倦怠の勿忘草

“汚れつちまつた悲しみは 倦怠のうちに死を夢む”

詩人の眼 ー「萩原朔太郎の詩心」

 

 

幼い頃の記憶である。小学校の傍に大きな楠を祀った神社があった。神主さんがいるのかどうかもはっきり知れないほど、人々に忘れられ、寂れた神社であった。

 

小学生の私と数人の仲間たちは、その神社に群れて住んでいる野良猫を可愛がっていた。数十匹はいたと思う。一様に汚らしく、身体中が傷だらけの猫ばかりであったが、たれ差別することなく甘えてくる彼等を、兎も角も私たちは大好きであったのだ。

 

或る日、そこに真白い子猫が紛れ込んでいた。飼い猫のように毛並みが整っており、空を吸い込むような瞳を持っている。その妙霊な美しさを纏った子猫に私たちは一目惚れした。ひとりの女の子が、私たちの間にあった暗黙の了解を破り、この白猫を飼いたいと言い始めるほどの惚れ込みようであった。しかし、飼って独り占めしたいという思いは私たちに共通したものであったので、私たちの恋心は必然的に友情の内へ、あらぬいざこざを招いたのである。

 

その賤しい喧嘩のおかげで、それまで外部に漏らさないようにしていた猫との触れ合いが、各々の両親に知れ渡ることになり、結果として私たちは神社に立ち入ることを禁じられてしまった。

 

あの白猫がその後どうなったか知らないが、あの弱々しい身体で生きていくのは難しいと思われた。生きていたとしても毛並みは乱れ、怪我もするであろうし、あの美しい姿のままでいるという事はないであろう。

 

私は、青年の汚れたセンチメンタルにすっかり埋もれていたその小さな感傷を、寂しい雨の夜に布団を膝にかけた状態で、萩原朔太郎の詩集「青猫」を声にして読んでいて鮮烈に思い出したのであった。

 

恋びとよ

お前はそこに坐つてゐる 私の寝台のまくらべに

恋びとよ

お前はそこに坐つてゐる。

お前のほつそりした頸すぢ

お前のながくのばした髪の毛

ねえ やさしい恋びとよ

私のみじめな運命をさすつておくれ

私はかなしむ

私は眺める

そこに苦しげなるひとつの感情

 

病みてひろがる風景の憂鬱を

ああ さめざめたる部屋の隅から つかれて床をさまよふ蝿の幽霊

ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ

 

恋びとよ

私の部屋のまくらべに坐るをとめよ

お前はそこになにを見るのか

わたしについてなにを見るのか

この私のやつれたからだ 思想の過去に残した影を見てゐるのか

恋びとよ

すえた菊のにほひを嗅ぐやうに

私は嗅ぐ お前のあやしい情熱を その青ざめた信仰を

よし二人からだをひとつにし

このあたたかみあるものの上にしも お前の白い手をあてて

手をあてて。

 

恋びとよ

この閑寂な室内の光線はうす紅く

そこにもまた力のない蝿のうたごゑ

ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ。

恋びとよ

わたしのいぢらしい心臓は お前の手にかじかまる子供のやうだ

 

恋びとよ

恋びとよ。

 

ー 詩集「青猫」より『薄暮の部屋』 萩原朔太郎

 

幼心に寄り添ってきたあの、恋心にも似た儚い慕情。それは、その感情自体を発端とした諍いによって、ばらばらに割れてしまった。以後、私たちは動物に対し、それほどの愛を感じた事があったろうか。動物を嫌う人は多い。なぜなら、人間には動物の思いがわからないからである。理解できないものは怖ろしい。尤もであるが、動物の心というものは、私たち人間の方から寄ろうとしない限り、決して近づき得ないという事もさればこそなのである。

 

朔太郎は言う。「動物は人間にない特種の官能器官を持っているのである」と。

 

「動物は、人間の見ることの出来ない物象を見、人間の聴くことの出来ない音を聴いている」のだと言うのである。そして、詩人としての自分はまるで、意志の通じない人間に向かって泣き叫んでいる動物のようではないか。彼は、そんな悲しみを繰り返し嘆いているのだ。

 

人は何故、詩という言語を忘れてしまうのか。朔太郎は、「天に達する正しい路は感傷の一路である。」という結論を置く前に、次のように語っている。

 

私は私の肉体と五官以外に何一つ得物をもたずに生まれて来た。そのうへ私は、書物といふものを馬鹿にしている。そして何よりきらひなことは「考へる」といふことである。(詩を作る人にとつて、いちばん悪い病気は考へるといふことである。中年の人はよく考へる。考へるといふことを覚えた時、その人は詩を忘れてしまつたのである。)

 

そこで私の方針は、耳や、口や、鼻や、眼や、皮膚全体の上から真理を感得することになつて居る。言はば、私は生まれたままの素つ裸で地上に立つた人間である。官能以外に少しでも私の信頼したものはなく、感情以外に少しでも私を教育したものはなかつた。

 

人間のつくつた学校はどこでも私を犬のやうに追ひ出した。

 

ー「言はなければならない事」 萩原朔太郎

 

私は常々、「詩とは何か?」という疑問を拭えずにいる。言葉によって精密に組まれた世界観の表現は、「物語」という手法で向かうのが妥当であるように思われる。言葉によって厳密で複雑な思想を伝えるならば、論理を手に、問題となる対象とぶつかれば良い。そこで詩は、詩人は何を表現しようとしているのだろうか。詩人と言われている人々は、いったい何の因果で詩という形式を求めるようになったのか。

 

「詩は言葉以上の言葉である」という確信を、この陰鬱な叙情性を纏った詩人は、どのようにして得たのだろうか。

 

詩の表現の目的は単に情調のための情調を表現することではない。幻覚のための幻覚を描くことでもない。同時にまたある種の思想を宣伝演繹するのことのためでもない。詩の本来の目的は、むしろそれらの者を通じて、人心の内部に顫動する所の感情そのものの本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させることである。

 

「月に吠える 序」萩原朔太郎

 

以前、私は中原中也の記事を書いたが、彼もまた、叙情詩という芸術に取り憑かれていた。人が自然や人と対峙し、ある官能が刺激されて感動が起こる。そのときに、人は「ああ!」なる感嘆の吐息を漏らすのであろう。しかし、この叫びのようなものは、私の中の官能的気分を完全に表現してはいないのだ。

 

さて、この感動の正体は何か?

