倦怠の勿忘草

“汚れつちまつた悲しみは 倦怠のうちに死を夢む”

とケル。

 

二、「ミルクティー」

 

「そう口をぱっくり開けていると、どこやらか名も知れぬ虫が飛び込んで来ますよ?」

 

空を眺めてポカンとしている私に向け、先生が言った。「虫」と聞いて我に返り、私はキュッと唇を結ぶ。空は私の口から何かを抜き出して、さらに何か悪いものを口に飛び込ませたのだろうか。飛び込んできたものは虫なんかよりもっと、大きくて透きとおったものだと思う。先生が苦笑して私を見ている。気付けば私の口は幼いこどものように、カパカパとだらしなく開いているのである。

 

先生には、私の口を侵す何かが見えたのだろうか?はたしてその忠告は間に合いましたか?

 

ねぇ、先生。どうですか?

 

私に魂というものがあるのならば、この身体のどこかにあるのではなくて、あの空のどこかにポッカリ浮かんでいそうなものだ。

 

奈緒さん。さあ、行きますよ。」

 

先生がそう言って私の手を引こうとしたとき、私は胸が縮んで一歩退がってしまった。先生はまるで何も考えていないように見えるのだけど、私がそれに安心して魂を飛ばしていると、中身が抜けて柔らかくなった私の心に、細く角張って大きな、また反対に少女のように白く繊細なその手で躊躇わずに触れてくるのだ。そんな先生の悪戯心は、私の苦手とするところだった。なによりいまは、私の手がサビ臭い。

 

「あの、先生、その私、、お手洗いへ行きたいです。」

 

「ああ、この広場にあったはずですよ。ほら、あちらに。」

 

「では少し、失礼します。」

 

そそくさと、先生から逃げるようにトイレの方へ歩く。ああ、このサンダルは失敗だ。広場の泥に踵は刺さって、何かをグチャグチャと跳ねている。初めは鮮やかだった黄色も、くすんだ黄土色に見えてきた。

 

「失礼します」とは一体何だ。「失礼します」とは。

 

私は相手が誰であったとしても、稚拙な「敬語らしきもの」を使ってしまう。なので頻繁に時宜に合っていない言葉を吐いてしまうのだ。私はその度に泣きたくなる。私はどうしようもなく、見えない壁を抱えているらしい。みんなその壁を見て、呆れた顔をして私の許から去ってしまう。

 

個室に座って私は、ドアの白い壁に先生の顔を思い浮かべて見た。あんまり上手に描けない。太い潰れたペン先で書かれたような下品な落書きが、私の邪魔をする。

 

先生と会うのはこれで何度目になるのだろうか。街の港公園に、内装の広々として客の少ない私好みのカフェがある。そこへ入ると度々、難しい顔をしてぶあつい本とにらめっこしている先生を見つけた。先生は決まって、テラス席に座っていた。私はいつも、潮風の吹き抜ける大きな硝子戸の側の、いちばん壁際、隅っこの席に腰掛ける。私は特にやることがないので、ずっとずっと、先生のしかめ面と港の風景を眺めていたのだった。

 

先生が読んでいる本は名前も聞いたことのない難解めいた本ばかりで、そいつをうんうん唸りながら読んでいる先生を見ているのが、なんとなく可笑しくて私は好きだった。初めに声をかけたのは、驚くべきことになんとこの私である。

 

ある日先生は、宮沢賢治の童話集を読んでいらした。海風が強く吹きつける日だった。先生はこれまでに見たことのない、穏やかでやさしい顔をして澄ましていらした。私は先生に近寄らずにはいられなくなってしまって、日頃鬱積した何かを発散するかのように、ひと思いに声をかけたのであった。傍で鷗がきゃおきゃおと騒いでいた。私は勢いづいて「あっ、私ここに座りたいです。」とかなんとか言ったらしい。

 

挙動不審。その挙動は私にとって「窮余の一策」とでも言うべきものだったのだが、もっと気を利かせて、頭に「失礼します」とか何とか言えなかったのだろうかと思う。

 

案の定、先生は困惑した様子で「では、私は退(ど)きましょうか。」と腰を浮かせた。私はうろうろとして「い、いやです。座っていてください。読書の続きをどうぞ。だからあの、向かいに居てもいいですか?」と言った。

 

先生は「はてな」といったような顔で、いっときは考えを巡らせていたようだったけれど、すぐに何かを了解して、少し私に笑いかけてから、「では、ご一緒させていただきます。」と小さく頷き、再度宮沢賢治の童話集を開いたのであった。

