倦怠の勿忘草

“汚れつちまつた悲しみは 倦怠のうちに死を夢む”

とりとめのない話

 

17時45分。僕は愛しい記憶を追いながら16番ゲートをくぐっていた。機体が見えないで、蛇腹の搭乗橋を渡るのは些か不安です。揺れるのですが、意識しなければ気に留めるまでもない揺れの程度なのでした。並べては、取るに足らないその揺れさえも、とりわけ、そのときの僕にとっては考えずにはいられない現象なのです。事は、考えはじめてしまうと手遅れなもので、意識を集注して隙を無くしてしまうまでしなくては、もはや脳内に浮上してしまっているその振動を外へと追いやることはできません。鎮痛剤の効いていたのが、ふと気を注げば、その効力の持続を絶ってしまっているかのような。また、目隠しが外れるのと途端に眩しく、目が上手く開いてくれないときのような。人間は平素から何かに騙されているのでなければ、正気でいられないのではないかしら。きっと僕等のような人間は、何か障害の影裏に隠れることでなんとか生きている。ひたすらに言葉と追いかけっこして、間延びしてしまっているこの時間を誤魔化していたり、僕等を蔽っているだろう「死の世界」の有り様を、その世界の怖ろしさを、「それはそれは美しい世界なのだ」と告げ回り、空の蓋の彼方へ締め出してしまう。合理的だとか、理性的だとか、そんな相貌をした言葉によってビカビカに飾り付けられた紙屑を机の上に散らかして、窓のガラスに貼り付けて、抽象的で触ることのできない部屋を貸りて日々をやり過ごしているのです。この空に張り詰まった恐怖や不安、この空を掻き乱す保存と破壊の欲求に駆られて、自らの意志で選択しているように振舞いながらも、透明ではなくなった恣意的なカーソルに選択肢を限定され、自身ガチガチに縮こまり、何かひとつを選ばずにはいられないということ。そんな言い方もできてしまうのではないか。実のところ、空の外の世界を信じる力だとか、空の下にあり、身の丈の一点のみにおいて、万感の思いで到来する様々の情景を見て取る力だとか、そんな或いは阿呆とも言われてしまうような摩訶不思議の力を、人間から抜き取り没収したらば、僕等はついに強欲の猿や、自ら暗礁に乗り上げ自殺する、メランコリックな鯨等と変わりないのかもしれない。

 

18時10分。クロワッサンの群れのような雲の階層を抜け、銀色の機体は虹色の宙に浮かんでいる。これが人々の憧れる「空の外の世界」か。と言えども、僕はまだ空を見上げることができます。そこに黒色の蓋がある。大きい中華鍋みたいなこの世界に、黒く涯のない蓋が被せられている。蓋は回転しながら徐々にスライドし、いよいよ暗闇を引き連れてき、虹色を侵食し始めている。

 

ああ、完全に閉じてしまう…。銀色に輝く無機質な鱗を光らせながら、魚は巨体を滑らせます。外へ…外へ…と泳ぐのです。蓋の隙から漏れ入る光のスペクトル。それは虹色にして、また異端の色ではあるので、僕はその幅の縮んでゆくのを見て、茫洋とした不安を感じるのでした。

 

光の対極に闇を定義するゲーテ。あなたは生の対極を死だと考えますか。天界に神を、地上に悪魔を描きますか。僕等はいつも「くもり」の中に、両極の融け合う干渉部にあり、どうやらその外の世界については、何ひとつ知れないらしいのです。

 

頭が痛かった。台風の影響で航路は安定しない。今、この水平はどの程度の高さなのか。そこにおいての気圧は、地上といかほどに変わっているのか。全く知れない僕ですが、ともかく血入り袋のこの身体には、内から破裂してしまいそうな力に、とても耐えられない変化があるのでした。あらかじめ服用していた鎮痛剤が神経を鈍らせます。次に目を開いた秒刻には、空は、蓋が真紅の隙を見せてあるのみなのでしょう。

 