 

素裸で地に立ち、己の五官以外は信用するに足らんと言い切ってしまえば、この感動の正体を見るように努めること以外で、彼が真理に迫り得る路はないのである。

 

彼は呟くだろうか、「神よ、願わくばこの私を純朴なる動物に変身させよ!」

 

彼は代わりに詩という言葉を得たのである。言葉を超えた言葉、リズムと調和を持った言葉を得たのである。

 

人がこれを読み上げれば、それはまるで電流を帯びた物質のように振る舞い、読者の肌、耳、口、鼻、心臓を震わせ、理性や知性と言ったような、人間の作り出した虚構に隠れている切なる感情を抉り出してしまう。そんな不可思議な力を持った言葉を、彼はこの世界で唯一、汚れなく普遍性のものであると確信して手に取ったのだ。

 

人は一人一人では、いつも永久に、永久に、恐ろしい孤独である。原始以来、神は幾億万人という人間を造った。けれども、全く同じ顔の人間を、決して、二人とは造りはしなかった。

 

人はだれでも単位で生れて、永久に単位で死ななければならない。とはいえ、我々は決してぽつねんと切りはなされた宇宙の単位ではない。一人一人にみんな同一のところをもっているのである。

 

この共通を人間同士の間に発見するとき、人類間の「道徳」と「愛」とが生れるのである。この共通を人類と植物との間に発見するとき、自然間の「道徳」と「愛」とが生れるのである。

 

そして我々はもはや永久に孤独ではない。

 

ー「月に吠える 序」萩原朔太郎

 

私は「自己」という存在を関係性の内に見出す。「私」という存在は永久に孤独である。それはもはや疑いようもないが、「私」は私自身を或る世界の中に投入し、そこに「自己」を発見するのである。

 

「私」を取り囲むあらゆる物質、自然や人、動物の総てが「自己」と関係を持ち、私は五官を以て、世界との関係性を感じることが出来る。「関係性」とは一本の綱のようなもので、それはひとまとまりで「関係性」、つまり綱なのであるが、私たちはいかんせん孤独に耐え切れず、関係性の正体を知りたいと急ぎ過ぎて、わざわざ綱を幾千、幾万に切断してから、その断面を嘗めようとしてしまう。

 

実に「自己」と、結ばれている世界との関係性は、一見すると極めて単純なものであり、また同時に、絡み合って複雑なものでもあるのだ。

 

これは、感情と、その感情の波を隆起させる対象との関係性にも共通する真理ではあるまいか。触れることを怖れてはいけない。触れて感ずることなくして、関係性を愛することは叶わないのである。

 

詩は、一瞬間における霊智の産物である。ふだんにもっている所の、ある種の感情が、電流体のごときものに触れて始めてリズムを発見する。この電流体は詩人にとっては奇蹟である。詩は予期して作らるべき者ではない。

 

私どもは、不具な子供のようないじらしい心で、部屋の暗い片隅にすすり泣きをする。そういう時、ぴったりと肩により添いながら、ふるえる自分の心臓の上に、やさしい手をおいてくれる乙女がある。その看護婦の乙女が詩である。

 

私は詩を思うと、烈しい人間のなやみと、そのよろこびをかんずる。

 

詩は神秘でも象徴でも鬼でもない。詩はただ、病める魂の所有者と孤独者との寂しいなぐさめである。

 

詩を思うとき、私は人情のいじらしさに自然と涙ぐましくなる。

 

ー「月に吠える 序」萩原朔太郎

 

夜、毛布の匂いと、肌の擦れる感覚が恍惚として感じられる。こうも静かに黙り込んでいると、時は実際に止まる。空気は凍りつき、長い年月を眠って過ごしてきた化石のように、私は詩も歌えないほどの寂しさに襲われるのである。

 

そんなときに、静寂の隙間から猫の歌声が聴こえてくるのだ。街を彷徨い歩き、疲れ果てた身体を慈しみ合いながら歌っている。どうか、そうやって朝まで歌い続けてくれないか。

 

そう願いつつ、私は眠りについてしまった。

 

朝、座った姿勢のまま目が覚めると、膝の毛布の上に一匹の白猫が、窓からの陽射しに照らされて眠っているのだ。整った毛並みは、光を反射して、人のなだらかな皮膚のように見える。私がこの掌で彼女の顔を包んでやると、空色の瞳を開き、体重を私に預けてくれた。親指で鼻のあたりを撫でる。彼女は二、三度そいつを嘗めると甘噛みをして甘えてきた。微笑むような表情を、私たちは共有していた。

 

私はずっとそこに居たい気持ちであったが、次第に頭がハッキリしてくると、唐突に用があった事を思い出し、立ち上がる。彼女は急に警戒の態度を見せ、跳ねるように窓から逃げて行った。私はすぐに日常へ引き戻されたのである。

 

どうして。私も青猫にでもなって、この部屋を逃げ出したかった。そうして、いつまでも君と触れ合っていたかった。そう考えているうちに、私の幻想は早朝の霧のように消えて行くのだ。

 

ぬすつと犬めが、

くさつた波止場の月に吠えてゐる。

たましいが耳をすますと、

陰気くさい声をして、

黄いろい娘たちが合唱してゐる、

合唱してゐる、

波止場のくらい石垣で。

いつも、

なぜおれはこれなんだ、

犬よ、

青白いふしあわせの犬よ。

 

ー詩集「月に吠える」より『悲しい月夜』萩原朔太郎

 

音楽

 

 

芸術や表現ということを考えていると、あるハッキリとした疑問に必ずぶつかります。

 

学校で習う学問は、問題があれば当然のように答えがあるものが大半でしょう。しかし、ただ習っているだけの私には、当然の裏にどれだけの、意識されずに放られている不可解な事実が隠れているか、そちらの方へ興味が向くことはないのです。解らないものは、解らないという納得の仕方をして、片付けてしまっているのでした。

 

芸術はその性格上の趣向から、抗えず不可解な事実の方へ歩み寄ってゆきます。問題があっても答えはわからない、それまでならばまだ良い方で、世間に溢れる自意識の解放や、内面の露出などの酔狂な表現の殆どが、向かうべき問題さえも見えていないという表情で、まるで吹きつける異常な冷風に気圧された種々雑多な植物たちが、出るべき季節を取り違えて、それぞれの勘だけを頼りに顔を出してしまったというような、異界とでも言うべき景色が見えてくるかのようです。あまりに近くに生えてきた別種の植物どうしが、聞こえないように小言を吐きながら、「個人」という鉢の中にある安泰を求めて叫んでいる。殖えすぎた形式に溺れた者が浪漫を求めていた景色は既に懐かしくもあり、膨張して破裂しそうな浪漫に呑まれた個人は、消えたわけでもない形式の山の中から自身の叫びに似合う形式をさがしだそうと血眼になっているのではないでしょうか。はたして、形式は答えになってくれるのか、蔓延するニヒリズムの前で、形式は単なる個性の容れ物となってしまったのではないか。わたしたちの要求する表情は、そしてその表情の要求する形式は、いったいどこへ消えてしまったのでしょう。

