倦怠の勿忘草

“汚れつちまつた悲しみは 倦怠のうちに死を夢む”

「女とポンキン」

 

以下の作品は、小林秀雄が大正十四年二月に、文芸誌「山繭」で発表した「女とポンキン」を、私が現代語に訳したものです。原文は『小林秀雄全集第一巻、様々なる意匠・ランボオ』(新潮社)を参照。

 

  半島の尖端である。毎日、習慣的に此処に来る。幾重にも重なった波の襞(ひだ)が、夏、甲羅を乾かした人間の臭いを、汀(にぎわ)から骨を折って吸い取っている。鰹船の発動機が、光った海の面を、時々太鼓のように鳴らした。透明過ぎる空気が、煙草を恐ろしく不味くしてしまう。前の晩に食べ残した南京豆が袂から出てきた。割れば醜い蛹(さなぎ)が出てきそうだ。私は、琥珀の中に閉じ込められて身動きも出来ない虫のように、秋の大気の中に蹲(うずくま)っていた。

 

  ーー気が付くと、一尺ばかりの、背の低い犬が、私の匂いを嗅いでいた。妙な犬だ。毛が、五分刈りにした坊主頭のように短い。しかも首から先と、尻尾の尖端は、はっきりした別目(けじめ)をつけて、普通に毛が生えている。主人の悪戯に相違ない。私は、ちょっと彼の頭を撫でてやった。

 

  「ポンキン!」、よく透る女の声が響いた。犬は足元から、ばったを飛ばしながら駆けた。水色の洋服に、真黒なジャケットを着た若い女が、小道に現れた。葉の疎(まば)らになった栗の樹の下で桃色の日傘がキリキリと回転した。

 

  女は、黙って私の直ぐ傍に腰を下ろすと、窄(すぼ)めた日傘を足元の土に刺した。手を放すと倒れかかるのを、殺し損なった芋虫でも潰すように、神経質にまた刺す。日傘に引っかかった練玉の首飾りがクニャリと凹んだ。私は、お河童さんにした髪に半分かくれた女の蒼白い横顔を見た。ブラシの毛を植えたような睫毛と、心持ち上を向いた薄い鼻だ。女は、両肘で顎を支えて、茫然海を眺めている。沈黙ー。

 

「滑稽だ」、私は、呟いた。

「え、何?」、女は、支えた顔を素早くこっちに回転さした。私は、思い掛けなかったのでちょっとドギマギしながら煙草を吹いた。

「面白い犬を持っていますね」

「これ狸よ」、女は、ポンキンの頭に手を置いた。ポンキンは、ちょっと頭を凹ました。

「バリカンで刈ってやったの、こうするとライオンに見えるでしょう」

「成る程」

 

  二人は、また黙った。断崖の下を、波頭が走る音が遠い機関車の蒸気のようだ。

 

  私は、膝の上の本を見るともなしに広げた。

 

「それ何?」

弥次喜多

「面白いの?」

「つまらない」

「当たり前だわ」、女は、腹が立ったように言った。ジャケットのポケットから首を出した本を抜き出して、パラパラとページを繰ると、イライラした様子でまたポケットに捩じ込んだ。

 

「そんなもの芸術なもんか」、女は、独り言のように言った。

 

  私は黙っていた。(ナントきた八、今日はどっちの方へまごつくのだ)と、漫然と活字を眺めていた目の前に、女の指輪がキラリと光った。本は、私の手を放れて、海の方へケシ飛んだ。ハッとした私の眼玉がその行方を追った。白い放物線が、風で弓なりに反って海に消えた。

 

【喜多八とは、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」に登場する男の名前。「弥次喜多」は作中の主人公である弥次郎兵衛と喜多八の名を繋げた呼び名。】

 

  「面白いことね」と、女は、俯いたまま言った。ポンキンも、段々になった襟足を岸から突き出した。私は、その首を掴んだ。

 

「こいつ!」

「あ、いけない!」、女は、疳高(かんだか)い悲鳴を上げて、放り込もうとする私の手首を握った。油のないカサカサした生ぬるい手だ。冷たい指輪を、無気味に皮膚に感じた。私は、手を放した。

 

「ねえポンキンや」、女は、ポンキンを横抱きに、抱き上げた。ポンキンの五分刈りの背中から、枯れた艾(よもぎ)の花が零(こぼ)れた。ポンキンは、頓狂(とんきょう)な顔をして外方を向いた。

 

  私は驚いた。

 

 

  翌日である。快晴。

  昨日の女かと思ったら、丈の短い荒い紺飛白(こんがすり)を着た十七八の男であった。顔色の悪い小さな顔に、縁なしの分厚な近眼鏡をかけている。男の顔は、どうかすると眼鏡だけに見えた。

 

「洋服を着て犬を連れた女が来ませんでしたか」、男は、私を見下しながら、訊いた。

 

  私は、その横柄な調子と、眼玉だけで泳いでいる支那金魚のような様子を不快そうに眺めた。

 

「犬じゃない、狸でしょう」、グスグスになった駒下駄の鼻緒を、不恰好な足の指に挟んでいる。

 

「犬でさあ」、男は、無表情な顔で答えた。

 

「来ませんでしたか?」

「来ません」

「チョッ、困っちゃゥ」、彼は、舌打ちしてそこへしゃがんだ。

 

「その人がどうかしたんですか」、私は、ぶきっちょに発音した。

 

「捜しているんです。親父が急に悪くなったものだから」、男は、のろのろと答えて暫く黙っていたが、彼女(あれ)は、少し頭がいけないのだ、と付け加えた。

 