 

先生はアイスティーにミルクとシロップを垂らして、ミルクとシロップを垂らしたままのオレンジ色のアイスティーに、赤いストローを挿していらした。私は同じく、アイスコーヒーに挿された赤いストローを指でつまんで、無闇にくるくると掻き混ぜていた。

 

ミルクが粒の大きな氷にまとわりついて、シロップは透明な層を作って沈んでる。私はジッと見る。ミルクのモヤと先生の澄んだ表情を交互に見る。傍で鷗がきゃおと鳴いた。私に構わないようにしていた先生も、ついに私の落ち着かない目線を捕まえて「お名前は?」と言った。

 

「お名前、ですか?」

 

「はい、名前です。」

 

「ええっと、奈緒、と申します。『奈落の底』の『奈』に、『へその緒』の『緒』で、奈緒です。」

 

私がワタワタしながらそう言うと、先生は楽しそうに「あはは」と笑って、『奈落の底』ですか、なるほどねぇ、と言って頻りに頷いている。何が「なるほどねぇ」なのだろうかと考えていると、私の口から「先生は、宮沢賢治が好きですか。」という質問が、打ち上げられた魚のように跳ねて飛び出した。

 

「…先生?」

 

「はい、好きですか。」

 

「…ええ、先生は宮沢賢治が好きですよ。」

 

「やはり」

 

私は、自分が「やはり」なんて堅い言葉を放ったのが意外で、カフェで出会ったばかりの見知らぬ人間に突然「先生」と呼ばれ、目をパチクリやっている向かいの男性には関心が向かなかった。

 

鷗がきゃおきゃおきゃおと鳴きながら、西日をキラキラと反射している海原の方へ飛び立った。私が口を開けて鷗の去ってゆくのを眺めていると、遠方を歩いている人を呼び止めるような声で先生が「奈緒さん」と言った。私がビクッとして返事をすると、先生は真面目な面持ちで、耳を疑うようなへんちくりんなことを言い始めたのだった。

 

奈緒さん、今度私とデートしませんか。」

 

「…はあ、デート、とは。」

 

「会う約束をして、食事や散歩を共にすることです。」

 

この人は何を言っているのかと思った。けれども、話をしている先生の笑みがあまりにやさしいので、実はひとつもおかしなことなどないのだと思えてしまう。側から見れば、よっぽど私の挙動の方がおかしいものだろうと考えると、先生がそのように突飛な私をデートに誘ってくれたことが、それが嬉しくて仕方なくなった。

 

「先生は、私とデートしたいですか。」

 

「はい、ぜひとも。ダメですかね?」

 

「そんなことないです。でも、どこに行くのですか?」

 

「そうですね…美術館、ここから見えていますが、あそこの美術館に行きましょう。今はマリーローランサンの絵が貼ってあります。」

 

「ローランさん。」

 

「はい、愛と女性の美を描いた20世紀を代表する女流画家ですよ。」

 

愛、女性の美、20世紀、、、。「よくわからない」と言ったら先生はどう思うだろう。

 

「美術館で食事もとれますし、この辺りのカフェやレストランなら、予約なしでランチも大丈夫でしょう。」

 

私は「ふうん」「はい」「いいですよ」を繰り返し、なしくずしに先生と会う約束をしてしまい、アイスコーヒーの入っていたグラスを空にしてしまっていた。先生の話はどう繋がったのか詩の話になっていた。

 

ひと通りの話が済んで、先生は再び読書をはじめていた。なかなか減ってくれない先生のアイスティーは、ミルクのモヤがようやくシロップの層に到達しようかというところだった。百合のような白さのテーブルクロスに斜陽の光が射す。ミルクとシロップとアイスティーと、半分は溶けてしまった氷の半透明の影は、夕空を机に溢して、そのままこびりついた染みのような色をしていた。

 

奈緒さん、口が開きっぱなしです。」

 

先生の忠告を聞き流し、私はこの綺麗な染みが私の胸にも染みついて、いつまでも消えずに残っていてくれないものかと、ただそれだけを願っていたのであった。

 

 

 

「ずいぶんと丁寧に手を洗っていたのですね。」

 

「待たせてすいません。」

 

「気にしないで。さあ、行きましょう。」

 

二人は手を取り合って、闇に沈む人気のない山道を歩きはじめた。

 

 

 「ミルクティー」