倦怠の勿忘草

“汚れつちまつた悲しみは 倦怠のうちに死を夢む”

破壊の中に立つ男 、坂口安吾。 『堕落論』

 

先日、「シン・ゴジラ」を観ました。

 

話題沸騰中の作品ですから、様々な情報を持って座席に着いたのですが、どんなメッセージよりも、どんなリアリティよりも、私が感動したのは、ゴジラによる破壊のシーンだったのです。

 

あのゴジラが神であるならば、それは自然の姿をした神なのでしょう。つまり、被造物としての自然ではなく、ただそこに在るというだけの力で、あの美しき破壊を行ってしまう、いわば、無慈悲な神でありました。

 

足下で行われている人間の行為など気に留める様子もなく、ゴジラはそこに生きているだけです。生きて歩いているうちに、空から何かが落とされ、ゴジラの背中の肉を破りました。ゴジラは本能として自身を守ろうとしたのでしょう。背中は見惚れるほどに強く、青白い光を放ち、顎を割り、眼を閉じて、口から炎を吐き出すのです。

 

私はゴジラの悲しみに共鳴しました。そして、攻撃されてもなお、破壊という恵みを与えている姿に心を揺さぶられたのです。呆然として、ゴジラが立ち止まるのを見届け、この映画はここで終わりだと思いました。再生など描かなくて良い、再生は起こるものだ。人類を救う数人の英雄など知らない。ここで皆がスタンディングオベーション、そして立ち去るべきだと思ったほどです。(そこまでの度胸は持ち合わせておりません。あと、ゴジラの話はここで終わりです。すいません。)

 

破壊、炎、軍隊、映画を観ながら常に思い浮かべるのはやはり戦争。私がそうやって思っていた余計な情報のなかに、「堕落論」というエッセイがありました。小説家である坂口安吾が、戦後の混乱の中で書いた作品です。

 

帰宅して暇ができるとすぐに、「堕落論」を取り出して読みました。

 

偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。それに比べれば、敗戦の表情はただの堕落に過ぎない。ー「堕落論

 

やはり、と思いました。これだ、と思いました。破壊には既に、再生の光が射し込んでいる。見てみろ、ニュースでは、自然災害で命を取り留めた人が、少し興奮した様子で、哀愁の裏に、抑えきれない喜びの表情を覗かせながら、自分の不幸を自慢気に語っている。自然災害で何もかも失って、再スタートを切った人間は、この社会の枠組みの中で、不満気に、用意された道に文句を垂れながら、その道から逸れないように歩いている人間よりも、快活ではないか。

 

隣の大学生が言っていた。こんな大学なら辞めたほうがマシだ。自分の人生はこんなものではなかったはずなんだ。どうして間違ってしまったのか。私はその手の話を案外多く耳にするが、「早く辞めてしまえ」としか思わない。

 

生きるということは実に唯一の不思議である。…堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ。生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道があるだろうか。ー「堕落論

 

安吾は言うのだ。堕落こそが人間を育てる「真実の母胎」であると。生きて堕ちる、それが人間を救う正当な手順であると。

 

現代、人生の正当な手順といえば、義務教育、高校、大学と、まっとうな教育を受け、就活をし、会社に終身雇用されること。それ以外は許されない。それ以外は、世間が許さないのだ。自分の人生こんなものでいいのか?と考えるのは余計な悪あがきである。レールの上で、ちょっとだけ芸術や政治を語り、ちょっとだけ周りと違えばそれで大満足なのだ。

 

安吾ならば、それこそ「堕落」であると言うのだろう。しがみつく理由など、考えてみれば思いつくまい。叩いてやっと出てくるのは、見栄やプライド、世間体とかそこらが関の山で、私にとってそんなのは息苦しい埃であるのみで、吸い込めば途端に咳き込んでしまう。

 

戦時中の日本は嘘のような理想郷で、ただ虚しい美しさが咲きあふれていた。それは人間の真実の美しさではない。そしてもし我々が考えることを忘れるなら、これほど気楽なそして壮観な見世物はないだろう。たとえ爆弾の絶えざる恐怖があるにしても、考えることがない限り、人は常に気楽であり、ただ惚れ惚れと見とれておれば良かったのだ。私はひとりの馬鹿であった。最も無邪気に戦争と遊び戯れていた。ー「堕落論

 

