倦怠の勿忘草

“汚れつちまつた悲しみは 倦怠のうちに死を夢む”

「死に至る病」と言葉。

 

 

 

次の文章は、キェルケゴール著「死に至る病」の冒頭です。

 

「この病は死に至らず」(ヨハネ伝十一・四)。それにもかかわらずラザロは死んだ。

 

…一体人間的にいえば死はすべてのものの終わりである、ー 人間的にいえばただ生命がそこにある間だけ希望があるのである。けれどもキリスト教的な意味では死は決してすべてのものの終りではなく、それは一切であるものの内部におけるすなわち永遠の生命の内部における小さな一つの事件にすぎない。キリスト教的な意味では、単なる人間的な意味での生命におけるよりも無限に多くの希望が、死のうちに存するのである、ー この生命がその充実せる健康と活力のさなかにある場合に比してもそうである。

 

それ故にキリスト教的な意味では、死でさえも「死に至る病」ではない。いわんや地上的なこの世的な苦悩すなわち困窮・病気・悲惨・艱難・災厄・苦痛・煩悶・悲哀・痛恨と呼ばれるもののどれもそれではない。それらのものがどのように耐え難く苦痛に充ちたものであり、我々人間がいな苦悩者自身が「死ぬよりも苦しい」と訴える程であるとしても、それらすべてはー かりにそれらを病になぞらえるとしてー 決してキリスト教的な意味では死に至る病ではない。

 

キリスト教キリスト者に対して、一切の地上的なるもの、この世的なるものについて、更には死そのものについてさえもかくも超然たる考え方をすることを教える。人間が普通に不幸いな最大の災厄と呼んでいるものすべてをキリスト者がかくも誇らしげに眼下に見下すとき、彼は高慢にならざるをえないようにさえ思われる。だがそのときキリスト教は再び人間が人間としては知らない悲惨を発見したのである、ー 「死に至る病」がそれである。

 

キェルケゴールは、自身を抑圧的に育てた父親から明かされた罪によって、自分は神の呪いを受けているのだと自暴自棄になり、一時は頽廃的な生活を送っていたそうです。「死に至る病」を書いたのは、そんな絶望から弁証法的に抜け出した後のこと。つまり、彼が絶望を克服できたのは、弁証法によって新たな絶望、すなわち「死に至る病」を定義したことによるのです。

 

今回の記事では、「死に至る病 」とはいったいどういうものか。キェルケゴールの論理に則って、考えていきます。

 

先に弁証法を解説しますね。

 

弁証法とは哲学におけるひとつの論理形態のことです。ヘーゲルという哲学者が提唱しました。

 

論理形態といっても、難しい考えではありません。それは「変化の法則」とも言えます。ある物事が変化するときに、三つの階段を登るというものです。

 

一つ目の段階は、テーゼ(正、または自)です。ある物事の生まれたままの形、第一形態ということですね。

 

二つ目の段階では、テーゼ内部からある反抗分子が生まれます。これがアンチテーゼ(反)です。テーゼとアンチテーゼが互いに引き合い、ぶつかり合う状態と言えるでしょうか。

 

そして、三つ目の段階がジンテーゼ(合)です。テーゼとアンチテーゼが衝突して混ざり合った状態、正でも反でもない新しい形のことです。

 

ジンテーゼはまた内部からアンチテーゼを生み出し、対立していきます。これが弁証法です。つまりは対立から新しいものを生み出そうとする動きのことですね。ヘーゲルはこのような変化の繰り返しのおかげで、人間の精神や思想が発展してきたのだといいます。

 

キェルケゴールはこの弁証法によって、「絶望」という人間の心理状態を哲学します。結論から言うと、「死に至る病」とは絶望の弁証法によって生まれたジンテーゼ、新しい絶望の形なのです。

 

それでは、キェルケゴールの哲学に入ります。弁証法的に行くので、まずはテーゼとアンチテーゼを示しますね。

 

最初にテーゼとされる絶望は、「自己の本質を知らない絶望」です。

 

絶望の最も初歩的なもので、私がこれを一言で表すならば、「享楽的な絶望」と呼びます。誰にでも、この絶望と共鳴するところはあるのではないでしょうか?

 

世の中は、経済だとか、政治だとか、なんだか理解できないような仕組みで回っていますよね。芸術の前でも、才能という壁を厚く感じてしまいます。人間が自分の生きる道に迷ったとき、はじめにやってみるのは享楽に走ること、ではないでしょうか。

 

この絶望の裡にある人間は感性的な考え方に偏り、今さえ良ければいい、気持ち良ければいいと開き直ったような態度をとります。

 

こうした人間には主体性がなく、周りの空気、時代の潮流に流されるようになってしまうのです。

 

また、常に刺激がないと虚無感に苛まれてしまうので、何かに没頭して人生を傾けてしまったり、お酒やお薬の中毒になったりで、良い事はなさそうです。

 

ところが、この絶望にあるひとは、自分が絶望しているとは思っていないことが多いのです。

 

現代ならば殊更、刺激が溢れているために、そこに溺れることで絶望の意識は次第に無意識のうちに溶け込んでしまいます。

 

