倦怠の勿忘草

“汚れつちまつた悲しみは 倦怠のうちに死を夢む”

とケル。

 

五、「夜明は夢のうちに」

 

「日中から休みだったそうです。店主はどうにか蕎麦を一盛りずつ出してあげたいと…ただ蕎麦を打つ準備をしていないから無理なのだと言っていました…。」

 

先生は、かの薄闇の中から出てくる時分より続けて、いかにも「申し訳ありません」というような顔をして話している。先生こういうときだけ私の目をしっかり見つめるんだ。まったく狡猾だと思う。「その詐術は先生としてどうなんでしょうか」と頭の中で言い放ち、私はやにわに、「先生は初めから先生ではなかったのだ」と、そう気付いたのであった。「先生」という呼び名は、私が彼との距離を一手で縮めてしまいたいと願うあまり、ひとりでに私の口から飛び出したものであった。いま目の前にいる男性は、世に言われる「先生」のように、道徳規範を守り守り生きているわけではなく、私が想像する聖人君子のごとく、殊に高潔な思想を常日頃から実践しているわけでもない。そう例えばあの山羊のように、物陰に隠れて舌舐めずりしている獣が彼の心のどこかに潜んでいないとも言えないのだった。そう思うと先生が、それまで敬うべき山のような存在であった先生が、小さく小さく、私と同じくらいの、慕うべき仔犬のように感じられるようになった。

 

「困りました。この周辺で食事ができる場所を他に知りません。奈緒さんも帰らないといけないですし、バスの時間を考えるとあまり遠くにはいけませんね。」

 

「…あの、先生のご自宅はこの辺りですよね。」

 

「…はい。あと歩いて五分程度ですか。」

 

「私、ぜひ先生のご自宅に伺ってみたいです。」

 

「うちでは食事の余りさえもありませんが…」

 

「大丈夫です。お腹はなんにも欲しくないようなんです。」

 

実際に私のお腹は平気だった。そのときの私には食欲というものが、自分から遥か遠くにあるもののように思えていたのだ。兎に角も欲望というものは怖ろしい。普段にふにゃりとして確固たる何物も持てやしない私なんかは、絶対に触れてはいけないものだと思った。

 

「…私の家に…ですか。」

 

「はい。先生の家へは、何方に向えばいいのですか?」

 

「…あそこに見えているトンネルの向こうです。」

 

「そうですか。迷っていては時間がなくなってしまいます。先生、急ぎましょう。」

 

「…しかし、奈緒さん。」

 

急かす私に手を取られた先生は、つづいて迷子のこどもの様子であった。胸がざわつく。少し腹が立つ。

 

先生、何を躊躇う理由があるのでしょう。私にはそれがわかりません。わからないし、そこには何か賎しい意地汚い塊がとおせんぼをしているように思えます。私はそいつを打ち壊したく思うのです。

 

「さあ、行きます。」

 

「…。」

 

トンネルは真黒い山の腹を貫いてある。ナトリウムランプの橙が薄暮の頃を思わせる。大きく口を開けた夕暮を抜けた先には、きっと海が広がっているのだ。鴎が巣を作っているのだ。トンネルは蛇の腹の中。私はこの山に覆われた路を抜けなければならない。

 

「夜明は夢のうちに」