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倦怠の勿忘草

“汚れつちまつた悲しみは 倦怠のうちに死を夢む”

音楽

 

 

芸術や表現ということを考えていると、あるハッキリとした疑問に必ずぶつかります。

 

学校で習う学問は、問題があれば当然のように答えがあるものが大半でしょう。しかし、ただ習っているだけの私には、当然の裏にどれだけの、意識されずに放られている不可解な事実が隠れているか、そちらの方へ興味が向くことはないのです。解らないものは、解らないという納得の仕方をして、片付けてしまっているのでした。

 

芸術はその性格上の趣向から、抗えず不可解な事実の方へ歩み寄ってゆきます。問題があっても答えはわからない、それまでならばまだ良い方で、世間に溢れる自意識の解放や、内面の露出などの酔狂な表現の殆どが、向かうべき問題さえも見えていないという表情で、まるで吹きつける異常な冷風に気圧された種々雑多な植物たちが、出るべき季節を取り違えて、それぞれの勘だけを頼りに顔を出してしまったというような、異界とでも言うべき景色が見えてくるかのようです。あまりに近くに生えてきた別種の植物どうしが、聞こえないように小言を吐きながら、「個人」という鉢の中にある安泰を求めて叫んでいる。殖えすぎた形式に溺れた者が浪漫を求めていた景色は既に懐かしくもあり、膨張して破裂しそうな浪漫に呑まれた個人は、消えたわけでもない形式の山の中から自身の叫びに似合う形式をさがしだそうと血眼になっているのではないでしょうか。はたして、形式は答えになってくれるのか、蔓延するニヒリズムの前で、形式は単なる個性の容れ物となってしまったのではないか。わたしたちの要求する表情は、そしてその表情の要求する形式は、いったいどこへ消えてしまったのでしょう。

 

ところで、最近の私はというと専ら音楽のことを考えています。芸術の底を覗くと、音と色という悪魔のような恰好をした子供が二人、こちらを見ているのですね。彼らは言葉を持たずにニコニコと笑っているだけで、私が語りかけても、聞いたような素振りは、一応とるのですが、答える積りは微塵もないと言った様子なのです。

 

ドイツの文豪として有名なゲーテは、モーツァルトの音楽を次のように評していたと言います。

 

如何にも美しく、親しみ易く、誰でも真似したがるが、一人として成功しなかった。幾時か誰かが成功するかも知れぬという事さえ考えられぬ。元来がそういう仕組みに出来上がっている音楽だからだ。はっきり言って了えば、人間どもをからかう為に、悪魔が発明した音楽だ。

 

音楽の才能が、たぶん最も早くあらわれるのは、音楽はまったく生まれつきの内的なものであり、外部からの大きな養分も人生から得た経験も必要でないからだろう。しかし、モーツァルトのような出現は、つねに説き難い奇跡であるにちがいない。けれども、もし神が時として我々を驚かせるような、そしてどこからやってくるのか理解できないような偉大な人間にそれを行わないならば、神はいったいどこに奇跡をおこなう機会を見出すだろうか。

 

ー エッケルマン「ゲーテとの対話」

 

若い頃のゲーテは、ドイツにおける、感情の解放、天才の独創を叫んだ文学運動「Sturm und Drang(シュトルム・ウント・ドランク)」の担い手でありました。しかし、ゲーテを分析する学者の間には、彼は浪漫主義を嫌った古典主義者であるという定説があります。この理性に対する感情の優越に呆れ返り、厳格な智者として数々の功績を残した文学者の目が、音楽の悪魔を捉えていたとしても可笑しな話ではないように思えるのです。

 

私はショパンの「仔犬のワルツ」から始まる三つのワルツ(ショパンの作品64は、三曲のワルツで編成され、なかでも64-1は、親しみを込めて「仔犬のワルツ」と呼ばれている)を聴きながら、気儘に跳ねて歌っている浪漫派音楽家に笑われているような気分になっているのでした。現代に名を残す音楽家で、好んで自身を浪漫派とか古典派とかいう観念に縛り付けた者がいたのでしょうか。そのような言葉の復讐は、後になってなんとか彼らの才能を理解しようとした理論家たちの虚しい抵抗であったのではないか。音楽を言葉で捕らえようと懸命になる私たちのような人間は、いつも自分の投げた縄に絡まって身動きが取れなくなるのです。「自分の耳が許す音だけが音楽である」と言い放つ音楽家の前で、私に何が言えるのでしょう。個性や主観の表現には、特殊な心理と感情が伴い、またそれを意識して発見することが必要になります。当然それは、あらゆる経験に対する個人特有の解釈と形式を求め始めるのでしょう。この仕事は比較的簡単に、言葉が果たしてくれることを私たちは知っています。音楽家が音という自分等に特有の材料をわざわざ言葉によって分析し、その運動を理解しようという方向に進んだ結果、そこに不吉な悪魔の姿を見て発狂してしまうという、滑稽とも言える姿を空想してみても、ちっとも笑えないのです。

 

音とは何か。空気の振動である。もっと砕いて言うならば、私たちを取り囲む大気中の物質が、同じく大気中にある物質の振動に影響されることによって波状運動を始め、さらに人間の身体がそれを感知することで捉えられる物理現象である。ここに何か音楽を生む要素があるでしょうか。いや、音楽というものはもっと私たちの側にあるものではなかったか。そのような回りくどい理解をしなくても、私たちの捉える世界は音で溢れているではないか。

 