更に、この絶望の状態にある人間は、外からの影響で動かされているので責任能力を持ちません。何かを問い詰められても、自分は率先して関わってないから知らないと投げ出してしまうのです。

 

先行きの不明瞭な状態に絶望し、何に抗うこともなく支配に甘んじて生きていく。

 

耳の痛いあなたも、今は楽しいかもしれませんが、実は無意識で絶望しており、いつか心のバランスが崩れてしまうかもしれない、ということです。

 

さて、アンチテーゼを示します。それは「自己の本質を知っている絶望」です。

 

「自分とは何か?」という疑問に答えを見つけてはいるけれど、それが実現されないことで起こる絶望ですね。理想と現実のズレに、そしてそれがどうしようもないということに思い悩んでしまいます。

 

この「自己の本質を知っている絶望」をキェルケゴールは、更に二つに分類します。

 

その一つは、「自己の本質を知っているが、その本来的な自己になろうとしない絶望」です。

 

名前が長いとか言わないでください。

 

…しょうがないですね、短くします。

 

私がこの絶望を一言で表現するならば、「逃避型の絶望」と呼びます。

 

「はたして、描いた通りに自己を実現できるのか?そもそも、自分に自己を実現するほどの価値があるのか?」と考えて、自信を失ってしまった状態と言えます。

 

自己の選択する自由には、自己責任が伴いますね。その自己責任に対する恐怖心もあるのかもしれません。

 

しかし、逃げても逃げても、理想は脳裏にはりついてきます。どこまでも逃げ続けた結果、孤独に死を選ぶということにもなりかねない絶望の形です。

 

ではもう一つの絶望を、それは「自己の本質を知っているが、非本来的な自己になろうとする絶望」です。

 

はい、短くいきましょう。

 

これは「攻撃型の絶望」と言えそうです。これは自分の理想が叶わないことを他人のせいにして、責任転嫁をしてしまう絶望です。

 

自分は自己実現のために頑張っているのに、環境がそれを認めてくれなかったり、周囲の人が正当に評価を与えてくれていないと感じたりすると、「どうしてなんだ!」と憤ってしまいますよね。そうして、理想の自己の姿を湾曲させてしまいます。

 

捻じ曲がった自己を主張するくせに、その責任を求められると「自分をこうしてしまったのは自分以外の責任だ」と言い出し、その被害者意識からくる正当性を武器にして、周囲の人間を傷つけることに躊躇いがない状態です。とても危険な匂いがします。

 

さて、結局三つの絶望の形を知れました。ここから全く新しいジンテーゼを生み出します。

 

と、言いたいのですが、ジンテーゼとは、テーゼとアンチテーゼを示した時点ですでに見えてくるものなのです。

 

私もこの先にある絶望がどんなものであるか、はっきり理解しているわけではありませんので少し抽象的な言い方になりますが、ここまできて示さないわけにはいかないと思うので少し話しましょう。

 

先ずは、「自己の本質を知っていること」は前提条件として良さそうです。自己の本質を知った上で、それを実現しようと努力しなければなりません。

 

しかし、完全に実現できることなんて、なかなかないのだと思います。それでも、逃避せず、周囲を攻撃することなしに、立ち上がっていくしかない。これこそがジンテーゼとして表れた真の絶望、死に至る病なのかもしれません。

 

キェルケゴールはここに示したように、弁証法を用いてその思考を深めていきました。

 

私は更に考えを深めるために、ヘーゲル弁証法に立ち戻りたいと思います。弁証法が起こるためには、テーゼのうちからアンチテーゼが生まれなければなりません。

 

ヘーゲルによると、この分裂のエネルギーを生むものとは、人間の心に起きる「疎外」の感情であるそうです。

 

何か変だなぁ、何か違うなぁ、という感情のことです。

 

ある正しさの前で、人間はそいつへの敵意を無意識に感じています。その感情こそが、アンチテーゼを生み出すエネルギーとなるのです。

 

あなたが絶望するとき、きっと心のなかにこの感情が湧いているのでしょう。それを掬いとって、テーゼと対立させなければならない。

 

逃避や攻撃に転じるかもしれないその危うい感情を、自分自身の大切な感情として、正当に扱ってあげなければならないのです。

 

死に至る病」、その概要は伝わったでしょうか?絶望の前で私たちはどうすべきなのか、簡単にはわからない問題であるだけに、目を逸らしがちですよね。

 

キェルケゴールの哲学は、実存主義哲学に分類されます。いま、私たちがどうあるべきか?という問いに向かっていく哲学のことです。彼は弁証法を用いてこの問題に立ち向かいました。弁証法が起こるためには、自身の無意識を見つめて、疎外の感情を大切に扱わなければならない。

 

私はこの哲学に触れ、更に実践するためには、ここに関わる重要な因子として言葉があるのではないかと思いました。

 

「絶望にはいつも、言葉が伴っているのではないか」

 

次回の記事でその問題を考えていきたいと思っています。

 

長くなりましたね。最後まで読んでくれたことが嬉しいです。ありがとうございました。