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倦怠の勿忘草

“汚れつちまつた悲しみは 倦怠のうちに死を夢む”

紫陽花

 

今朝は肌寒い秋風に起こされました。

 

わたしは秋の香りが好きです。淡い青色のカーテンを開けると、いつもの小川と野山の風景が、爽やかな風と一緒に舞い込みます。秋の景色は透き通った感じがありますわね。透き通った空気のおかげで、秋の香りはいっそう深みを増すのです。わたしのお部屋は二階ですから、風通しも良いし、見通しも良い。朝に窓を開けるのがささやかな楽しみになっています。空が青いって素敵。

 

今日から日記をつけることにしました。わたしの部屋には、机と本棚しかございませんが、真っ白い壁もおもしろくないので、いつか模写した紫陽花の絵を飾っておりますの。

 

雨のなかで、傘を片手に絵を描くのは大変でしたが、 その絵を描くのは、絶対に雨の日でないといけなかったのです。紫陽花という花はとても不思議な花。普通、花といえば、暖かい陽に照らされて生き生きとして輝くものでございます。だけど紫陽花は違いますわ。雨のなかでこそ、その輝きはいよいよ磨き上げられて、少ない陽の光をぜんぶ花びらの周りに集めてきたような、奇妙な美しさを纏ってしまいますの。

 

わたしはその妖艶な輝きを描くために、わざわざ雨の日に小さめのキャンバスをからって、隣の街の紫陽花が群生する公園の池まで、足を伸ばしたのですから、それほどにわたしは、紫陽花の美しさが好きなのです。

 

デッサンも描かずに、いきなり水彩の絵の具を取り出して色を塗ったので、少し形が歪んでしまいましたけれど、この味気ない部屋にあの妖しい光を灯してくれるその絵のことを、わたしはとても気に入っております。

 

この日記は、別段、誰かに読んでもらうために書いているわけではありません。といっても、自分で読み返すこともきっとないでしょう。読んだって恥ずかしくなってしまうだけだわ。

 

ここ長崎の古風な街で、お家のために尽くすのも悪くない人生です。わたしにはもったいないくらい。でもね、何も残さない毎日はなんだか虚しくなっちゃうから、先程、石丸文行堂で寄り道して、飾り気のない、それでもちょっと高価な日記帳と、HBの鉛筆を二本、買ってきて、今、この文章を書いているということなのです。

 

お兄さまが今度、長崎に帰ると言っていらしたわ。長崎の造船所に就職が決まったらしいの。長崎港を彩るあの船たちを造る仕事に就くなんて、とても素敵だと思う。お会いしてお酌をして差し上げるのが楽しみになってきた。

 

わたしの唯一の心配事は、弟の直也のことね。小説家になるとか言って東京へ向かったけれど、今頃どうしているのかしら。きっと寂しくて泣いているのでしょう。長崎に帰ってきたらわたしは歓迎するわ。添い寝してあげたっていいのに。「井の中の蛙大海を知らず」という言葉がありますけれど、自身がどこの井戸にいるのかも知らない蛙は、どこに行っても変わらないのだと思う。男の人ってどうしていつもカタブツで、難しいことばかり考えなさるのに、そういう大切なことを忘れてしまうのかしら。

 

「君死にたまふことなかれ」

 

時代が変わっても、姉が弟を思う心は変わらないものなのね。 

 

 

風が立ち、浪が騒ぎ、
無限の前に腕を振る。
その間、小さな紅の花が見えはするが、
それもやがては潰れてしまふ。
風が立ち、浪が騒ぎ、
無限のまへに腕を振る。
もう永遠に帰らないことを思つて
酷白な嘆息するのも幾たびであらう……
私の青春はもはや堅い血管となり、
その中を曼珠沙華と夕陽とがゆきすぎる。
それはしづかで、きらびやかで、なみなみと湛へ、
去りゆく女が最後にくれる笑ひのやうに、
厳かで、ゆたかで、それでゐて佗しく
異様で、温かで、きらめいて胸に残る……
あゝ、胸に残る……

風が立ち、浪が騒ぎ、
無限のまへに腕を振る。

 

 

わたしはいつでも待っているわ。直也のことも、わたしがお慕い申し上げるあなたのことも。

 

九月二十二日、奈々。