 

ところで、最近の私はというと専ら音楽のことを考えています。芸術の底を覗くと、音と色という悪魔のような恰好をした子供が二人、こちらを見ているのですね。彼らは言葉を持たずにニコニコと笑っているだけで、私が語りかけても、聞いたような素振りは、一応とるのですが、答える積りは微塵もないと言った様子なのです。

 

ドイツの文豪として有名なゲーテは、モーツァルトの音楽を次のように評していたと言います。

 

如何にも美しく、親しみ易く、誰でも真似したがるが、一人として成功しなかった。幾時か誰かが成功するかも知れぬという事さえ考えられぬ。元来がそういう仕組みに出来上がっている音楽だからだ。はっきり言って了えば、人間どもをからかう為に、悪魔が発明した音楽だ。

 

音楽の才能が、たぶん最も早くあらわれるのは、音楽はまったく生まれつきの内的なものであり、外部からの大きな養分も人生から得た経験も必要でないからだろう。しかし、モーツァルトのような出現は、つねに説き難い奇跡であるにちがいない。けれども、もし神が時として我々を驚かせるような、そしてどこからやってくるのか理解できないような偉大な人間にそれを行わないならば、神はいったいどこに奇跡をおこなう機会を見出すだろうか。

 

ー エッケルマン「ゲーテとの対話」

 

若い頃のゲーテは、ドイツにおける、感情の解放、天才の独創を叫んだ文学運動「Sturm und Drang(シュトルム・ウント・ドランク)」の担い手でありました。しかし、ゲーテを分析する学者の間には、彼は浪漫主義を嫌った古典主義者であるという定説があります。この理性に対する感情の優越に呆れ返り、厳格な智者として数々の功績を残した文学者の目が、音楽の悪魔を捉えていたとしても可笑しな話ではないように思えるのです。

 

私はショパンの「仔犬のワルツ」から始まる三つのワルツ(ショパンの作品64は、三曲のワルツで編成され、なかでも64-1は、親しみを込めて「仔犬のワルツ」と呼ばれている)を聴きながら、気儘に跳ねて歌っている浪漫派音楽家に笑われているような気分になっているのでした。現代に名を残す音楽家で、好んで自身を浪漫派とか古典派とかいう観念に縛り付けた者がいたのでしょうか。そのような言葉の復讐は、後になってなんとか彼らの才能を理解しようとした理論家たちの虚しい抵抗であったのではないか。音楽を言葉で捕らえようと懸命になる私たちのような人間は、いつも自分の投げた縄に絡まって身動きが取れなくなるのです。「自分の耳が許す音だけが音楽である」と言い放つ音楽家の前で、私に何が言えるのでしょう。個性や主観の表現には、特殊な心理と感情が伴い、またそれを意識して発見することが必要になります。当然それは、あらゆる経験に対する個人特有の解釈と形式を求め始めるのでしょう。この仕事は比較的簡単に、言葉が果たしてくれることを私たちは知っています。音楽家が音という自分等に特有の材料をわざわざ言葉によって分析し、その運動を理解しようという方向に進んだ結果、そこに不吉な悪魔の姿を見て発狂してしまうという、滑稽とも言える姿を空想してみても、ちっとも笑えないのです。

 

音とは何か。空気の振動である。もっと砕いて言うならば、私たちを取り囲む大気中の物質が、同じく大気中にある物質の振動に影響されることによって波状運動を始め、さらに人間の身体がそれを感知することで捉えられる物理現象である。ここに何か音楽を生む要素があるでしょうか。いや、音楽というものはもっと私たちの側にあるものではなかったか。そのような回りくどい理解をしなくても、私たちの捉える世界は音で溢れているではないか。

 

音にはどうやら、聴いていて心地よい音と、不快な音とがあるようなのです。そこで、音をよく観察してみると、自然に響く音は幾つかの単純な音に分解できるのだとわかる。そうやって刻まれた音階を、再び並べなおすことで旋律が生まれます。ある音を基底に置き、跳ねたり沈んだりさせることで美しい旋律となるのです。これを皆が一様に認識出来るように、時間という概念を幾つかに区分するのでしょう。美術が空間を彩る技術だとするならば、音楽は時間を彩る技術だと言えそうです。そうして、時間をどれくらいの速さで進めようかと考え出されたのが律動であり、主題に深みを増すために音と音の調和を研究した結果、和声という概念が生み出されるのでしょう。

 

このように、楽器演奏の経験の浅い私が、少々乱暴に言葉で説明した音楽という概念も、結局は現在完成されている西洋音楽を聴くことで、逆説的に創作された物語でしかありません。音楽という形式は、たったの一度だけ、空間的に断絶された様々な土地に住む人々によって発明されたのみではないのか。それ以降はそこに言葉の解釈を貼り付けたことで、何かを発明した気分になっているだけなのかもしれないのです。本来は意味のない音の組み合わせという単純な土台の上に、上手くそれを説明するために付属した、素人目にはとても音楽そのものとは思えない形式によって、その骨格を成しているのだと思います。優れた芸術が暗に語るところの、美とも呼べるある目標は、全てこの形式の枠組みの裡に取り込まれているのでしょう。安易に形式を否定したがる浪漫派の人間は、形式を解体し、そこにある残り滓こそが美だという顔をしている。ところが、そいつもよくよく見ると、感覚を麻痺させて涎を垂らした怠惰な表情に見えてくるのです。過ぎ去ったものに縋りたがる古典派の人間もまた、形式を解体し、美の全てを理解したような顔をして澄ましています。ところが、解析されていない新たな美を前にした途端に、肝を潰したような苦笑いを浮かべているのではないでしょうか。父親による徹底した音楽の英才教育で、形式を感覚のレベルまで沈めてしまったモーツァルトは、父に宛てた手紙の裡に、「自分は音楽家だから、思想や感情を音を使ってしか表現出来ない」という実感を告白しています。音楽家にとってあまりに単純で、あまりに深すぎるこの実感は、いまではすっかり忘れられているのではないか。言葉が、人を沈黙に誘い込むような絶対的な美を表現するに至るとき、このモーツァルトに捉えられた素朴な実感のように、ごく単純で素朴な実感に、だんだんと付与されていった言葉が、積もり固まっていく、というような動きをするのだと思うのです。実証や論証によって与えられる自尊心を破り棄て、表現によってその高みへ辿り着こうとする。そんな胆力を絶えずに持った人間だけが、真に美の形式の発明を果たす可能性を握っているのだと思います。多くの形式を全て崩し去ってしまおうと割り切ったような、狡賢い方法の先に真の美があるだろうという根も葉もない約束は、全く幻想に過ぎないのかもしれないのです。

