倦怠の勿忘草

“汚れつちまつた悲しみは 倦怠のうちに死を夢む”

とケル。

 

一、「山吹色と桜色」

 

私はどこに来ているのか。

 

先生から教えてもらった「恵理」という停留所の名を頭の中で繰り返す。えり、えり、えり、えり。「駅前から乗れば370円で着く筈です」と先生は暢気に言っていた。整理券に書かれたのと同じ番号の下に「370」と表示されてから、えりえり、と口を動かしているのに、アナウンスはなかなか答えてくれない。

 

窓に流れる景色は私の見たことのない景色のはずだ。本当に見たことはないのだけれど、ガソリンスタンドの橙色の看板と、車道の傍に植わっている欅の木の並びは、記憶のどこかしらに埋まっていた景色の配色とよく似ている気がする。いつかこの場所にやって来たのだ、とまでは言えないけども、いつか車やバスで通りかかったかもしれない。その頃の私はきっと、安心しきって眠っていた。

 

「次は終点、えり、えりでございます。長らくのご乗車、お疲れ様でした。」

 

不意を突かれた私、ギョっとして案内を見ると、 整理番号「3」の下には「380」との表示がされている。体温でぬるくなった小銭は「10」円分足りていない。焦って財布を覗いたけれど、十円玉は見つからなかった。それまでさらさらと流れていた景色は、すっかり素知らぬ顔をして止まっている。

 

慌てて両替機に五十円玉入れる。私が「すいません」を繰り返すと、運転手さん黙って前だけを見て、ゆっくり会釈した。表情が読めなくて感じが悪い。これだから両替というものは苦手なんだ。終点だったからまだ良かったものの、降りる直前になってから両替をするのはなんとも賤しい感じがする。私はなんでも、人目に付くことを嫌うのです。誰にも見られず空気のように過ごしていられたらそれで満足なんだから。バスや電車に乗るときには、事前に料金を調べてから乗らないと落ち着かない。降車してホッとするとき、掌は汗ばんで少し錆びの匂いがする。でも今日は違った。先生の理不尽に憤憤として降りたから、手の匂いなんて気に留まらなかった。

 

「あの頓珍漢!」と頭の中で叫びながらバスを降りると、ヒールのある山吹色のサンダルが「トン、チン、カン」と音を立てたような気がする。「チンカン」のところは、躓いて転げそうになった音である。「いったい何に対してはりきっているのか」と、慣れないヒールを履いている私を見て、ほんに誰も見ちゃいないのに、誰かから笑われたような気分になってしまうのだった。それまでの憤りもぴゅうと冷めちゃって、また、知らない風の香りに包まれると、ストンと寂しくなってしまう。

 

先生、ここはどこですか。

先生、どこにいらっしゃるのですか。

 

半べそをかいて周囲を見渡すと、停留所の背面にある広場の方から、普段とちっとも変わらない様子の先生が平然として歩いてきた。襟のついた、はっきりとした紺色のシャツが案外似合ってしまう顔立ち。私のように顔が色に負けてしまう人間には、羨ましい限りのお顔立ちでございます。

 

お久しぶりですね。おや?奈緒さん。なんだか雰囲気が変わりましたか。これまでの奈緒さんよりずっとおとなしい感じがします。」

 

話す言葉の一息が長いところ、私のことを「なおさん」と呼ぶときに、「を」とも「ほ」ともつかないような微妙な発音で、空気の抜けたような「なおさん」を連呼するところ、すべて普段通りである。先生の笑顔はのんびりしている。さっきの運転手さんには絶対に真似っこできない笑顔だ。でもあなたバスの運賃、間違ってましたよ。

 

「…先生、ここ終点らしいです。ご存知でした?」

 

「ええ、家から最寄りのバス停はここですからね。でも私は普段から、教会前のバス停で降車します。歩きたいからなのです。」

 

知っていたのなら教えてくれたって良さそうなものだ。私の心の奔走も余所にして、教会前からここまでの散歩路を、まるでいま歩いているかのように話している。実に楽しげだ。私の心の奔走も余所にして。

 

私はどうして、なるがままに頷いているのか。 私はどうして、なるがままにこんな辺境へとやって来たのか。先生はいつも、私ではなく他の何かを見ているらしかった。

 

奈緒さん、お蕎麦は好きですか?」

 

「はい、好きですよ。」

 

「よかった。では、向かいましょう。」

 

先生が微笑むと同時に、秋風が山吹色をして私たちの背中を押した。まだ秋蟬が残って鳴いている。山の土の匂いの奥に、微かな潮の香りが漂っているような空だ。

 

「薄花桜」という言葉を調べると、ちょうど今の、この空の色の名前だとわかる。「桜」なのに、それは青色の仲間である。群青の空に、仄かな桜色の靡いた色。

 

先生のシャツも、新調した私のワンピースもまるっきし、おんなじ色に染まっていた。

 

 

「山吹色と桜色」