虚構のような高台に立って、驕り高ぶっている人間よりは、全てを失って、恐怖に怯えながらも生きぬこうとする人間のほうが美しい。「人間の真実の美しさ」とは、孤独に曠野を歩いて、ある世界、ある美学を掴み取った人間の美しさなのだろう。美しさを掴んだ彼が、その地に刺した旗を、どこからともなく取りあげて、彼の美学など知らんふりをして、それを振りかざしている人間が最も醜い。

 

レールから逸れないように歩いてきた人間は、これまで真剣に芸術を考えたこともないくせに、ある日、暇になったからといって芸術を鑑賞する。結構である。自由に鑑賞するが良い。しかし、その偉そうな眼鏡は外さねばならない。立場?プライド?そんなものは、美という対象といっさい関係のないものだ。初心ならば、いや、初心ならずとも、初心者の顔で美に対面せよ。

 

なるほど、美は鑑賞するだけで充分であるか。それならば、金だけ払えば何も言わない。しかしだ。美を会得していない心に、美を感じることができるのだろうか。そんなことは知らん。そうであるか。もう言うことはない。

 

戦争に負けたから堕ちるのではない。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。ー「堕落論

 

堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかないものである。ー「堕落論

 

堕ちることで人間は救われる。何から救われるのか。欺瞞からである。社会や伝統、道義とかいうものは、人間を、天に近いという錯覚に誘い込む虚偽だと考えてみる。そして疑うのだ。この高台はいったい何物かと。それは自分で掴んだものか?血を流し、苦しみながらたどり着いた終着点なのか?そこに偽りがあるならば、生きるために堕ちよ。自身を地獄の底に叩きつけるのだ。天へ通ずる道は、地の底からしか続いてはいない。

 

人間の、又人性の正しい姿とは何ぞや。欲するところを素直に欲し、厭な物を厭だと言う、要はただそれだけのことだ。好きなものを好きだという、好きな女を好きだという、大義名分だの、不義は御法度だの、義理人情というニセの着物をぬぎさり、赤裸々な心になろう、この赤裸々な姿を突きとめ見つめることが先ず人間の復活の第一の条件だ。そこから自分と、そして人性の、真実の誕生と、その発足が始められる。ー「続堕落論

 

堕落とは単に、力を抜くことではない。ただ奔放に暮らせばいいわけではない。人間はニセの着物を脱ぐ必要があるのだ。先ず、それからだということである。ニセの着物とは、あらゆる固定観念、立場や利益守るために組み立てられた、人性とは程遠い知識のことである。

 

先ず裸となり、とらわれたるタブーをすて、己れの真実の声をもとめよ。…堕落自体は悪いことに決まっているが、モトデをかけずにホンモノをつかみだすことはできない。表面の綺麗ごとで真実の代償を求めることは無理であり、血を賭け、肉を賭け、真実の悲鳴を賭けねばならぬ。堕落する時には、まっとうに、まっさかさまに堕ちねばならぬ。ー「続堕落論

 

道義頽廃、混乱せよ。血を流し、毒にまみれよ。先ず地獄の門をくぐって天国へよじ登らねばならない。手と足の二十本の爪を血ににじませ、はぎ落として、じりじりと天国へ近づく以外に道があろうか。ー「続堕落論

 

堕落自体は常につまらぬものであり、悪であるにすぎないけれども、堕落のもつ性格の一つには孤独という偉大なる人間の実相が厳として存している。即ち堕落とは常に孤独なものであり、他の人に見すてられ、父母にまで見すてられ、ただ自らに頼る以外に術のない宿命を帯びている。ー「続堕落論

 

悪徳はつまらぬものであるけれども、孤独という通路は神に通ずる道であり、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ。キリストが淫売婦にもぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、この道だけが天国に通じているのだ。ー「続堕落論

 

裸にならなければ、自分の真実の声は聞けない。何かを偽っていて、真実の代償を得ようなど虫のいい話だ。堕落するときには、全てを手放して、受身も取らずに堕ちるべきなのだ。保険をかける人間は甘い。保身のための固定観念は悉く剥ぎ取らなければならない。この意味が、わかるだろうか。

 

堕落は悪にすぎないと言いながら、それを求めるのは何故か。堕落は孤独という人間の実相を連れてくるという。人間は、どうしたって孤独に生きるしか道がない。死ぬ時の孤独をどうして嘆くだろうか。いつだって孤独であったではないか。ひとは自分以外に頼る道を断たれて初めて、努力をはじめるのだ。

