追憶
すべてをうしなった。
私を繋ぎとめていた様々の熱と情、その瞬間までこの手に触れていたそれらが、次の瞬間には虚しく空へばら撒かれたのだ。
そこにただ、泣き声だけが響いた。息を始めたばかりの嬰児のような、無垢でつつがなく、たっぷりと満たされた幸福の中に息づいていたその声は、まるで妊婦の腹をうち破るかのようにあらわれて、しばらくは波を荒げていた。
わたしはすべてうしなった。
うしなわれたものは、かえらない。
一艘の小舟が波の間を揺れていた。わたしは櫂を手に岸を目指す船頭であった。あたりには濃い霧が立ち込め、傍にはあなたがいた。
わたしはあなたのぬくもりをひしと感じ、あなたの唄声を波とかき混ぜて、なめらかな網模様を描いていた。やわらかな香りを湛えた時間が、わたしの頬を撫でていた。足りないものなどなにひとつなかった。
気づけば手には、櫂がなく、小舟はむなしく留まった。すべてが停止した霧の中で、わたしはひとりになってしまった。波が小舟を叩く音だけを聴き、冷たい空気が頬を湿らせていた。
瞽になった。空を弄る掌が水面に、ひたり触れると輪になった。輪の中心でわたしはひとりだ。涙は霧になって散った。唸り声は空気を震わせなかった。
かなしみが死んでいる。
骸のなかで、少女の呼ぶ声を幽かに聴いた。微睡に包まれ、わたしの肌から気泡が放たれた。わたしは溶け出した。あらゆる世界の境界に溶け出していた。わたしは半透明だ。目覚めたわたしを、白い少女がみつめた。少女は瞳に涙を湛え、小さな唇をきつく結んでいた。少女の耳に光が射して、橙の珪石のように澄んでいた。
少女はわたしにすがり、死を懇願した。わたしの手にはナイフがあった。これもまた橙の珪石のように光を放っていた。少女はそれを欲しがった。奪われたものを惜しむように、少女は泣き声を上げた。いたたまれなくなったわたしは、ひとおもいにナイフを振った。眼前が赤い繻子織の布で覆われた。裂けた胸を押さえて、少女は微笑んだ。
ーありがとう。
記憶は泡だ。天鵞絨の布地のおもてに、あらわれては消えてゆく泡のようだ。飛び立つ泡をつかむようにして、わたしはあなたを愛した。願っても消えてくれないものは、その愛しさだけだ。
わたしもいつかは消えるのだろう。
消えずに残るものがいのちである。