判しています。(引用ではなく、私が要約した文章です。以後、斜体で表すものとします。)

 

芸術の多くは、ある感情を起こした原因となる対象を観察し、描くための技術を試行錯誤しているのみであり、自らの感情そのものを表現としているものではない。

 

彼は感情が自然や対人によって起こり、その本質は胸の裡にあることを確信していました。そして芸術とはその胸の裡を表現することだと考えていたのです。

 

しかし、ただ胸の裡を明かすというだけの表現が案外難しいものなのでした。

 

あなたが花を見て「美しい」と表現したとします。この「美しい」という表現は、花の見た目を言い表しているのでしょうか。もしくは、花を見たことで胸の裡に何か動きがあった、そのことを形容すると「美しい」なのでしょうか。

 

後者であるならば、「美しい」という言葉が胸の裡にある感情を表現したということになります。

 

しかし、一般的に認識されている場合では「美しい」という表現はその対象、ここでは花に向けられています。

 

したがって、ひとが花を見て「美しい」と表現したとき、その表現は厳密に言うと抒情表現ではありません。胸に起こった感情が何よって動かされたかを言葉で説明したのみであり、これを叙事表現と言います。

 

こう説明されると抒情表現が不可能であるかのように思いますよね。

 

そこで中原中也は、自然や人情を対抗的に感じる…即ち、対象を外に置くのではなく、自らの魂の裡に置こうと話しています。そうして感じられたものは感興や感謝になり、それが盛んになればいよいよ表現となるだろうと言うのです。

 

そして、対象を胸の裡に置くことにはある条件が必要だと言います。そして、金銭や環境、個性だとか言われてるものとは関係がないものであると加えます。

 

…まず第一に、克己を持つことが大切であるが、それは己に打ち克つというような個人精神の話だけではなく、誠実であるという意味も含んだ克己である。

 

これだけでは少しわかりにくいですね。

 

続きを読んでいきます。

 

誠実たること――即ち愚痴つぽくないためには、敬虔なる感情を持し得るの必要、或は絶えず意識的なる自己葛藤が必要であらう。

 

何れにしても結構で、前者と後者とには各仕事がある。前者は詩の方面であり、後者は散文の方面である。

 

頻繁なる対人圏にあつて、各人が各人で朗らかであり得ぬ程度に比例して人々は互の「顔色を覗ふ」こと盛となる、即ち相対的となる、即ち創作的気心より遠ざかるわけである。

 

抜粋: : 中原中也. “中原中也全集.” Public Domain, 2015-07-01. iBooks.

iBooks Store: https://itun.es/jp/Iam18.l

 

 

 

 

誠実であること、即ち、生活が愚痴っぽくならないためには、敬虔なる感情、つまり、切実で偽りのない感情を持つことが必要であるのと、あるいは、常に自らを顧みることを意識して、自身の誠実さについて葛藤することが必要である。

 

どちらを行ってもよいのだが、前者と後者とにはそれぞれやり方がある。前者は詩の方面であり、後者は散文の方面である。

 

曰く、詩を書くことによって、「敬虔なる感情」…つまり、真に迫った嘘のない感情を持つことを探求し、散文を書くことによって、常に自らの考えを反省すること。そのどちらかを行えば、「誠実という意味を含んだ克己」を見出せるかもしれないと。

 

まだよく掴めないので、ここから少し、「誠実という意味を含んだ克己」という表現について考えていきましょう。

 

 「克己」とは「己に打ち克つ」ということです。では、己とは何か?と問われて、あなたは答えられるでしょうか?