 

実に、音楽の父とも言われるバッハがバロック音楽の時代を牽引し、その後、古典派浪漫派と流れていく音楽史の定説には、長い停滞の流れを、細かに分類したがる学者の短気が表れているように思われるのです。この間に数多の器楽形式が発明されたのは疑いようもなく、父親に「作曲のどんな種類でも、どんな様式でも考えられるし、真似出来る」と無邪気に語るモーツァルトの影さえなければ、堂々たる音楽の歴史に違いありません。

 

「きらきら光る 夜空の星よ」と口ずさんでみてください。この有名な童謡のメロディーは、モーツァルトの手によって新たな十二の顔を見せてくれます。この悪戯っ子の笑い声のようにも聴こえる作品の全体像は、準備された形式を練って苦心の先に出来上がったという趣を感じさせるものではありません。作曲家の耳に聴こえている、星空を一目で眺めたような、完成された姿で表れる音の豊かさを感じることが出来るでしょう。おそらく彼の耳には、自然が提示する多様な和音の美しい響きが聴こえているのです。ある主題の旋律が流れると、たちまちその後に続く無駄のないメロディーの変遷が浮かび上がるというような、凡人にはとても考えられない、また反対に、凡人だからこそ親しみやすいような、端的に表されてしまう美学公式があるのではないでしょうか。

 

音楽を聴いて気持ちが良いのは、私たちに共通して流れている時間の感覚を、巧みに切り取り、最小の表現へ至らしめた形式の美があるからなのです。あるリズムを感じると人間の身体は無意識のうちにそのリズムに合わせようと働きます。身体は次に来る拍子を本能的な時間感覚で掴むのです。それがピタリと嵌れば快感になります。そこで唐突に変化が訪れても不快感があるだけなのですが、音楽は変調にもきちんと自然の美を描くのですね。自然は常に変化するものですが、その変化は崖から落ちるような具合のものではありません。感知されないほどの微妙な勾配を転がるような変化なのです。音楽はその事実を如実に表現にしているのだと思います。

 

星が瞬く、雲が流れる、山が彩りを着替える、雪が溶けていく。時間と共に流れるものは自然に溢れています。世界には常に音楽が流れていると言えるのではないでしょうか。音楽がいつ始まったのかと考えても始末がつきません。つまり音楽は、終わりを表現しているのでしょう。人間がこの世界に悠然と流れている時間を捉えるには、終わりを意識するしか方法がないということかもしれないのです。

 

紫陽花

 

 

堰を切ったように雨が降っております。

 

私は務めが終わって、自宅に最も近い駅のホームで雨宿りをしていました。古びた線路の隙間から、水の増した川が轟々と流れているのが見えています。雨の音なのか、川の流れる音なのか、神経を集中させなければ判別がつきません。月は厚い雲に呑まれ、明かりは遠くに並んで見える街灯と、チカチカと点滅して、気付けば暫く消えているような、頼りない電球のみでありました。

 

濡れていないことを確認し、緑色をしたプラスチック製のベンチに腰掛けて、身体中の力と、深く吸った息をいっぺんに放ります。錆の入った鉄骨の交差している頭上に時計がありました。見ると、針は九時を指しています。見渡しても人影はありません。コンクリートの隙間から生えた爆蘭が、少ない明かりを集めて、本物の線香花火を見せてくれているかのようでした。雨は勢いを強め、傘の無い私は細長い透明な箱の中に閉じ込めらた虫になって、黙っている他にやることが見つかりません。けれども、その異様な静けさはすぐに、私を妙な陶酔へと誘い込み、うつらうつらとして、身体は完全に油断の姿勢を見せてしまっていたのです。

 

ふと目が覚めると、向かいのホームに女性が一人佇んでいるではありませんか。少しギョッとして、霞んだ目に力を入れると、そこに現れたのはどうやら、見覚えのある立姿なのでした。

 

沈んだ赤色のコートを着ている彼女は、毎朝、出勤でこの駅を利用するときに見かけるあの女性です。私が電車に乗って去ってしまうまで、ずっと動かずに立っているので、よく覚えています。きっと、毎日同じ時刻の電車を利用していて、その電車は私が利用する電車よりも遅くこの駅にやってくるのでしょう。これまではそう思っていたのですが、こんな時間に、いつもと同じように立っている彼女を見ていると、実はずっと長い間、そこに立ったままなのではないかと思えてきました。

 

肩まである黒髪と、重い前髪の隙間から覗く丸くて大きな瞳が印象的です。常に俯き加減で、長い睫毛が微かに動いていました。この薄暗い空間に、昼間の光を取って貼ったかのように、白い肌がのっぺりと浮かんでいます。私は見惚れてしまっている自分に気付いて、無遠慮に到来する、この恍惚とした感覚に恥を覚えました。それにしても、彼女は寂しげにいったい何を見つめ、何を思っているのだろう。夜の海に光る石を投げて、淡い光の波紋が広がってくるかのような、そんな景色の美しさに、私の心はそこから一歩も動けなくなってしまったのです。

 

不意に、電車が雨の音の壁を破って、ホームにやって来ました。その音で我に返った私は、咄嗟に立ち上がり、冷え切った身体が、ぶるぶる震えていることを、ようやく自覚しています。電車が一時停車して、また雨の音の壁を破って、向こうへ走り去ってゆきました。向かいのホームに彼女の姿はありません。代わりに、彼女がいつも立っている場所の背面に、紫陽花の咲き乱れている様子が浮かび上がって見えたのです。

 

私は、幼い頃に姉から聞かされた紫陽花の話を思い出しておりました。紫陽花は、雨の日になるといっそう、その美しさを増します。これは、紫陽花の葉脈に流れている毒がそうさせているのだと言うのです。姉が言うには、紫陽花の赤色は毒の色だそうです。もともと青色の花の花脈に、人間の鼓動が血を送るかのように、時折、赤色をした毒が回ります。それで、紫陽花は紫色になったり、赤紫色になったりする。すぐに何の根拠もない話だとわかりましたが、姉は、そうでもないと雨の日の紫陽花の美しさが噓みたいになってしまうと言っていました。

 

冷静の青い流れの中に、少しの赤い波がある。ときに、何かのきっかけで、赤い波が大きくうねり、自分が自分でないような気分になって、興奮と寂しさを織り交ぜにした、静かな赤紫色の幻覚を見ることがある。

 

 

雨の降る静かな晩に見た風景は、紫陽花の美しさに毒されたこの身体が作り出した、幻想だったのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

紫陽花

 

 

あなたへ、

 

わたしはもう堪えられません。

 

あなたは、事ある毎にわたしへの愛を囁いてくれましたけれども、最期まで愛してると言いながら、結局わたしから離れていきましたわね。わたしも我儘な女ではありませんので、その理屈はよくわかるのです。わたしたちは性質が正反対で、その性質の違いから惹かれ合い、その性質の違いが故に同じ時を過ごしていられない。あなたは、あなたの見た空の青さを求めて、また、その青さを証明するために、大海へと船を出し、どこかへ行ってしまわれたのでしょう?

