芸術、詩、表現。
要するに芸術とは、自然と人情とを、対抗的にではなく、魂の裡に感じ、対抗的にではなく感じられることは感興或ひは、感謝となるもので、而してそれが旺盛なれば遂に表現を作すといふ順序のものである。
然るに、事物を対抗的にではなく感受し得るためにはそれ相当の条件がある。(但し私の云ふその条件とは、金銭や環境、又は個性なぞと呼ばれてゐるものの裡にあるのではない。)
扨、対抗的でなくなるためには人は先づ克己を持てばよい。尤も、克己なる語の用ゐられる多くの場合は個人精神の中のこととしてであるが、私の今云ふ意味は、誠実であるといふことをも含むでゐる。
抜粋: : 中原中也. “中原中也全集.” Public Domain, 2015-07-01. iBooks.
iBooks Store https://itun.es/jp/Iam18.l
中原中也による散文のうち「詩に関する話」冒頭から抜粋した一編です。
中原中也は抒情詩の表現を探求して創作を続けた詩人です。
抒情とは何でしょうか。
抒情とは「情を抒(叙)べる」という意味で、抒情詩は詩人の心中に起こった出来事、感情や人情を、何も飾ることなく描き出す詩の形態のことです。
彼は自身を取り巻く芸術を次のように批判しています。(引用ではなく、私が要約した文章です。以後、斜体で表すものとします。)
芸術の多くは、ある感情を起こした原因となる対象を観察し、描くための技術を試行錯誤しているのみであり、自らの感情そのものを表現としているものではない。
彼は感情が自然や対人によって起こり、その本質は胸の裡にあることを確信していました。そして芸術とはその胸の裡を表現することだと考えていたのです。
しかし、ただ胸の裡を明かすというだけの表現が案外難しいものなのでした。
あなたが花を見て「美しい」と表現したとします。この「美しい」という表現は、花の見た目を言い表しているのでしょうか。もしくは、花を見たことで胸の裡に何か動きがあった、そのことを形容すると「美しい」なのでしょうか。
後者であるならば、「美しい」という言葉が胸の裡にある感情を表現したということになります。
しかし、一般的に認識されている場合では「美しい」という表現はその対象、ここでは花に向けられています。
したがって、ひとが花を見て「美しい」と表現したとき、その表現は厳密に言うと抒情表現ではありません。胸に起こった感情が何よって動かされたかを言葉で説明したのみであり、これを叙事表現と言います。
こう説明されると抒情表現が不可能であるかのように思いますよね。
そこで中原中也は、自然や人情を対抗的に感じる…即ち、対象を外に置くのではなく、自らの魂の裡に置こうと話しています。そうして感じられたものは感興や感謝になり、それが盛んになればいよいよ表現となるだろうと言うのです。
そして、対象を胸の裡に置くことにはある条件が必要だと言います。そして、金銭や環境、個性だとか言われてるものとは関係がないものであると加えます。
…まず第一に、克己を持つことが大切であるが、それは己に打ち克つというような個人精神の話だけではなく、誠実であるという意味も含んだ克己である。
これだけでは少しわかりにくいですね。
続きを読んでいきます。
誠実たること――即ち愚痴つぽくないためには、敬虔なる感情を持し得るの必要、或は絶えず意識的なる自己葛藤が必要であらう。
何れにしても結構で、前者と後者とには各仕事がある。前者は詩の方面であり、後者は散文の方面である。
頻繁なる対人圏にあつて、各人が各人で朗らかであり得ぬ程度に比例して人々は互の「顔色を覗ふ」こと盛となる、即ち相対的となる、即ち創作的気心より遠ざかるわけである。
抜粋: : 中原中也. “中原中也全集.” Public Domain, 2015-07-01. iBooks.
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誠実であること、即ち、生活が愚痴っぽくならないためには、敬虔なる感情、つまり、切実で偽りのない感情を持つことが必要であるのと、あるいは、常に自らを顧みることを意識して、自身の誠実さについて葛藤することが必要である。
どちらを行ってもよいのだが、前者と後者とにはそれぞれやり方がある。前者は詩の方面であり、後者は散文の方面である。
曰く、詩を書くことによって、「敬虔なる感情」…つまり、真に迫った嘘のない感情を持つことを探求し、散文を書くことによって、常に自らの考えを反省すること。そのどちらかを行えば、「誠実という意味を含んだ克己」を見出せるかもしれないと。
まだよく掴めないので、ここから少し、「誠実という意味を含んだ克己」という表現について考えていきましょう。
「克己」とは「己に打ち克つ」ということです。では、己とは何か?と問われて、あなたは答えられるでしょうか?
