倦怠の勿忘草

“汚れつちまつた悲しみは 倦怠のうちに死を夢む”

アイドルとフェミニズム

 

 

私はアイドルが好きです。最近はテレビをつけると、意識して探さずともAKBグループに所属しているメンバーの顔を見ることができます。みなさんとても可愛らしく、慣れない芸能の世界の中で、生きていくために一生懸命なのだろうと思うと、胸が締め付けられる思いがして、何がこの感情を生むのか以前から気になっておりました。

 

私は「可愛い」という言葉があまり好きではありません。言葉の主は無意識のうちにその対象を支配するような気分になるからです。「そんなことがあるもんか」と思うでしょうか?ところが言葉というものをよく考えてみますと、そんなことも、実はよくあることなのだと気付くのです。日本語は特に、多くは言葉より先にある意味を持っております。言葉の意味は時代と共に移ろうものでありますが、その言葉より先にある意味というのは普遍のものなのです。それは言葉が持つイメージのような形で、私たちの意識の裏に潜んでいます。「可愛い」という言葉に潜んでいるイメージは、封建的な関係性であり、主人が扶養を受けている者に抱く慕情のようなものではないでしょうか。実際、アイドルに対して支配的な態度を取っているアイドルオタクは多いように感じます。

 

つまり、アイドルの活動をみていて私が抱いていた感情は「可愛い」という言葉で表現されて妥当なものであり、未熟で守られるべき女の子が、芸能界というシビアな舞台で頑張っている様子に対し、まるで子煩悩な親の思いのようにお節介で、それでも抑えきれずに疼く愛情の一種であったのです。

 

そのような愛情は美しいものです。しかし、ひとはその愛情を失いたくないと願うあまり、対象を弱いままにして支配を続けようとしたり、また愛情を与えることに依存し、見返りを求めたりしてしまう。愛情はそのような変質を遂げた途端に腐臭を放つものでもあります。親にそのような歪んだ愛情を与えられた子が、ひとから与えられる愛情に対してトラウマを抱えてしまうなんてことも、頻繁にあることなのだと思います。

 

一方で、現代はフェミニズムが盛んに唱えられる時代です。欧米ではすっかり馴染んだ思想で、政治や思想界で頭角を現した女性が運動の象徴とされ、次第に盛り上がっていくというのが、この運動の自然な流れのようです。リベラリズムのうねりが知的な女性に及ぶと、これは必然として起こるものなのでしょう。日本で暮らしていても、女性の大半が大学に進学することを希望し、自ら進んで学ぶことを望んでいるのだと実感できます。

 

AKBグループはしばしば、そのようなフェミニズムの立場にある方から批判を受けるのです。十代の少女の人生をグループが縛るのは如何なものか、活動が忙しくてまともに勉強できないのは可哀想だ、等々。近頃で最も話題になったのはHKT48の 「アインシュタインよりディアナ・アグロン」という楽曲でした。歌詞が女性蔑視ではないかと、方々から批判の声が上がったそうです。

 

それに対するアイドルオタクの反論といえば、大抵のところ「表現の自由」を掲げて撥ねつけるだけであったと思います。議論が起こったことは興味深いのですが、誰も正面から問題に立ち向かわず、ネット掲示板では「AKBなんて興味ないし」の一言で済まされる始末の悪さ。しかたないことであったのかもしれません。自由と自由が戦ったところで、何も解決にならないということは自明でありました。しかし、それで問題を手放して良いというものではありません。言うなれば、その「自明である」というところに、問題の本質があったのではないでしょうか。

  

私はフェミニズムという思想も、その根幹にあるリベラリズムという思想も、どちらも素晴らしい思想であると思います。皆がこの言葉を意識するようになれば、どれだけ住みやすくなるだろうかと空想してみることだってあるのです。しかし私が何かに縛られている他人に対して、「君は不自由だから一緒に自由になろう」とは言えません。これは他人の自由を拘束する行為であるからして、自由への欲求は自分の胸に秘めておくより他にないのです。

 

日本には「自由」という一語のみが存在しますが、英語には「リバティ」と「フリーダム」の二語が存在しています。このことをよく考えてみてください。

 

例えば、無人島に放り出されたイギリス人が、あらゆる拘束から解放されたことで手に入れた自由を叫ぶとします。彼はどのように叫ぶでしょうか?「フリーダム」と叫んでいる様子が想像できるのではありませんか?「リバティ」と叫ぶのはこの場合にそぐわない気がします。