 

「己とは自分自身のことである。」

 

その通りだと思います。このように答えられるひとはかなり多いでしょう。しかし、「自分自身のこと」って、どういうこと?と一歩踏み込めば、途端に難しい問題になります。

 

まあ、ここでは一旦、「自分自身のこと」という答えで進むのですが…。

 

はい、「克己」とは、「自分自身に打ち克つ」ということだ、という段階まで来ました。

 

これが「自分自身に勝つ」だと、まるで自分がふたりいるような感じになりますね。

 

「打ち克つ」…「克」という字は「下克上(下剋上)」という言葉に使われているように、「下から上に」「超えていく」という感じがあります。

 

つまり、「自分自身に打ち克つ」とは、過去の自分を超えて、いまの自分がより良い存在になる、ということだと思います。

 

中也が求めるのは、「誠実という意味を含んだ克己」です。つまり、自分を超えた自分は、過去の自分より誠実であらねばならないということではないでしょうか。

 

 

 

 

 

さて、抒情表現のためには、感動の対象を外的にではなく、自らの胸の裡に置くことが求められると知りました。

 

そして、詩を書くことによって、より切実な偽りのない感情を育み、散文を書くことによって、自らの考えや感性を常に反省し、過去の自分を超えた、より誠実さを持った自分になることが必要であるということ。

 

中原中也は生涯、意見を伝えることの無理を嘆きながらも、ひとに議論をふっかけ、そのたびに鼻で笑われ、相手にされていなかったといいます。彼の散文や詩も、彼の生きている間は充分に評価されていませんでした。

 

なぜ、相手にされなかったのでしょうか?

 

芸術が、それ自体として孤立し、その全体に確かな意味と価値を貫いているにも関わらず、充分な評価が為されない作品を、いつの時代にも生み出しているという事実には、芸術の本質的な矛盾が垣間見れる気がするのです。

 

芸術には形式があります。繰り返す歴史の中で洗練されてきた美の技法です。

 

「美しさ」を作り出すための一定の作法があることで、私たちは「美しいもの」とはどういうものかを学ぶことができます。

 

ところが、私たちが美を発見するということを突き詰めて考えると、経験や知識によってそれを判断しているのではなく、まさにそれは発見されるものであるということがわかるでしょう。

 

誰もが自分の美意識というものを持ち、自然の中から美を発見するのです。

 

芸術とは本来、発見された美を再表現しようとする動きであったはず。それなのに、美の技法が発達、集積したその山を眺めた私たちは、美とは人間が作り出したものであり、さもすれば、自分も美を支配し、作り出すことができるのだと勘違いしてしまうのです。

 

美の表現者は、美の発見による切実な感動を元に美を成立させようと試みているのです。誰も美を支配することなど目指していないのであり、いわば、表現者も鑑賞者も、美の前に立つという意味では同じ立ち位置にあるということを、特に鑑賞者は忘れがちなのだと言えるのではないでしょうか。

 

美の形式を評価することに拘泥し、美そのものを見つめようとする態度が失われていれば、そのうちで誰かが新たな美を発見したとしても、彼らにとってそれは前例のないもの、即ち美ではないと判断せざるを得ないのです。

 

真に美を見つめる者の叫びは、彼らが表現して形式となった対象を、後の鑑賞者が再評価するまでは聞き留められることがないという運命にあるのです。

 

中原中也は、これを嘆きました。どうにかして、誰かに認めて貰おうと必死だったのです。

 

彼の話を、彼が生きているうちに理解したひとがいました。批評家の小林秀雄です。彼の批評にも、美を見つめることの本来の意味を探求しようとする態度が貫かれています。

 

 

 

 

詩人とは、美を見つめることに没頭し、ただ誠実に美と向き合う姿勢を貫こうとする人種なのかもしれません。

 

彼らは美に対し、表現しようとするのではなく、それを見つめてはひたすら陶酔し、溜息を洩らすということを繰り返しているのだと思います。

 

芸術とは、それだけで充分なのだと表現しているのです。

 

最後に、日本の抒情詩人として有名な萩原朔太郎と、彼を詩人として尊敬し、自らも詩人として活躍した三好達治の言葉を紹介して、このいたずらに長いつぶやきを終わりにしたいと思います。