「己とは自分自身のことである。」
その通りだと思います。このように答えられるひとはかなり多いでしょう。しかし、「自分自身のこと」って、どういうこと?と一歩踏み込めば、途端に難しい問題になります。
まあ、ここでは一旦、「自分自身のこと」という答えで進むのですが…。
はい、「克己」とは、「自分自身に打ち克つ」ということだ、という段階まで来ました。
これが「自分自身に勝つ」だと、まるで自分がふたりいるような感じになりますね。
「打ち克つ」…「克」という字は「下克上(下剋上)」という言葉に使われているように、「下から上に」「超えていく」という感じがあります。
つまり、「自分自身に打ち克つ」とは、過去の自分を超えて、いまの自分がより良い存在になる、ということだと思います。
中也が求めるのは、「誠実という意味を含んだ克己」です。つまり、自分を超えた自分は、過去の自分より誠実であらねばならないということではないでしょうか。
さて、抒情表現のためには、感動の対象を外的にではなく、自らの胸の裡に置くことが求められると知りました。
そして、詩を書くことによって、より切実な偽りのない感情を育み、散文を書くことによって、自らの考えや感性を常に反省し、過去の自分を超えた、より誠実さを持った自分になることが必要であるということ。
中原中也は生涯、意見を伝えることの無理を嘆きながらも、ひとに議論をふっかけ、そのたびに鼻で笑われ、相手にされていなかったといいます。彼の散文や詩も、彼の生きている間は充分に評価されていませんでした。
なぜ、相手にされなかったのでしょうか?
芸術が、それ自体として孤立し、その全体に確かな意味と価値を貫いているにも関わらず、充分な評価が為されない作品を、いつの時代にも生み出しているという事実には、芸術の本質的な矛盾が垣間見れる気がするのです。
芸術には形式があります。繰り返す歴史の中で洗練されてきた美の技法です。
「美しさ」を作り出すための一定の作法があることで、私たちは「美しいもの」とはどういうものかを学ぶことができます。
ところが、私たちが美を発見するということを突き詰めて考えると、経験や知識によってそれを判断しているのではなく、まさにそれは発見されるものであるということがわかるでしょう。
誰もが自分の美意識というものを持ち、自然の中から美を発見するのです。
芸術とは本来、発見された美を再表現しようとする動きであったはず。それなのに、美の技法が発達、集積したその山を眺めた私たちは、美とは人間が作り出したものであり、さもすれば、自分も美を支配し、作り出すことができるのだと勘違いしてしまうのです。
美の表現者は、美の発見による切実な感動を元に美を成立させようと試みているのです。誰も美を支配することなど目指していないのであり、いわば、表現者も鑑賞者も、美の前に立つという意味では同じ立ち位置にあるということを、特に鑑賞者は忘れがちなのだと言えるのではないでしょうか。
美の形式を評価することに拘泥し、美そのものを見つめようとする態度が失われていれば、そのうちで誰かが新たな美を発見したとしても、彼らにとってそれは前例のないもの、即ち美ではないと判断せざるを得ないのです。
真に美を見つめる者の叫びは、彼らが表現して形式となった対象を、後の鑑賞者が再評価するまでは聞き留められることがないという運命にあるのです。
中原中也は、これを嘆きました。どうにかして、誰かに認めて貰おうと必死だったのです。
彼の話を、彼が生きているうちに理解したひとがいました。批評家の小林秀雄です。彼の批評にも、美を見つめることの本来の意味を探求しようとする態度が貫かれています。
美の鑑賞には標準はない、美を創る人だけが標準を持ちます。人間というものは弱いものだね。標準のない世界をうろつき廻って、何か身につけようとすれば、美と金とを天秤にかけてすったもんだしなければならぬ。
— 小林秀雄bot (@hideo_critic) 2016年8月23日
【伝統と反逆】
詩人とは、美を見つめることに没頭し、ただ誠実に美と向き合う姿勢を貫こうとする人種なのかもしれません。
彼らは美に対し、表現しようとするのではなく、それを見つめてはひたすら陶酔し、溜息を洩らすということを繰り返しているのだと思います。
芸術とは、それだけで充分なのだと表現しているのです。
最後に、日本の抒情詩人として有名な萩原朔太郎と、彼を詩人として尊敬し、自らも詩人として活躍した三好達治の言葉を紹介して、このいたずらに長いつぶやきを終わりにしたいと思います。
どんな芸術も、それの構成について分析すれば、何等かの美学的公式が発見される。けれどもその公式から逆に芸術を創作することは不可能である。
— 萩原朔太郎エッセイbot (@Sakutaro_essay) 2016年8月23日
『絶望の逃走』-ポオの詭計- 萩原朔太郎
僕の書いてるすぺての詩論やエッセイやは、詩の有り得ないこの時代を、詩の有り得る時代にするための叫びであり、文化と社会の本源的なものに封する挑戦なのだ。
— 萩原朔太郎エッセイbot (@Sakutaro_essay) 2016年8月19日
『無からの抗争』-ハイネの嘆き- 萩原朔太郎
あなたばかりが人生を ただそのままにまつ直ぐに混ぜものなしに歌ひ上げる - 師よ 萩原朔太郎
— 三好達治bot (@Tatsuji_Miyoshi) 2016年8月23日
幽愁の鬱塊 懐疑と厭世との 思索と彷徨との あなたのあの懐かしい人格は なま温かい熔岩(ラヴァ)のやうな - 師よ 萩原朔太郎
— 三好達治bot (@Tatsuji_Miyoshi) 2016年8月23日