倦怠の勿忘草

“汚れつちまつた悲しみは 倦怠のうちに死を夢む”

物語

 

 

胸のなかで、何かが流れている。ぐるぐると回っているようで、またマグマのようにゆっくりと下降している。

 

物語という芸術の一形式がひとが言葉を話すようになってから現在まで、何度もその危機に晒されながら、あらゆる芸術の根底から逃げも隠れもしていないのは、疑いようのない事実である。

 

ひとが物語を作ったのか、物語がひとを人たらしめているのか。そのような議論をやってみても、その答えを証明してくれるものはどこにもない。ところが言葉というものの動きをよく観察してみると、どうやら意識の周りを飛び廻っている言葉がひとの感情と引き合い、融合してから脳漿の海に沈んでいくようだ。そうしてひとの無意識に沈殿してゆく。つまり、言葉はひとの感性の媒体として、私たちの内部に堆積しているのだ。

 

語彙というのは単語をどれだけ知っているかではない。言葉と感情の融合体がどれだけ無意識に沈んでいるかである。語彙が豊富になれば、それらがまた寄り集まって、次第にある道筋を作り始める。これが人間が生まれて初めて体験する「物語」と呼ぶべき創作ではないか。そして肉体の存在する時間のなかで、「私」はどこへ向かうべきか?という問いと共にその物語が大きくなっていくのだ。

 

ここまでの行為が、当人に意識されていることは少ない。日記をつけるだとか、誰かと対話するだとか、外部に出力することで人間は無意識から物語を引き揚げ、その軸を意識するようになる。その軸を強く意識すればするほどに弾性が失われていき、折れやすくなってしまう。しかし、全く意識されていない言葉と感情はどう動くのかわからない。どう動くのかわからないということは、ひとを不安にさせるであろう。不安でしかたない人々は、他の人が描いた物語を求めるようになるのである。他の軸を自分の軸に充てがうことで、その不安定性を解消しようとしているのだ。

 

このような物語の楽しみ方は不正であると言いたいのではない。物語にそのような力を求めても、人生の偶然性がそれを受け入れてくれるとは限らないと覚悟しておくべきだと言いたいのである。太宰治の刹那的な生き方に美しさを感じるのは結構だが、彼はきっとあなたを裏切るだろう。あなたはいつか彼を恨むことになる。太宰治の物語が現代で不思議な魅力を持ち、また多くの人に読まれているのは、人間の弱さを肯定する物語の軸の需要が高まっているからではないか。彼の自己愛と自意識が、若さのそれと強く引き合っているのである。

 

物語が一本の軸を描いたものであり、ひとの生活というものも同様に、無意識に作り出された一本の軸を基に成っていると知る読者は、決して他人の軸を己の軸と近づけようとはしないだろう。物語を読むということは、己の軸と、そこにある人物が作っていく軸とを比較したり、時には強く共鳴しながら、それを観察していくことである。もしも物語がひとの無意識に何か変革をもたらすのならば、軸は一度言葉に分解され、読者の意識の周りを飛び廻り、読者自身の感情によって捕らえられなければならない。その過程を飛び越して軸をそのまま貼り付けてしまえば、自分で作った軸の自由は固定され、曲げようにも曲げられず、動かせば徐々に歪な形になっていくのではないか。軸の弾性を失えば、ひとは怒り易くなるようだ。

 

フィクションが楽しめないという。フィクションが嫌なのではない。他人の軸を観察して何になると思っているのだ。そのとおりだ。他人の軸を観察して得られるものなどないだろう。彼はノンフィクションも楽しめないはずである。現実に起こったことであっても、他人の軸であることは変わらない。歴史はノンフィクションであるか。歴史とは、史実を基に人間が後から脚色、並び替えを行ったフィクションである。ノンフィクションとは何だ?つまらない日常のことだ。日常は偶然の連続であるか。非日常とは必然の連続であるか。要するに、フィクションと名が付いていようが、ノンフィクションと変わるところはそれが偶然であるか必然であるかの違いである。フィクションが楽しめない?単に必然性を嫌っているだけである。必然性の美しさを知らないだけである。

 

どうして必然性に嫌悪を抱くのだろうか。人生はそう上手くはいかないと知っているからだ。しかし、日常のなかにも必然はある。花がどうして美しいか。日が落ちていくのを見てひとは感動する。そこに、毎日裏切らずに訪れてくれる自然の必然性をみるからではないか。理想は叶わないものでないと気に食わないのか?叶わぬ理想を描く人間の悲哀を知っているのならば、その活動に囚われた人間の美しさを理解できるはずだ。嫉妬心は捨てよ。

 

 

人生の偶然性に心を折られ、芸術が描く必然が無価値にみえるならば、自分で世界を描き出してみることだ。必然を作り出すことの苦しみ、その尊さを実感するより他に道はない。美しさを知りたいならば、美しいものを前に据え置き、じっくりみつめることだ。本を読んでいても美に関する想像力は育たない。街に出るのだ。風の気まぐれを知ろう。空の寛大さを知ろう。海の恐ろしさを知ろう。花の儚さを知ろう。美はどこかに置いてあるのではない。各人の経験のなかに、無意識の言葉の海のなかに、静かに佇んでいるものだったはずだ。理屈の上に花は咲かない。堆積した土に種が落ち、水や養分を与えて花は咲くのである。批評が芸術への復讐へと成り下がったときに、花は枯れてしまうのではないだろうか。