 

先日、素敵な話を本で読みましたの。赤色と青色の本にわけて描かれた昔の話。まだ日本に村がたくさんあった時代、ある地域の小さな村のなかに、棘人(しじん)と呼ばれていた人々が暮らしていたのですって。

 

体に生えた無数の棘のおかげで、仕事も満足に出来なければ、互いに体の温もりを感じることも出来ない。当然、健全な人間の体を持って、普通に暮らしている人々からは嫌われていたみたいです。

 

憎しみ争い合っていた人間と棘人は、互いの存在を認め合うために、棘刀式という儀式を始めました。これは人間が刀で、棘人の棘を切り落としてしまう儀式なのです。この儀式によって、人間と棘人の争いは無くなった。そんなような筋の話でした。

 

わたしは棘人に同情しております。おそらく棘人は、情熱の人間なのだと思います。証拠に、その血筋の者は赤色の着物を好んだと言うのですから。感情の激しい動きが、彼女たちの鼓動の主旋律なのです。感情の起伏が、棘として皮膚に表れているのです。棘は人との絆を切ってしまう。どんなに愛しいひとがいても、触れ合えば相手を傷つけてしまう。その苦悩、愛情への憧れ、孤独の裡に疼く寂寥、今にも弾け出しそうな感情の動きが、赤色の本に染み付いていました。静かに整えられた詩のような言葉の裡に、烈しい雨に打たれて涙する、棘人の立姿が浮かび上がってまいります。どうして、棘を切り取らなければならないのでしょう。棘人はどうしても、人間の世で生きていくことのできない運命にあるのですね。

 

外では雨が降っています。雫が空気を沈殿させて、しんと冷たい空気が心地よく、赤色の本の熱が、燃えて落ちゆく夕陽のように、わたしの掌の上に強く感じられる。わたし、涙が止まらなくなってしまって、この手紙を書き終えたら、火照って仕方のないこの胸を冷ますために、川沿いの駅まで散歩に出ようと思っておりますの。

 

川の流れる音を聴きながら、行き過ぎる電車を見ていると、あなたに会えるのではないかと思えてきます。それがたとえ、一時の幻想であったとしても、わたしの心はいちおう、落ち着いてくれるのです。

 

夏の間は川岸のところに紫陽花が群れて咲くのですよ。それはもう見事な眺めで、特に今日のように雨が降っていると、寂しさのなかでいよいよ強くなる愛情の波が寄せてくるかのごとく、その妖しい光を見せつけてくれますわ。

 

わたしはあなたが何処にいるのかも知らされていない。夜毎に風を撫で、篭のなかで次第に弱ってゆく羽を慰めている蝶々のことを、あなたは憐れだと思ったことがあるかしら。

 

紫陽花の毒を貰って、蝶々が死んでしまっても、きっと悲しむひとはいないのでしょうね。

 

 

 

いつか、また。

 

 

十月二十二日、奈々。

 

 

写実の世界

 

 

私は絵を見るのが好きです。しかし、絵に感動して、いったい誰が描いたのだろうという興味から、その作者名を一瞬は憶えても、それが二日ともったことはないと思います。

 

絵を見た記憶はずっと残るのですが、そのときの感動と作者名は、日を追うごとに霞んでいくのです。あの感じはどうして消えてしまうのでしょうか。いつでもあのような感動が再生できたらば、人生も彩りを持ち始めるのでしょうが、そう上手くいかないからこそ、芸術の消費というのは虚しいのですね。

 

先日、ふと考えたのですが、ひとは絵を見てどのように感動するのでしょう?絵が語りかけてくるのか、絵の広げた世界に誘い込まれるのか、それとも単に絵が美しいからなのか。私は絵画に関する評論などはほとんど読んだことがありませんので、これはとても不思議な問題なのです。幻想的な絵が好きなひとの感動と、写実的な絵が好きなひとの感動は、どう違うのでしょうか?絵を描くひとは、どのようにモノを描けばよいのかよく知っているでしょう。では、画家はいったい何を描いているのでしょうか?小説家が文体を持つように、画家にも何かを描き出す技術があって、その技術を振るっていく中で、副次的なものとして世界が構成されていくのか、それとも、何かの美を確信して、そいつを描いてやろうと試行錯誤しているのか。どちらか一方であると言い切れる画家は少ないのかもしれない。けれど、芸術家を名乗る者ならば、そのくらい確固たる信念があっても良さそうだと思うのです。いや、無いと言うならば、彼はどうやって作品の世界観を定めているのか、私には判らなくなってしまう。そのように、基軸を失ってしまった作品、もしくは、基軸を敢て隠してしまった作品の前で、私は退屈してしまうのです。作品の奥に人間がいない。技術や理論で覆われていて、そこに生身の人間の温度が感じられない。それではいけないと思うのです。

 

ひとは頻繁に、「観」という字を使いたがります。「世界観」や「価値観」というように、なんだか哲学的な意味を含んでいそうな字ですが、素直にそれを受け取れば、「観」という字が示す事柄は、即ち「みること」であるとわかるでしょう。世界観というとき、私たちは世界を「観」ているのです。価値観と言えば、価値を「観」ているということになります。日本人はだれしも、「観音様」と聞いたことがあるでしょうが、正しくは、「観世音菩薩」と言い、歴史を辿ってゆけば、梵語の「アヴァローキテーシュヴァラ  ava(遍く)、lokita(見る)、īśvara(自在者)」という言葉にまで遡ることができます。西遊記で有名な三蔵法師はこれを「観自在菩薩」と訳しており、ここまで話せば、意味は解説せずとも理解できるでしょう。「自在」という言葉も仏教から生まれた言葉であり、心を煩悩から解放することで、何事も思うがままになしうる能力の事を言っております。つまりは、「観」という言葉は単に、そこにモノがあるというふうにみるだけでなく、ここに居ながら、世界を広く見渡すように、思うがままにみるということも含んでいるのだとわかります。