 

孤独こそが、神に通ずる道なんだ。善人でさえ往生を遂げるのだ。どうして悪人が往生を遂げることができないだろうか。これは親鸞の説いた孤独の道だ。キリストも淫売婦に礼を尽くす。なぜなら彼女らが孤独の道、天に続く道を歩くからである。孤独が人を育てるとは誰もが言うが、それ以外に道がないとは中々言えない。堕ちぬくほど強い人がいないからである。

 

悲しい哉、人間の実相はここにある。然り、悲しい哉、人間の実相はここにある。この実相は社会制度により、政治によって、永遠に救い得べきものではない。ー「続堕落論

 

痴呆の進んだ老人を、孤独から救うことができるか。それは老人が、孤独に耐え得る強い精神を持つ以外に方法がないのだ。これが人間の実相なのだ。

 

人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。何物かカラクリによって落下をくいとめずにいられなくなるであろう。そのカラクリをつくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。堕落は制度の母胎であり、そのせつない人間の実相を我々は先ず最もきびしく見つめることが必要なだけだ。ー「続堕落論

 

人間は制度なしでは生きていけない。何か掴まっておく制度がなければ、堕ちる勇気さえ生まれないかもしれない。それでも、そのカラクリをくずして、人間は進んでいくのだ。制度にしがみつく人間の実相を、最もきびしく見つめることが必要なだけだ。

 

 

 

 

どうでしたか?真っ暗な闇を思わずにはいられないこの一つの論…私を含め、戦争を知らない人には少し想像しづらいかもしれませんね。中では、親鸞の言葉やキリストの話も出てきました。宗教と堕落とは相反する観念かもしれませんが、その思想を実践していたひとは孤独だったのかもしれません。真っ暗闇のなかを、血にまみれながら歩いてきたからこそ、素晴らしい教えを説くことができたのではないでしょうか。

 

安吾は特に、と言うよりはもはや完全に、日本人に向けてこの堕落論を投げかけています。日本人は特定の宗教を持たないひとが多いですよね。神という概念によって自身を監視し、自律を助けたり、無から有の世界へ導いたりする。私は宗教の意味をそのように考えます。日本人には、この手がかりがないということです。ある意味自由で、ある意味不幸だとも言えると思います。

 

「堕落するときには、まっさかさまに堕ちねばならぬ」

 

安吾は、宗教の導きのない日本人が半端に堕落しているということを見抜いていたのかもしれません。日本人は何をするにも中途半端だと、私も思うことがあります。半端に孤独を求めるくせに、SNSなどで半端な繋がりを求める。半端に現実を語るくせに、半端に理想を抱いている。ゆるーい紐で縛られているのが一番心地がいいものです。しかし安吾は、これを最も堕落した状態であると言っているのだと思います。ひとに合わせたくないと意地をはるくらいならば、孤独を歩いたほうが健全です。どうせ半端に堕ちるならば、いっそ堕ちきってから歩き出すしかあるまい。いや、堕ちきって歩く以外に、真に人間を歩かせる道はないのだ。それが、この「堕落論」の言葉ではないでしょうか。

 

このどこまでも続いているような、深遠なる暗闇の先に、一点の光が見えるでしょうか。

 

最後に、安吾が語る美学を少し考えて締めたいと思います。

 

彼は、美の観念などないのだと言います。人間の生活が充実しており、そこから出た必要で作られた物であれば、そこに美が生まれるのです。『日本文化私観』という論述のなかで「法隆寺平等院も燃えてしまって一向に困らぬ」とまで言っています。壊れてしまっても、必要ならば作ればいい。それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生まれる。なぜなら、そこに真実の生活があるから、だそうです。

 

日本人は、伝統や文化を重んじようと言って、なんでも残そうとしますよね。もし壊してしまって、もう一度作れないような物であるならば、それはもう無用であったと考えるのです。寺がなくても、良い考えを持った僧侶がいるならば、日本文化はなくならない。とても変わった考えですが、間違っているとも思えません。伝統や文化がそんなに大事ならば、自分で作ってみせよと。形が残らなければ消えてしまうような文化など、もう無用であるのではないかと。

 

底知れぬ虚無を実践した小説家、坂口安吾。彼の作品は難解だと言う人もいますが、この「堕落論」を掴んでしまえば、他の作品の空虚感にも実感が生まれるのではないでしょうか。ぜひ、身に刺さるような言葉を味わってみてください。