音にはどうやら、聴いていて心地よい音と、不快な音とがあるようなのです。そこで、音をよく観察してみると、自然に響く音は幾つかの単純な音に分解できるのだとわかる。そうやって刻まれた音階を、再び並べなおすことで旋律が生まれます。ある音を基底に置き、跳ねたり沈んだりさせることで美しい旋律となるのです。これを皆が一様に認識出来るように、時間という概念を幾つかに区分するのでしょう。美術が空間を彩る技術だとするならば、音楽は時間を彩る技術だと言えそうです。そうして、時間をどれくらいの速さで進めようかと考え出されたのが律動であり、主題に深みを増すために音と音の調和を研究した結果、和声という概念が生み出されるのでしょう。

 

このように、楽器演奏の経験の浅い私が、少々乱暴に言葉で説明した音楽という概念も、結局は現在完成されている西洋音楽を聴くことで、逆説的に創作された物語でしかありません。音楽という形式は、たったの一度だけ、空間的に断絶された様々な土地に住む人々によって発明されたのみではないのか。それ以降はそこに言葉の解釈を貼り付けたことで、何かを発明した気分になっているだけなのかもしれないのです。本来は意味のない音の組み合わせという単純な土台の上に、上手くそれを説明するために付属した、素人目にはとても音楽そのものとは思えない形式によって、その骨格を成しているのだと思います。優れた芸術が暗に語るところの、美とも呼べるある目標は、全てこの形式の枠組みの裡に取り込まれているのでしょう。安易に形式を否定したがる浪漫派の人間は、形式を解体し、そこにある残り滓こそが美だという顔をしている。ところが、そいつもよくよく見ると、感覚を麻痺させて涎を垂らした怠惰な表情に見えてくるのです。過ぎ去ったものに縋りたがる古典派の人間もまた、形式を解体し、美の全てを理解したような顔をして澄ましています。ところが、解析されていない新たな美を前にした途端に、肝を潰したような苦笑いを浮かべているのではないでしょうか。父親による徹底した音楽の英才教育で、形式を感覚のレベルまで沈めてしまったモーツァルトは、父に宛てた手紙の裡に、「自分は音楽家だから、思想や感情を音を使ってしか表現出来ない」という実感を告白しています。音楽家にとってあまりに単純で、あまりに深すぎるこの実感は、いまではすっかり忘れられているのではないか。言葉が、人を沈黙に誘い込むような絶対的な美を表現するに至るとき、このモーツァルトに捉えられた素朴な実感のように、ごく単純で素朴な実感に、だんだんと付与されていった言葉が、積もり固まっていく、というような動きをするのだと思うのです。実証や論証によって与えられる自尊心を破り棄て、表現によってその高みへ辿り着こうとする。そんな胆力を絶えずに持った人間だけが、真に美の形式の発明を果たす可能性を握っているのだと思います。多くの形式を全て崩し去ってしまおうと割り切ったような、狡賢い方法の先に真の美があるだろうという根も葉もない約束は、全く幻想に過ぎないのかもしれないのです。

 

実に、音楽の父とも言われるバッハがバロック音楽の時代を牽引し、その後、古典派浪漫派と流れていく音楽史の定説には、長い停滞の流れを、細かに分類したがる学者の短気が表れているように思われるのです。この間に数多の器楽形式が発明されたのは疑いようもなく、父親に「作曲のどんな種類でも、どんな様式でも考えられるし、真似出来る」と無邪気に語るモーツァルトの影さえなければ、堂々たる音楽の歴史に違いありません。

 

「きらきら光る 夜空の星よ」と口ずさんでみてください。この有名な童謡のメロディーは、モーツァルトの手によって新たな十二の顔を見せてくれます。この悪戯っ子の笑い声のようにも聴こえる作品の全体像は、準備された形式を練って苦心の先に出来上がったという趣を感じさせるものではありません。作曲家の耳に聴こえている、星空を一目で眺めたような、完成された姿で表れる音の豊かさを感じることが出来るでしょう。おそらく彼の耳には、自然が提示する多様な和音の美しい響きが聴こえているのです。ある主題の旋律が流れると、たちまちその後に続く無駄のないメロディーの変遷が浮かび上がるというような、凡人にはとても考えられない、また反対に、凡人だからこそ親しみやすいような、端的に表されてしまう美学公式があるのではないでしょうか。

 

音楽を聴いて気持ちが良いのは、私たちに共通して流れている時間の感覚を、巧みに切り取り、最小の表現へ至らしめた形式の美があるからなのです。あるリズムを感じると人間の身体は無意識のうちにそのリズムに合わせようと働きます。身体は次に来る拍子を本能的な時間感覚で掴むのです。それがピタリと嵌れば快感になります。そこで唐突に変化が訪れても不快感があるだけなのですが、音楽は変調にもきちんと自然の美を描くのですね。自然は常に変化するものですが、その変化は崖から落ちるような具合のものではありません。感知されないほどの微妙な勾配を転がるような変化なのです。音楽はその事実を如実に表現にしているのだと思います。

 

星が瞬く、雲が流れる、山が彩りを着替える、雪が溶けていく。時間と共に流れるものは自然に溢れています。世界には常に音楽が流れていると言えるのではないでしょうか。音楽がいつ始まったのかと考えても始末がつきません。つまり音楽は、終わりを表現しているのでしょう。人間がこの世界に悠然と流れている時間を捉えるには、終わりを意識するしか方法がないということかもしれないのです。