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倦怠の勿忘草

“汚れつちまつた悲しみは 倦怠のうちに死を夢む”

自己中

 

小学生の頃だったか、「ジコチュー」という言葉が流行っていたという記憶がある。ジコチュージコチュー、お前はジコチューだ、あいつはジコチューだと、みんなが喧しいくらいに言っていた記憶である。私は精神面の成長が遅かったようで、小学生の頃の記憶は曖昧であるし、言葉というものが強く意識されてはいなかった。なので、「ジコチュー」という言葉がどのような意味であるかなど知る由もなく、私はその言葉に対して、どうやらひとを罵倒するために使われているようだと、ただそれだけの認識を持っていたのである。

 

私はその言葉を憎むべきだと思った。なるだけ使うことを避けるべきなんだと考え、「ジコチュー」という言葉を厭悪していた。

 

私は多分、高校に入るまで単なる阿呆だったのではないだろうか。痛そうだから格闘技が嫌いで、長崎の平和教育のおかげで、戦争も大嫌いだった。「原爆」という言葉は私の吐き気を催し、爆心地の近くを通るだけで熱を出したこともある。当時の私の世界には纏まりがなく、私は世界という枠組みさえ知らなかったのだと思う。爆弾なんて落ちてくるわけがないのに、飛行機の音を聞けば、その恐ろしさに身震いがして、脂汗が出てくる。随分と心の忙しい毎日であったと私は少年時代を振り返る。

 

話は逸れたが、要するに私は馬鹿で、「ジコチュー」とはひとにイヤな思いをさせる言葉であり、「ジコチュー」なひとは即ち悪いひとなのだから、嫌われて当然であるのだと思っていた。

 

高校に入り、本を読むようになって世界が纏まりを持ち始めると、「ジコチュー」は「自己中」という言葉に当てはめられ、「自己中心的な性格」を略している言葉なのだと知った。そうして、必ずしもその性質が人間を悪くするのではないということに気付いた私は、それまでの自分、世界が暗闇の中にあった頃の自分の性質こそが、その言葉が表す悪い側面のものであったのだと知り、これまでどれだけの恥を晒して生きてきたのだろうかと悩みを持ったのだ。

 

自己中心的な性格はなぜいけないのか。答えはひとに嫌われるからである。ひとに嫌われることを厭わないならば、自己中心的な性格であることに何か悪いことがあるだろうか。最近まではそれが思い付かないで、自己中心的な性格も良いものだと思っていた。実際、ひとの目を気にせず、ジコチューでいれば楽であるし、芸術の世界ではジコチューであることがむしろ良いことであるかのように扱われている。

 

言ってしまえば、人間は世界を自己中心的にしか認識できないのであり、表現をする人間というのは必然的にジコチューになってしまうのだ。高校の友人は、それまでの友人より頭の良いひとばかりであったが、それだけジコチューなひとも多かった。自分の意志で決断がきちんと出来る人間は自己中心的な性格になりやすいのである。また、一般に言われている「頭が良い」という人間の性質は、物事を単純化して考えることが得意であるということがその十分条件であるらしく、そのような思考回路を持っているひとは、人間関係も単純化して考える傾向にあり、それは即ち自己中心的な人間関係を頭の中で組み立てているということであった。しかし私も理系の人間で、人間関係なんて面倒だと思っていたので、互いに面倒な相手として割り切ってしまっている殺伐とした関係性の方が心地良かったのだ。いや、この場合は「都合が良かった」と言うほうがしっくりくる。

 

そのような高校生活を送った私も大学生になり、比較的古い文学を読むようになった。特に戦前から戦後にかけて、日本が劇的に変わらざるを得なかった時代に生き、渦潮のような混沌を鋭敏に感じ取って表現した文学者の言葉は、鋭く重厚な感じがある。

 

その時代の文学がなぜ魅力的であるのか、それを一言で表すことは出来ないのだが、ここでは、古来の日本的な思想とアメリカから輸入された先進的な思想が衝突し、烈しく火花が飛んでいるような感じだと言ってみる。西洋哲学の膨大な歴史を一身に受けながら、彼らの躰に染みついた日本の思想がバネのように反抗しているのだ。

 

日本に自己中心的な性格の人間が増えたのは、専ら戦後になってからの風潮であると言って差し支えないであろう。西洋文化が黒船来航によってなだれ込んでくるまで、日本人は人間関係を大切にしてきた民族である。井原西鶴の書いた物語などを読んでいると、江戸時代の日本人がどのような共同体を形成し、「村」というコンパクトな社会がいかに活気づいていたのかよく分かる。人間関係は自然と一体であり、都市と農村の商売上の利害一致が見事であるのだ。