19時5分。電燈は鎮められ、機体は下降を始めたようでした。着陸すべき福岡市内。見たい街明かりも厚い雲に遮られ、少しも見て取ることはできない。左前方に読書灯が点るが、その真下の乗客は寝息を立てている。

 

闇です。僕は努めて闇を凝視しました。飛び出しそうな眼玉をなんとか堪えながら、闇の奥を見つめている。ジェットエンジンを照らす橙の光。白く濁った雲の海に、不気味な貌を照らし出しています。充血しているのか、視界に紫の縞が這入り込み、顕微鏡で見た海洋プランクトンのような、赤くチカチカするものが夥しく這っています。するとその無数のプランクトンは、みるみるうちにジェットエンジンの大きな口に吸い込まれてしまいます。

 

あれはジンベエザメ…?いいえ、ここは海底二万海里。あれは息を潜めるメガマウスと見えます。プランクトンと見えていたのは、実は僕等の小さな霊魂なのかもしれない。白内障患者のような眼玉が蠕き、僕等の生命を平らげている。僕はそのとき、身体の記憶した映像が勝手に再生されているような感じがしていました。

 

19時15分。死の淵の地底を静かに破り、ようやく姿を現した街々の華やかな明かりは、熔け出したラヴァのように輝くのです。そこにはとても高価なルビーやサファイアだって溶け込んでいるに違いありません。それほどにこれは、美しい景色でした。

 

はたして僕は、生命の光を取り戻したのでしょう。「美」とは超越概念だと人は言います。確かにそうかもしれません。けれども、決して僕等は神を仰ぐように美を取り扱ってはいない。それは「大いなる犠牲」とも言われます。僕等は皆、「透明な器」のようなものです。僕等の問題とするところは、その容れ物に這入るものがどのような色彩であるか、どのような形態を取るのか、ということばかりでしょう。腹に据えられた宿命に対し、抗うにしろ甘受するにしろ、小さく賢い僕等は自分自身を「犠牲者」として世界の内に位置付ける。僕等は嘆くのです。

 

「ああ、汚されてしまった!」

 

ところが今日、僕は見たのでした。透明な器の入り口を。僕等はこの容れ物の内にて、僕等の生命が固有にしてあるところの色彩を発散させています。やがて器は黒く濁ってしまう。すると再びあの蓋が開かれる。圧力の差に任せて中身が飛び出すのです。それは熔岩のようには美しく。ギラギラとして輝いているに違いない。それを生命の力と呼ばないで、何と呼べばよいのでしょうか。生命の燃えるとき、それは烈火の如く燃えるのみであります。生命の眠るとき、それは氷河の如く蒼ざめるのです。死とは色彩の欠如であり、それは灰色にして、また白く濁ってはいる。またそれは僕等の底に静かに潜む、排水溝が如く深い闇の別名なのです。

 

19時30分。逃げるように降機した僕は、薬院大通のホテル群に向かうべく、地下鉄空港線の改札を通っていました。55分発の電車を待つ間、フライトの無事を彼女に連絡をしようと携帯を取り出します。すると僕は、電源を切ったスマートフォン画面の黒さに驚嘆するのでした。真夜中の空でもここまで黒くはありません。色彩の欠如としての黒と、色彩の飽和による黒。いったいどちらの黒がより黒いのでしょう。黒色と闇は別のものなのかもしれない。きっと黒は異世界へと繋がる色なのです。とするとそこに、数匹の赤い金魚が映る。いつか水族館で見たアートアクアリウムの金魚です。真っ赤なドレスを水中に漂わせて泳いでいる様はなんとも優美なもので、僕は幼い頃から、金魚という生き物に不思議な魅力を感じていました。時には畏怖の対象として見ている自分もいます。脳味噌のような形をして膨らみ、今にも破千切れてしまいそうなあの腹を見ていると、僕は気分が悪くなるのでした。おそらく僕は金魚を見て、自らの死を連想しているのだと思います。眼前をチラチラと游ぎ交う縮こまった赤い玉。飼っていた安価な金魚が死んだ時分には、母に水槽から掬って土に埋めるよう言いつけられたものです。しかし僕はその骸を手にした瞬間に、ある不可解な衝動に駆られ、静かにそいつを握り潰したのでした。赤い玉が破裂して臭い贓物が這い出てくる。その感触は今でもこの掌に鈍く残り、潰した後に訪れた黒い罪悪感と、母に秘匿の遊戯によるえもいわれぬ恍惚感は、脳味噌に消えない印象を刻み込んだことだろうと思います。僕は女と寝る時、不思議と金魚の印象を想起するのです。映像か、感触か、匂いか、どれだかわからないけれど、金魚の印象と接続されている官能がそこにはある。或いはまた、その遊戯の最中に心中へ訪れる様々の情感、また思想なりが、金魚の印象と何か関係があるからなのかもしれません。