 

さて、「観」という字を知るために仏教に触れましたが、私は芸術の話がしたいのでした。芸術家と一口に言っても様々です。しかし、その根底ではみな観ているのではないでしょうか。芸術は先ず観ないことには始まらないのだと思うのです。私たちは芸術を観て、リアリズムがどうとか表現がどうとか言っていますが、感動の底には一様に、何かを観たという行為の経験が端然として横たわっているのです。書く、読む、聞く、見るというようにそれぞれに表現に至る技法を持っているものの、それら全て、物性の観察という行為を省略して存在することはできないのだと思います。

 

そこではじめに戻ります。芸術家として、最も純粋に観るという事を表現に昇華しているのは画家でありましょう。どれだけ有名な画家も、たとえ新進気鋭と呼び声の高い画家であっても、「絵を描く」という行為の動機は、眼前に現れた美の再構築であるのだと思います。そこに机がある。その上に林檎や空き瓶などの静物が置かれている。手前に自分があり、それを見ている。その見たままの心象を自らの手によってキャンバスに再現してみたい。そうやって試しに描いてみると、どうやら自分の見ていた景色は、必ずしも現実世界そのものではないと合点する。自分では見たままの物の姿を描き表したつもりだが、どうしたってそれは平面であるし、光を描き込めてはいない。そこで画家は対象を観ようとするのである。なるほど、光はこのように射し込んでいるか、光の表現は、絵に奥行きをもたらすか。そこに技法が生まれてくるのでしょう。つまり画家という人間は、見るという行為について尋常ではない創意工夫を凝らしてあるのであって、彼らの視力は一般に言うところの理論でもあり、思想でもありうるのです。さらに画家としては、絵を描くことなしに、この特殊に思えるような観法は語れないのでありますから、画家の美意識は即ち観ることであり、観ることは即ち美の創作でもあると言えるのでしょう。どうやら私たちは、「観」という言葉の扱い方に関して、画家の経験則の前に立ってみると、反省を迫られるようです。

 

絵画の世界では「写実」という言葉があります。観ること即ち美の創作であると言うべき画家の仲間内で、写実派だロマン派だと言い合うというのは奇妙な出来事であって、現実の姿というものを捉えようとする姿勢は貫道されていて当然である気がするのですが、とにかく、「写実」という言葉がまるで芸術における思想の一形態であるかのように語られているのです。ピカソの素描の腕を疑う者はありませんでしょう。しかし彼はひとつの平面であるキャンバスに多角的な視点を描こうとした。それは「キュビスム」と呼ばれ、現代では彼の起こした革新として知られていますが、彼が洗練された写実を打ち捨て、あの一見すると歪に見える絵を描かざるを得なかったのは、紛れもなく「写真」が登場したことの影響を受けているからなのでしょう。見たままを容易に写してしまう写真の力によって、画家が現実を写そうと試みるのは、絵を鑑賞して楽しむ者からみれば虚しい抗戦と映るようになってしまったのです。そうすると、これから芸術の世界に入り込んでいきたいと願う者は、入り組んだ表現技法の藪の中を彷徨う羽目になってしまう。私はシュールレアリズムをこのブログで取り上げましたが、その結論は、シュールレアリズムを超現実主義と訳して、彼らは決して幻想を適当に切り取って表現しているのではなく、真の表現は無意識の世界にあるものだという、ある特異な哲学の土台の上に立ち、あくまで、その異質な世界観を現実として写したものだという内容でありました。現代はこれまでに類をみない程に人間の知覚への不信感が高まっているのです。その不信感に至るまでの歴史を語れば、ひとつの物語では足りないのでありましょう。しかし、私含め若い世代は、初めから美術の教科書に溶けた時計が載っておりました。一度も知覚を信用した試しもない者が、いきなりこの不信感に曝されてしまえば、芸術とは個人の身勝手な欲望を奔放に晒しても許される世界であるのだという錯乱を起こしてしまうのも当然かもしれません。私たち若者の感覚では、観ることの重要性などという理屈は、表現の多様性の土壌に埋もれてしまっているのです。そんな空気の中で行き着くところは、何の分別もつけないと腹を決めてしまった破壊思想か、芸術なんてのは楽しければいいじゃないと居直り、無意味に明るく振舞うようになるか、そのどちらかであるように見えます。

 

ここまで、画家の視点から写実の世界を覗いた気分になっている私は、絵画の歴史を順序立てて学んだことはありませんし、絵を描いた経験は高校生の時に所属していた美術部で、油絵とデザインや抽象画を趣味程度に描いていたのみであります。そのため、文章が少々不遜な印象を帯びているのを自覚しております。そこで、ここから言葉の世界の写実を考えたいと思うのです。

 

調べてみると不思議なもので、文学と美術の動きは連動している部分があるのですね。例として、ダダイズムからシュールレアリズムへの変遷を取って文学の世界を見てみると、これは絵画の世界と同じように動いているのです。さて、言葉の役目と言えば情報の伝達でございます。その情報、知恵が纏まりを持つとそれは思想と言えるのですね。つまり、言葉の表現が他の表現より優れている点は、束ねられた思想の伝達という目的で使用されるときによく表れるのでしょう。しかし、小説なんかを読むと、ただ思想のみが箇条書きになっているわけではありません。物語であっても、エッセイであっても、その著者が見ている風景の描写のない作品なんてのは見つからないと思います。特段、詩というものになりますと、その描写という行為が殆どであるのです。夕陽を見て綺麗だと思った。写真家ならば、カメラを使ってそいつを切り取る。画家ならば、多少時間をかけてそいつを描く。執筆家ならば、言葉を使う意外に道はないのです。そこで、物を書くことと、観ることとの間に、彼らの苦悩が生じるのですね。写真のおかげで絵描きの写実が馬鹿らしくなったと言いましたが、言語表現による写実ならば尚更のことなのです。「どうして言葉に拘るのか?」と、言葉の表現に人生を賭けた人間に聞くのは野暮でしょう。

 

私は前回の記事で、詩ともエッセイとも取れないような駄文を書きましたが、あれは部屋に射し込む朝陽の美しさを切り取ろうと苦心した後に残ったラクガキであったのです。ある朝に目覚めると、風に揺れるカーテンの隙間から日が射しておりました。その感動をどうにか表現として捉えようとしたのです。私は考えました。絵や写真の表現に劣らないようにするには、言葉は何をしたら良いだろうか?

