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倦怠の勿忘草

“汚れつちまつた悲しみは 倦怠のうちに死を夢む”

紫陽花

 

 

堰を切ったように雨が降っております。

 

私は務めが終わって、自宅に最も近い駅のホームで雨宿りをしていました。古びた線路の隙間から、水の増した川が轟々と流れているのが見えています。雨の音なのか、川の流れる音なのか、神経を集中させなければ判別がつきません。月は厚い雲に呑まれ、明かりは遠くに並んで見える街灯と、チカチカと点滅して、気付けば暫く消えているような、頼りない電球のみでありました。

 

濡れていないことを確認し、緑色をしたプラスチック製のベンチに腰掛けて、身体中の力と、深く吸った息をいっぺんに放ります。錆の入った鉄骨の交差している頭上に時計がありました。見ると、針は九時を指しています。見渡しても人影はありません。コンクリートの隙間から生えた爆蘭が、少ない明かりを集めて、本物の線香花火を見せてくれているかのようでした。雨は勢いを強め、傘の無い私は細長い透明な箱の中に閉じ込めらた虫になって、黙っている他にやることが見つかりません。けれども、その異様な静けさはすぐに、私を妙な陶酔へと誘い込み、うつらうつらとして、身体は完全に油断の姿勢を見せてしまっていたのです。

 

ふと目が覚めると、向かいのホームに女性が一人佇んでいるではありませんか。少しギョッとして、霞んだ目に力を入れると、そこに現れたのはどうやら、見覚えのある立姿なのでした。

 

沈んだ赤色のコートを着ている彼女は、毎朝、出勤でこの駅を利用するときに見かけるあの女性です。私が電車に乗って去ってしまうまで、ずっと動かずに立っているので、よく覚えています。きっと、毎日同じ時刻の電車を利用していて、その電車は私が利用する電車よりも遅くこの駅にやってくるのでしょう。これまではそう思っていたのですが、こんな時間に、いつもと同じように立っている彼女を見ていると、実はずっと長い間、そこに立ったままなのではないかと思えてきました。

 

肩まである黒髪と、重い前髪の隙間から覗く丸くて大きな瞳が印象的です。常に俯き加減で、長い睫毛が微かに動いていました。この薄暗い空間に、昼間の光を取って貼ったかのように、白い肌がのっぺりと浮かんでいます。私は見惚れてしまっている自分に気付いて、無遠慮に到来する、この恍惚とした感覚に恥を覚えました。それにしても、彼女は寂しげにいったい何を見つめ、何を思っているのだろう。夜の海に光る石を投げて、淡い光の波紋が広がってくるかのような、そんな景色の美しさに、私の心はそこから一歩も動けなくなってしまったのです。

 

不意に、電車が雨の音の壁を破って、ホームにやって来ました。その音で我に返った私は、咄嗟に立ち上がり、冷え切った身体が、ぶるぶる震えていることを、ようやく自覚しています。電車が一時停車して、また雨の音の壁を破って、向こうへ走り去ってゆきました。向かいのホームに彼女の姿はありません。代わりに、彼女がいつも立っている場所の背面に、紫陽花の咲き乱れている様子が浮かび上がって見えたのです。

 

私は、幼い頃に姉から聞かされた紫陽花の話を思い出しておりました。紫陽花は、雨の日になるといっそう、その美しさを増します。これは、紫陽花の葉脈に流れている毒がそうさせているのだと言うのです。姉が言うには、紫陽花の赤色は毒の色だそうです。もともと青色の花の花脈に、人間の鼓動が血を送るかのように、時折、赤色をした毒が回ります。それで、紫陽花は紫色になったり、赤紫色になったりする。すぐに何の根拠もない話だとわかりましたが、姉は、そうでもないと雨の日の紫陽花の美しさが噓みたいになってしまうと言っていました。

 

冷静の青い流れの中に、少しの赤い波がある。ときに、何かのきっかけで、赤い波が大きくうねり、自分が自分でないような気分になって、興奮と寂しさを織り交ぜにした、静かな赤紫色の幻覚を見ることがある。

 

 

雨の降る静かな晩に見た風景は、紫陽花の美しさに毒されたこの身体が作り出した、幻想だったのでしょうか。