  女が、この町の何処かで、病気の親父と一緒に暮らしているという事実が妙な色彩で、私の頭に、入って来た。洋服を着て五分刈りの狸を愛している娘に対する心痛と憎悪で、親父も、母親も、支那金魚のような顔になってしまっているに相違ない。私は、恐ろしい馬鹿馬鹿しさを感じた。それに、イヤな腹立たしさが混同した。

 

「お父さんがお悪いなら、早く帰ったらいいでしょう」

 

男は、帰って行った。私は男の後姿を眺め、彼の踵(かかと)と下駄なぞを眺めた。

 

 

  夜、雨が降ったらしかった。蝕んだ枯葉や、栗の毬(いが)が落ちた小道が黒く湿っていた。赤の犬蓼の花が美しく濡れていた。

 

  女とポンキンが坐っている。

 

「今日は」と女は言った。私は、黙って、憂鬱な目で彼等を眺めた。

 

「昨日、あなたを捜してましたよ」

「どんなひと?」

支那金魚だ」、似ていると言おうとしたが止めにした。

 

「弟でしょう、必度(きっと)」

「お父さんはどうなんです?」

「今日お葬式」

 

  黙っていると女は、

 

「だって、ポンキンを一緒に連れてっちゃいけないと言うんだもの」と言った。

 

  ポンキンは、置物のように黙って何か考えている。

 

  狸の寿命を十年として、この女は、まづ自殺する事になるだろう、と私は考えた。

 

  三人は黙った。

 

「あなた、タゴールお好き」、女は、ポケットから一昨日の本を出した。私の脳髄は、女の言葉を反撥した。

 

タゴールってーー」、海は、燦然として静かであった。私は断崖の下で蝦(えび)を釣る蕈(きのこ)のような帽子を見た。

 

  女は、膝の上に屏風のように立てた本の上に顎を乗せて、「駄目ね」と言った。

 

「これ上げるからお読みなさい」、彼女は、本を私の膝の上に置いた。

 

「家にはまだ二冊あるからいいの」

 

  私は、本を広げて見た。ページが、方々切り抜いてある。余白だけ白く切り残されたページもある。

 

「こりゃどうしたんです」、私は、窓のように開いたページの穴に指を通してみせた。

 

「あ、そう、そう、いい処だけ切り抜いたの」、女は、子供の折紙のように畳んだ切り抜きを、ポケットから出して渡した。私は、本をポーンと、海に投げ込んだ。

 

「何するの」、女は、恐い顔をした。

 

「これがあれば構わない」、私は、切り抜きを女に見せた。

 

「ソオね」と女は頷いた。私は少しばかり切ない気持ちになった。

 

  今日は、波の音も響かない。

 

「あたし、気狂いに見えるでしょうか?」、突然、女は言った。後の小道を散歩していたポンキンが、女の膝の彼方側(むこうがわ)から首を出した。

 

「いいえ」

「嘘つき!」、女は、私を睨んだ。

「嘘なんかつきはしない」

 

  彼女は、私の視線を避けるように横を向くと、「でも皆んなが気狂い、気狂い、と言う」と小さい声で言った。暫くの間、女は何か早口に呟いていた。彼女の頰に、涙の線が光るのに気が付いた。私は、道に落ちた、真中の渋皮が雨に漂白された栗の毬に眼を転じた。

 

  その時、私の背後で、ポンキンがゴソゴソと音をさした。突然、女は、

 

「ポンキン、いけません!」と疳高い声を出した。見ると、キョトンとしたポンキンの前を、二尺ばかりのやまかがしが、音も無く動いていた。

 

  ポンキンは、それに何かしようとしたものらしい。女主人と狸とは、互いに睨み合った。私は、この瞬間、女の涙に光った、蒼白い、一所懸命な顔を、本当に美しいと思った。

 

  

  その後、女にもポンキンにも会わなかった。間もなく私は、東京に帰ってしまったから。

 

  ひと月程経った。既に冬が近付いていた。私は、またここへ来た。

 

  ある朝、私は、海岸を歩いていた。前の晩の嵐の名残りで、濁った海の面は、白い泡を吹いた三角波を、一面に作っていた。冷い、強い風を透して、黄色い壁の半島が慄えるように見えた。月のように白く浮き出した太陽の面を、黒雲の断片が、非常な速力で横切っていた。濱には濡れたセッターの尻尾のような褐色の海草が続いた。風の中を、鳥の群れがヘナヘナ歪みながら舞ったーー。

 

  私は、彼方から女とポンキンが歩いて来るのを見た。女は、黒の外套を着て、波の飛沫の白く漂う、簫索(しょうさく)とした海岸を俯きながら、妙な曲線を描いて近付いて来た。彼女は、目に立って痩せていた。死んだ魚を思わせた。女は、気が付かないらしく、下を向いて行き過ぎた。その後、毛を刈って貰えなかったらしく、ポンキンの襟足は、段々がぼやけて見えた。ポンキンは、私を見上げた。その目は、確かに、私の顔を認めていた。何か、秘密なものを見られたような気がした。

 

「ポンキン!」と背後(うしろ)で女が呼んだ。ポンキンは、女の跡を追って駆けた。私は、彼等を見送った。ポンキンは、一寸立ち止まり、振り返って私を見た。途端、その顔が笑ったように思われ、私は、顔を背けた。

 

  私は冷い風の中で慄えた。私の足は、力なく濡れたセッターの尻尾を踏んだ。