 

その結論は二つ、空間と時間を並行させた描写と、そこに感動がどうして起こったのか、という思想を埋め込むことです。私がひとりで暮らしている部屋には、漆塗りの棚などありません。あれは小さい頃に祖父母の家で見た風景を再起させていたのです。紫の花が描かれたカーテンと、祖父母の家の庭に自生していたデュランタの花を重ねて思い出し、光の粒がカーテンの隙間を縫ってサラサラと流れてくる様子をデュランタの花の間になった黄色い実というイメージとして表現していたのです。ちょうど九州に台風が接近しているというニュースを耳にしました。幼い頃は台風が素直に怖かったという記憶、そして今は時間が絶えず流れていってしまうことに対する恐怖、どちらの恐怖も、実は変わらず胸に根を張った恐怖ではなかったか。解説してしまえばつまらない物です。自分の表現であるから好き勝手に解剖してみましたが、言葉の世界で写実と言うと、このようにあれこれ苦心を払わなければならないのだとわかりました。やはり、詩人というのは凄まじい人種だと思います。

 

詩人が物を観るということは、画家が物への異常な愛着を以って観察するのに似た、尋常ならない観察があるのだと思うのです。言葉によって物を見る、もしくは、言葉自体を見るのでありますから、彼らはおそらく、人間の無意識、心象風景の裡に置かれた対象を観ているのですね。そうなれば、シュールレアリズムという思想だって、案外目新しいものでもないのかもしれない。

 

「写実の世界」などと大袈裟な題を立て、話をだらだらと続けてまいりました。要は、芸術的に世界を眺めるということが、どのように面白いことなのかを伝えたかったのです。趣味として芸術を鑑賞するなかにも、このような楽しみはあるはずなのです。みんな、わかり易い芸術を偉そうに批評する裏で、わかり難い芸術の前では、これは「言葉にできない」なんてつまらない言語表現だけで片付けてしまっていないでしょうか。芸術とはそもそも、その「言葉にできない」感動をどう扱うかという問題の上に立っているのだと思います。その情熱から人間は、単に見るのではなくて、真に「観ること」を始めるのです。言葉にならぬ不思議な対象を捕まえてやろうとして、画家は筆を持つし、小説家は文体を持つのです。そこに立ち現れるのは、言葉にしてしまえば感動が萎えてしまうのではないか、という恐怖であります。言葉にしてしまえば、対象が崩れてしまうのではないか、という恐怖なのです。その壁を超えなければ、表現の道は見えないのでしょう。その壁を幾度となく越えてゆくのが、表現の道というものではありませんでしょうか。

 

 

朝日の報せ

 

 

悪い夢をみていた。

 

秋空が朝日で焼けている。カーテンの隙間から覗く橙の光が、漆の剥げた古い木製の棚に射し、目玉のような木目の模様を、ぼんやりとした空気の中に浮かべていた。

 

ぼくは悪夢を覗かれたような気分になって、咄嗟にそいつを睨み返したが、目玉の方はお前など見えていないとでも言いたげに遠くを眺めている。

 

空気の張り詰めた音で、誰もいないことに気付かされた。ぼくは相手にされなかった視線の行方を捜して、光の筋に沿って流れている埃の脈を追う。冷たい朝だ。

 

晴れ渡り、叫びの衝動を掻き立てる空。手を伸ばすと遠ざかってゆくこの青空は、きっと地上の世界に独りの寂しさを知らしめているのである。

 

これは、空が遠ざかっているのではない。実はこちらの方で、その透き通った蓋の存在に怖れをなし、追い立てられたように逃げ出してしまうのだ。

 

乾風が吹いて、庭に咲いたデュランタの花と、その花弁の色との調和を乱す、下品な黄土色の実とが、互いに迷惑そうな感じで揺れている。足下にできた紫色の渦が、ぼくの躰を浮かせ、惜別の表情を見せながら過ぎていった。

 

おそらく今年最後となるであろう大型の台風が、どこか南の海で発生したらしい。最後の台風が過ぎたら秋がくるのだろう。

 

今日はどこへ行こうか。

 

明日はどこからやってくるのだろうか。

 

今朝の恐怖は、まだぼくの胸で沈黙している。

 

 

自己中

 

小学生の頃だったか、「ジコチュー」という言葉が流行っていたという記憶がある。ジコチュージコチュー、お前はジコチューだ、あいつはジコチューだと、みんなが喧しいくらいに言っていた記憶である。私は精神面の成長が遅かったようで、小学生の頃の記憶は曖昧であるし、言葉というものが強く意識されてはいなかった。なので、「ジコチュー」という言葉がどのような意味であるかなど知る由もなく、私はその言葉に対して、どうやらひとを罵倒するために使われているようだと、ただそれだけの認識を持っていたのである。

 

私はその言葉を憎むべきだと思った。なるだけ使うことを避けるべきなんだと考え、「ジコチュー」という言葉を厭悪していた。

 

私は多分、高校に入るまで単なる阿呆だったのではないだろうか。痛そうだから格闘技が嫌いで、長崎の平和教育のおかげで、戦争も大嫌いだった。「原爆」という言葉は私の吐き気を催し、爆心地の近くを通るだけで熱を出したこともある。当時の私の世界には纏まりがなく、私は世界という枠組みさえ知らなかったのだと思う。爆弾なんて落ちてくるわけがないのに、飛行機の音を聞けば、その恐ろしさに身震いがして、脂汗が出てくる。随分と心の忙しい毎日であったと私は少年時代を振り返る。

 

話は逸れたが、要するに私は馬鹿で、「ジコチュー」とはひとにイヤな思いをさせる言葉であり、「ジコチュー」なひとは即ち悪いひとなのだから、嫌われて当然であるのだと思っていた。

 

高校に入り、本を読むようになって世界が纏まりを持ち始めると、「ジコチュー」は「自己中」という言葉に当てはめられ、「自己中心的な性格」を略している言葉なのだと知った。そうして、必ずしもその性質が人間を悪くするのではないということに気付いた私は、それまでの自分、世界が暗闇の中にあった頃の自分の性質こそが、その言葉が表す悪い側面のものであったのだと知り、これまでどれだけの恥を晒して生きてきたのだろうかと悩みを持ったのだ。

 

自己中心的な性格はなぜいけないのか。答えはひとに嫌われるからである。ひとに嫌われることを厭わないならば、自己中心的な性格であることに何か悪いことがあるだろうか。最近まではそれが思い付かないで、自己中心的な性格も良いものだと思っていた。実際、ひとの目を気にせず、ジコチューでいれば楽であるし、芸術の世界ではジコチューであることがむしろ良いことであるかのように扱われている。