 

かつての日本が独自の社会を形成し、一見すると現代より合理的であるような仕組みを作れたのはなぜだろうか?そこには、昔の日本人に根付いていた「無明」という感覚が関係しているように思われる。それは仏教の言葉であるが、日本人がその詳細を理解していたのかどうかはともかく、「無明」であるということは、いけないことだという認識は持っていたのではないか。「無明」とはつまり、世界が暗闇の中にあるということだ。自我と世界との境がはっきり区別されずに、ぼんやりとした認識しかできないことを言う。そして、「自己中心的な性格」の自己のことを仏教では「小我」という。ひとはこの小我によって世界を知覚して行為するのであるが、仏教ではその自己中心的な行為を「無明」であるとして、それでは困ると言っているのだ。

 

敗戦した日本が、米国と共に掲げた日本国憲法には「個人の尊厳」ということが繰り返し強調されているが、これは仏教の観点から見ると、「小我」というものが存在するという誤った認識に基づいた思想ではないだろうか。「個人主義」の「個人」とは何だ?自由を見境なく求める我儘な自我のことであるか?それならば、私はこれに賛同できない。

 

芸術家は個性を大切に扱うが、昭和の頃の日本の芸術家は小我と個性の違いを弁えているように感じる。そしてヨーロッパの思想も既にこの区別が済んでいるようだ。もしかすると、現代でこの違いに困惑しているのはアメリカと日本くらいではないか。個人主義自由主義だと言って、最も優先されているのは個性ではなく国の利益である。功利主義的な思想によってムリヤリ切り分けられた「個人」は、その重みに耐え切れず潰れ始めているではないか。

 

素直に世界を見つめれば分かるはずである。自我など存在していない。目の前にある木と、私たち人間の躰の違いは何だ?科学的に詳細な分類を抜きにすれば、どちらも原子や分子の集合体であろう。そこで疑問を持つべきなのだ。「私」とはいったい何者であるのか?その問いは「心」という概念を要求する。そのときに、デカルトならばこう言うのである。

 

「我思う、故に我あり」

 

この電撃に打たれた者は、仏教的にも正しい個を意識するようになる。私たちは躰があるから孤立しているように見えるが、実はそうではない。躰は個人の本質ではなく、もっと他に「私」という存在を確立している何かがあるはずなのだ。ひとによっては、「私」など無いと悟る者もいるだろう。あなたはどこにいる?自然の中、複雑な人間関係の中にあって初めて、あなたは「あなた」を認識し得るのではないか?世界は思っているよりも広いものである。

 

幼年期から青年期までの私は「無明」であった。今もそうなのかもしれない。しかし、以前よりは世界を正しく認識しているはずである。私の場合はその仕事の殆どを言葉が担ってくれているのだ。認識の仕方はひとによるのであろう。大切なのはそこに小我による認識を挟まないことである。即ち嘘はつくな、世界と自己の認識と表現に誠実であれ、ということである。この認識の方向に、日本的な美が存在しているような感じがする。

 

自由と自己について、今一度考え直してみることも大切であるのではないか。キリストも言っている。

 

「人の子は罪の子である」

 

人の子も放っておけば罪を犯す。個人主義の本来の意味とは?個人の尊厳の本来の意味とは?個人が大切だと言って、教育は個人を放っているではないか。日本人が没個性へ向かっているのは明らかである。人間を、人間関係を、そしてそれらと連なる世界を単純化して考えていても、複雑なものは複雑なままである。合理的に考えるということは、何でもかんでも単純化して考えることではない。どうして、そのような単純な事に、単純に気付けないのか?インターネットにより、世界が広がったような気になってしまうのだが、実世界はひとつも変わっていないのだ。インターネットの世界で小我を表現していたって何にもならない。もっと複雑で美しい個性の世界を、ありのままに表現するべきなのだ。

 

ひとりは寂しい。表現によって共感を得たい。人間の切実な感情である。ならばどうして、そのような表現が生まれないのか?小我という仮象が囁くのだ。

 

「恥ずかしい表現は嫌だ。もっと立派に思われるような表現がいい。」

 

小我からは全く嘘の表現しか出てこない。虚しい。寒い表現である。切実な寂しさは伝わってこないのだ。

 

 

 

 

 

私の、あなたの表現はどこにあるのだろうか?あなたは、それを真剣に探したことがありますか?