 

日本人が小学校の道徳で学ぶ、「自由には責任が伴う」という文章の場合には、自由を「リバティ」と訳すのが適切ではないでしょうか。

 

つまり、「リバティ」とは社会の中で生きる人間に対し、率先して求めても良しとされた権利のことであり、「フリーダム」とはもっと本来的な、裸の状態の自由を指しているのです。したがって、リベラリズム(liberalism)から発展したフェミニズムとは、女性が社会進出をして活躍する権利、即ちリバティ(liberty)を主張する考えであり、フリーダムとは違います。

 

これに対し、「表現の自由」とか「言論の自由」という場合に使われている自由は「フリーダム」です。人間が生まれつき持っている自由であり、これはわざわざ声に出して主張するものではありません。「フリーダム」とは行動する自由なのです。他人が奪えるものではなく、抽象的なものであります。社会的な自由(リバティ)の権利を獲得して、どのように利用するかは各人の自由(フリーダム)であると言えます。

 

アイドルとフェミニズムの問題に戻って考えると、アイドルにも一般女性にも、勉強をして社会で働く自由(リバティ)があります。しかし、職業をどうするか、アイドルになるのかどうかは各人の自由(フリーダム)なのです。自由(リバティ)には責任が伴うため、責任能力が充分でない子どもの自由(リバティ)は一部制限されます。アイドルのオーディションを受けた女の子は自らの自由(フリーダム)によって、アイドルになる選択をしたのです。それによって自由(リバティ)を得る機会を損なうことがあっても、二つの自由に直接の関係はありません。

 

自由の問題が論じられるとき、しばしばこの二つの自由が戦っていることがあるのです。一方はリバティを尊重すべきだと言い、一方はフリーダムが欲しいと言っている。これでは議論に収拾がつきません。リバティに関する議論ならば、どこまでそれを認めるのかを話し合うべきです。フリーダムはそもそも議論するような問題ではありません。議論するにしても、その全貌を明らかにするための議論であり、どちらの自由が重要かという議論には踏み込めないのです。

 

自由を求める声を聞いて、嫌悪感を抱くことがあります。「自由を叫んでいる彼はいったい何を正義としてそれを主張しているのだろうか?」と感じるのです。彼が求めるものがフリーダムであれば、彼の正義は彼自身にあります。自分のフリーダムのために誰かのフリーダムを奪わんとしているのです。ひとのいない道を選んで歩く権利を持ちながら、人混みのなかで「フリーダム」と叫び、通行人を押しのけて歩いている。そんな横暴が許される理由がありません。声をあげる権利はフリーダムです。しかし、ひとが声をあげて求めても良い自由はリバティだけであったはずなのです。一般に青年が武器に取り、盾として構えているのはフリーダムである場合が多いと思います。フリーダムは精神的な自由であり、他人に干渉できるようなものではありません。

 

ここまで、自由がどうやら二つに分類できるらしいと話してきました。はたして、あなたが欲する自由はどちらの自由でしょうか?表現の世界には、本質的なフリーダム、精神の自由があります。同時に、他人のフリーダムを決して奪ってはいけません。もしもリバティを望むならば、そこに伴う義務と責任を自覚し、正当な手段を以て獲得すべきなのです。

 

フェミニズムを主張する立場にあるならば、同様に他の権利も尊重するべきではないでしょうか。人間の価値は勉強で得られる知識量で決まるものではないと思います。アインシュタインを知らなくても、ディアナ・アグロンの演技や歌から様々なことを学んで感性を磨くことは女性としての魅力を引き立てることであり、マイナスになることなんてないでしょう。活動をしながら勉学に励んでいるアイドルもたくさんいるのです。可愛さを磨いて素敵な男性と出会い、家族のために尽くす人生も、大学を卒業して自立し、同じように自立した男性と支え合っていく人生も、ひとが生きた道であることは変わりません。そこに客観的に見た差なんて存在しないのです。

 

また、ひとが本質的に自由だからと言って、好き勝手に自由を振り回しても良いとするのは、二つの自由の意味を混同した我儘としか言えないと思います。どんなに他人の表現に腹が立っても、それを規制する権利は誰にもないはずです。あなたはあなたの自由によって表現ができる。芸術の世界における自由の本質はたったそれだけなのです。