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倦怠の勿忘草

“汚れつちまつた悲しみは 倦怠のうちに死を夢む”

性善説と性悪説

 

よくある話です。

 

人の本性は悪であるか、善であるか。

 

この話題になると、私は性悪説の感覚に共感します。なぜなら、そちらのほうがひとの心に反省する姿勢を生むからです。悪いことをしたなら反省をして、善いほうに改めようとするのが人間の在るべき姿だと思います。

 

  • 善悪を決めたのは人間

 

この議論では、まず「人間の善悪を判定するのは人間である」ということを確認する必要があります。したがって、個人の都合や立場によって意見を分けるのは禁物なのです…とはりきってみたところで、これは議論の基本なので、当然、動かしてはいけません。

 

  • それぞれの説の確認

 

性悪と性善の議論がどのようなものであったのか、ここで再確認します。

 

順序でいうと、孟子性善説を説いたのが先になります。内容は次の通りです。

 

人は生まれつき、善を行うような性質を持っており、悪とはこの性質を隠したり、汚したりすることで生じるものである。

 

これに対し、荀子が反対する意見として説いたのが性悪説です。

 

人は生まれつき、自身の利益や欲望を追い求める性質を持ち、成長するうちに善行を学びとるものである。

 

議論の発端となる主張を確認しました。勘違いしてはいけないのは、性悪説が悪を肯定しているわけではないということです。「みんな本当は悪い奴なのだから、自分も少しくらい悪くたっていいじゃない。」というような主張ではありません。

 

 

…はい、少し遠回りをしてきたような気もしますが、これはあまりに人間の核心に迫る問題であり、言葉を使わずに考えを貫くことは難しいと思ったので、こうして歩いてきました。

 

ようやく出発地点です。

 

ここからは私の見解を話していこうと思います。

 

  • 人間には良心があるということ

 

いきなり罵声が聞こえてくるような気分です。

 

私の意見は性善説を支持します。ひとは生まれつき善くあろうとする生き物です。環境や教育の中で、悪さを学びます。

 

性悪説を主張しているひとは、何か外的要因の影響で善い心を見失っているだけなのです。

 

もしも、人間の本性が悪であるならば、なぜ人間は善くあろうと葛藤するのでしょうか。

 

いくら私が、葛藤の結果として自己嫌悪に陥り、「自分は悪いやつなのだ」と思い悩んだとしても、己の悪事を悔やむという行為は、善く生きようとする意欲によって起こるものであるために、これは性善を肯定する事柄だと言うことができます。

 

つまり、人間が悪事をはたらく際に、良心の呵責に苛まれるという事実が、性善の妥当性を証明しているのです。

 

  • 本性とは、「どうあるべきか」ではなく「どうであったのか」

 

本性という言葉について考えます。

 

私が初めに、性悪説に肩入れをしたのは、それによって人間の心に反省する姿勢が生まれるからだと言いました。

 

しかし、それは「人間がどうあるべきか?」という考え方であり、「人間の本性が悪である」という論の裏づけにはなりません。

 

本性とは「本来の性質」ということであり、そうすると、性悪か性善かの議論というのは、善と悪のどちらが先にあったのかということの判定に行き着くのです。

 

 

  • 感性と理性では、感性が先立つ

 

性善説は悪を後天的なもの、つまり環境や教育によって学びとるものだと考えます。

 

学びとるということは、それは理性によって捉えられているということです。

 

 

例えば、大量殺人のように、良心の呵責など感じさせない凶悪な犯罪が起こったとします。

 

殺人鬼は衝動的に犯行を起こしたのでしょうか。

 

彼が供述するには、「ひとを殺してみたかった。誰でもよかった。」ということです

 

この言葉、聞き飽きたとは思いませんか?

 

それは凶悪殺人犯ともあろう者が、似たような殺人事件の模倣をしているということを示しています。

 

では、この殺人事件を報道で知った一般人はどう感じるでしょうか。

 

おそらく、殺人犯の奇妙な供述と犯行の異様さに嫌悪感を覚えるでしょう。

 

つまり、思想的な暴走に滑車をかけるのは、また思想なのであり、それを抑えるのはある種の感受性、即ち良心だということなのです。

 

したがって悪とは、理性によって作り出された思想であり、感覚的なものではありません。

 

むしろ、感覚的なのは良心のほうです。このことが、「人間の本性は善であり、悪は後天的なものである」という性善説の考えを肯定しています。

 

 

 

 

私が性善説を支持する理由は以上です。

 

性悪説を主張する方は、「性善説が妥当なら世界はなぜ善くならないのか?」という疑問を抱いているのかもしれません。

 

性善説が「人間っていいな」的に解釈されていては、それも仕方のないことかもしれませんが、孟子が示したような性善とは、能天気な考えを肯定しているのではありません。人間が悪いようにみえるのは、世の中には善い心を様々な理由で隠したり、汚されたりしたひとがたくさんいるということなのです。

 

また、人間の乳児は命に対して残酷であるという反論もよくみられますが、それは本質的な議論になっていません。

 

前置きした通り、善悪とは客観性に依存する価値基準です。この議論は「人間の本性」を捉えようとするものであり、どちらがより強いかを求める議論ではありません。

 

乳児なら、人間の本性を観察するのに適しているとの考えかもしれませんが、乳児は理性も未発達なら、善い心を作る感性も同様だと思います。

 

そんな対象の行為に、発達した大人が善悪の判断をつけてしまうのは少々軽率だと思うのです。

 

 

 

最後に、孟子性善説を次のように説いています。

 

「人性の善なるは、猶ほ水の下きに就くがごときなり。人善ならざること有る無く、水下らざること有る無し。今夫れ水は、搏ちて之を躍せば、顙を過ごさしむべく、激して之を行れば、山に在らしむべし。是れ豈に水の性ならんや。其の勢則ち然るなり。人の不善を為さしむべきは、其の性も亦猶ほ是くのごときなり。」

 

「ひとの本性が善であることは、水が下に流れていくように自然なものである。水は下に流れるが、これを手で叩いて跳ねさせれば額にまで届き、せき止めてしまえば山を上らせることもできる。しかし、これは水の本性ではない。ひとが不善を行うことも同様で、それは外的な要因によって引き起こされるものなのである。」

 

私は、善は良心という感性によるもので、悪は思想のような理性によるものであると言いました。

 

孟子の言葉では、善が水の流れのような自然現象に喩えられています。

 

感性と理性、どちらがより自然かと考えれば、感性のほうだと私は思うのです。

 

 

 

あなたはどちらだと思いますか?