倦怠の勿忘草

“汚れつちまつた悲しみは 倦怠のうちに死を夢む”

とケル。

 三、「暗夜行路」

 

電灯は五十メートルもの間隔を経てから、ぽつん、ぽつんと、ひとつずつ並んでいます。光は重なり合わずに、互い干渉しないような距離感でもってぼうっとしているのです。遮るものがなければ、光は間断なく綺麗な同心円を道端に落としてゆくのですね。虫がその流れを遡って、バチッと命を焚いたのを私は見ていました。

 

先生、山というものはこんなにも大きなものなのです。それに山は、闇と溶け合う性質(たち)のものらしいのです。鬱蒼とした枝々のさやぐ隙間から、空に大きな山の陰影が色濃く見えています。けれどもしかしたら、それは私たちの目が見ている幻なのかもしれませんね。そこに浮かんで見えるのは夜空より深いただの暗闇です。さすがの先生にも、あれは空の凹(ボコ)でなくて、地球の凸(デコ)なのだと明かすことはできないでしょう?

 

星空が夢に沈んだ枕の刺繍のようです。巨大な空白にも見えるあの暗闇は、夜空に浮かぶ惑星に描かれたクレーターなのでしょうか。このまま真っ直ぐに進んでしまえばいずれ先生と私、宇宙の真ん中にポイと放り出されてしまうのではないのかと思いました。

 

 「寒くはないですか?」

 

先生にそう言われてから冷たい空気が私の肌を掠める。遅れを取り戻すように慌てた毛穴が飛び出した。山の空気はひそひそと一層ごとに温度が変わってしまうのだった。

 

「上着を持って来たので貸してあげます。」

 

温かさと冷たさは私たちを横目に抜駆けして去ってしまう。先生の手の温度を確かめていたかった私は、咄嗟に「大丈夫です。」と嘘をついてしまった。

 

先生の影が深夜の公園に遊ぶブランコの影のようだ。先生が覗き込んで私の目を見る。いつもならば逃げるように目をそらすところを、静けさにキッとして堪え、私は先生の目を見つめ返してみる。目と目を見合わせていると、魂を抜き取られているような感じがしてやりきれなくなる。そのためか私は、これまで先生の横顔ばかりを見てきたような気がする。正面から見た人間の顔は目だけが浮き上がって見えて苦手だ。けれども不思議なことに、先生の顔から目が浮かんでくることはなかった。

 

「強がるもんじゃありませんよ」と言って先生は薄手のロングトレンチを私の肩にかけた。裾が地面すれすれを揺れる。これまでほのかに隣から香っていた匂いが私の躰を包み込んだ。男性の匂いは変な感じがする。嗅いでいて妙に安心するのはどうしてだろう。先生の匂いは特に好きかもしれない。煙草や香水の、人間らしくない匂いはちっともない。もっと動物のような、でも獣ではない匂い。革製のちょっとお高い紳士用バッグ?と、それは少し言い過ぎたかもしれないが、ともかく先生の匂いというものがあって、私は先生の匂いに包まれると、これまで嗅いでいた土と花と獣の匂いに混じ入ったような気分になって、どうしようもなく泣きたくなってしまうのだった。

 

あーあ、私は迷子なんだ。いつも場所を探している。私はどこにいたらいいのだろう。私は、私を固めて、縛って、触れて叩いて、そうして私の形を確かめてほしいだけなんだ。そこに私がいたのだとわかったら、そっと耳もとに囁いて教えてほしい。

 

「大丈夫、あなたはあなたです。確かにここにいるのです」と。

 

今度こそ私の方から先生の手を握り直す。そしたら先生の歩みが遅くなって、やっと二人が並ぶ形になった。

 

「せんせ。」「何か?」「…いえ。」というような漠然としたやり取りをいくつか交わしたような、また交わしていないような感じで黙々と歩いていると、先生が「暗夜行路」という小説の話を持ち出してきた。前に会った時分にも同じ話になったのに、私はその小説を今日まで読んでいなかった。どぎまぎとする返答をごまかすため、私は口数がめっきり減ってしまう。

 

「こうして暗い夜道を歩いていると、先生はあの小説のある一節を思い出します。」

 

そう言ってから先生は黙り込んだ。私は疎くてこれまで気付きもしなかったけど、先生が黙り込むときは何か返答が欲しいときなんだ。私は意を決した。

 

「どんな一節ですか?」

 

先生が意外そうに私の顔を見るので、私はムッとする。もったいぶらずにはやく答えてください。聞いてあげますから。とは言えない。先生はにっこりとして「はい、次のような言葉です。」と言って息を吸った。

 

「大地を一歩一歩踏みつけて、手を振って、いい気分で、進まねばならぬ。急がずに、休まずに。」

 

「はあ」

 

「それともうひとつ。」

 

「なんですか?」

 

「過去は過去として葬らしめよ、です。」

 

「なんというか、一休さんみたいですね。」

 

先生が楽しそうに笑った。私はいたって真面目なんだけども。笑ってくれたのでちょっと嬉しくなる。

 

先生はまた何か聞いてほしそうに黙っていたけれど、これ以上はダメだった。だって私はその小説を読んでいない。意味なんかわかりっこない。

 

沈黙も、この闇夜では自然なのだと、私は安堵した。

 

 

 

「暗夜行路」