 

女と寝るとき、僕は幸福でした。快感のため、官能の満足のために僕は幸福でした。そして、それらの要因よりも遥かに広大な幸福の種は、僕自身がここにあるという実感でありました。僕という存在はあるのです。疑る余地もない程に、僕という存在はありました。しかし、僕という存在を証明するものがないのでした。僕は苦しみます。苦しみが僕の存在を証明してくれますでしょうか。わかりません。苦しみのために、肌が痒いような気がしてきます。苦しみを消し去ろうとして、僕は爪を立てて僕を引っ掻きます。すると苦しみは痛みに変わります。血が流れます。痛みは苦しみよりも、僕の存在を現実のうちに浮き彫りにします。血は僕の身体が生成したものです。血の軌跡は僕の身体を這うものです。さて、このことで僕があるということは明かされるのでしょうか。僕は僕の形というものを認識しています。それは僕の身体の質量を知らしめてはくれますが、僕はまだ判然としません。僕という存在は、僕の身体があるということだけでは成り立っていないような気がするからです。そう、痛みは証明されても苦しみがわかりません。苦しみはどこにあるのか。悲しみはどこにあるのか。僕がどうしようもなく寂しく思ってしまう瞬間に、僕の輪郭は熔け出しているのです。僕の形は崩壊しているのです。それでも、僕の寂しさはそこにあります。心は脳味噌とは違うものです。僕の身体が、飲酒や性的絶頂による弛緩状態に陶酔するとき、心は普段にも増して緊張してしまいます。より一層寂しくなり、尋常ではない感傷的な気分に毒されてしまうのです。脳味噌には皺が刻まれていますが、心に傷は残りません。それは形のないものであるからして、誰であろうと、例え自分自身によってしても、形のないものには"触れることさえできない"のです。それゆえ、人間の存在は皆平等に、それが置かれている環境とは無関係に、生涯を通して孤独なのです。僕等は比喩的に、心が、「疼く」だとか、「傷む」だとか言うことができますが、それが形無いものである限り、そこに及ぶ外的損傷は有る筈がないのです。心はただ悩み苦しむだけです。孤独とは人の影なのです。忘れてしまっても人間の背後に付き纏うものなのです。そこで僕等は恋をします。互いに存在を認識し合うことで、存在の不安を恋の熱情のなかに隠してしまうのです。確かに、そこには熱があります。恋人と肌を合わせることで、僕等は自身の肌を感じます。恋人と話すことで、僕等は自身の言葉を感じているのです。それが僕等の作り出した幻想に過ぎないことは明確でしょうが、問題は別のところにあるのです。つまり、僕はあなたなしではもはや存在できないということ。あなたを失ったとしても、僕の身体は有り続けるかもしれない。しかし、そうなれば僕の身体は抜け殻のようになってしまうのです。透明な器から中身が失われた時、それは存在しない器と見分けがつかないのです。人間は虚しい。人生も虚しい。それでも僕は、もう嘆いたりしないのです。それは、僕を満たしてくれる存在が自明のものとしてあるからなのです。この世界に僕は存在するのです。あなたのおかげで。