 

言ってしまえば、人間は世界を自己中心的にしか認識できないのであり、表現をする人間というのは必然的にジコチューになってしまうのだ。高校の友人は、それまでの友人より頭の良いひとばかりであったが、それだけジコチューなひとも多かった。自分の意志で決断がきちんと出来る人間は自己中心的な性格になりやすいのである。また、一般に言われている「頭が良い」という人間の性質は、物事を単純化して考えることが得意であるということがその十分条件であるらしく、そのような思考回路を持っているひとは、人間関係も単純化して考える傾向にあり、それは即ち自己中心的な人間関係を頭の中で組み立てているということであった。しかし私も理系の人間で、人間関係なんて面倒だと思っていたので、互いに面倒な相手として割り切ってしまっている殺伐とした関係性の方が心地良かったのだ。いや、この場合は「都合が良かった」と言うほうがしっくりくる。

 

そのような高校生活を送った私も大学生になり、比較的古い文学を読むようになった。特に戦前から戦後にかけて、日本が劇的に変わらざるを得なかった時代に生き、渦潮のような混沌を鋭敏に感じ取って表現した文学者の言葉は、鋭く重厚な感じがある。

 

その時代の文学がなぜ魅力的であるのか、それを一言で表すことは出来ないのだが、ここでは、古来の日本的な思想とアメリカから輸入された先進的な思想が衝突し、烈しく火花が飛んでいるような感じだと言ってみる。西洋哲学の膨大な歴史を一身に受けながら、彼らの躰に染みついた日本の思想がバネのように反抗しているのだ。

 

日本に自己中心的な性格の人間が増えたのは、専ら戦後になってからの風潮であると言って差し支えないであろう。西洋文化が黒船来航によってなだれ込んでくるまで、日本人は人間関係を大切にしてきた民族である。井原西鶴の書いた物語などを読んでいると、江戸時代の日本人がどのような共同体を形成し、「村」というコンパクトな社会がいかに活気づいていたのかよく分かる。人間関係は自然と一体であり、都市と農村の商売上の利害一致が見事であるのだ。

 

かつての日本が独自の社会を形成し、一見すると現代より合理的であるような仕組みを作れたのはなぜだろうか?そこには、昔の日本人に根付いていた「無明」という感覚が関係しているように思われる。それは仏教の言葉であるが、日本人がその詳細を理解していたのかどうかはともかく、「無明」であるということは、いけないことだという認識は持っていたのではないか。「無明」とはつまり、世界が暗闇の中にあるということだ。自我と世界との境がはっきり区別されずに、ぼんやりとした認識しかできないことを言う。そして、「自己中心的な性格」の自己のことを仏教では「小我」という。ひとはこの小我によって世界を知覚して行為するのであるが、仏教ではその自己中心的な行為を「無明」であるとして、それでは困ると言っているのだ。

 

敗戦した日本が、米国と共に掲げた日本国憲法には「個人の尊厳」ということが繰り返し強調されているが、これは仏教の観点から見ると、「小我」というものが存在するという誤った認識に基づいた思想ではないだろうか。「個人主義」の「個人」とは何だ?自由を見境なく求める我儘な自我のことであるか?それならば、私はこれに賛同できない。

 

芸術家は個性を大切に扱うが、昭和の頃の日本の芸術家は小我と個性の違いを弁えているように感じる。そしてヨーロッパの思想も既にこの区別が済んでいるようだ。もしかすると、現代でこの違いに困惑しているのはアメリカと日本くらいではないか。個人主義自由主義だと言って、最も優先されているのは個性ではなく国の利益である。功利主義的な思想によってムリヤリ切り分けられた「個人」は、その重みに耐え切れず潰れ始めているではないか。

 

素直に世界を見つめれば分かるはずである。自我など存在していない。目の前にある木と、私たち人間の躰の違いは何だ?科学的に詳細な分類を抜きにすれば、どちらも原子や分子の集合体であろう。そこで疑問を持つべきなのだ。「私」とはいったい何者であるのか?その問いは「心」という概念を要求する。そのときに、デカルトならばこう言うのである。

 

「我思う、故に我あり」

 

この電撃に打たれた者は、仏教的にも正しい個を意識するようになる。私たちは躰があるから孤立しているように見えるが、実はそうではない。躰は個人の本質ではなく、もっと他に「私」という存在を確立している何かがあるはずなのだ。ひとによっては、「私」など無いと悟る者もいるだろう。あなたはどこにいる?自然の中、複雑な人間関係の中にあって初めて、あなたは「あなた」を認識し得るのではないか?世界は思っているよりも広いものである。

 

幼年期から青年期までの私は「無明」であった。今もそうなのかもしれない。しかし、以前よりは世界を正しく認識しているはずである。私の場合はその仕事の殆どを言葉が担ってくれているのだ。認識の仕方はひとによるのであろう。大切なのはそこに小我による認識を挟まないことである。即ち嘘はつくな、世界と自己の認識と表現に誠実であれ、ということである。この認識の方向に、日本的な美が存在しているような感じがする。

 

自由と自己について、今一度考え直してみることも大切であるのではないか。キリストも言っている。

 

「人の子は罪の子である」

 

人の子も放っておけば罪を犯す。個人主義の本来の意味とは?個人の尊厳の本来の意味とは?個人が大切だと言って、教育は個人を放っているではないか。日本人が没個性へ向かっているのは明らかである。人間を、人間関係を、そしてそれらと連なる世界を単純化して考えていても、複雑なものは複雑なままである。合理的に考えるということは、何でもかんでも単純化して考えることではない。どうして、そのような単純な事に、単純に気付けないのか?インターネットにより、世界が広がったような気になってしまうのだが、実世界はひとつも変わっていないのだ。インターネットの世界で小我を表現していたって何にもならない。もっと複雑で美しい個性の世界を、ありのままに表現するべきなのだ。

 

ひとりは寂しい。表現によって共感を得たい。人間の切実な感情である。ならばどうして、そのような表現が生まれないのか?小我という仮象が囁くのだ。

 

「恥ずかしい表現は嫌だ。もっと立派に思われるような表現がいい。」

 

小我からは全く嘘の表現しか出てこない。虚しい。寒い表現である。切実な寂しさは伝わってこないのだ。

 

 

 

 

 

私の、あなたの表現はどこにあるのだろうか?あなたは、それを真剣に探したことがありますか?