倦怠の勿忘草

“汚れつちまつた悲しみは 倦怠のうちに死を夢む”

想像の詩人

 



君は誰を待つ

 

空を眺めて光る瞳は

 

泣いているようで

 

何も語らぬ口は

 

やさしく微笑むよう

 

背中を押す風は

 

何処へ吹くのか

 

君だけが知る

 

急かすような雲は

 

何処へ流れゆくか

 

君だけが知る

 

透き徹るひかり

 

透き徹る君

 

躰がふわり浮き

 

空と混じる君

 

染み渡る青は

 

海より深く

 

囁く旋律は

 

あの鐘の音より遠い

 

君は誰を待つ

 

 

月夜の幽香

 

 

私の存在はどうしてこうも悩ましい

 

みな同様に悩みを抱えているか

 

悩みを抱えながら

 

無理してもまだ笑うのか

 

 悩みを深刻に考え込むことが私の罪ですか

 

みなが顔を歪ませ笑うなら

苦しみに泣いていてはいけませんか

 

みなが置かれた場所で笑うなら

居場所を探して彷徨うのはいけませんか

 

 

その笑みは偽りではありませんか

 

 

私は偽りなく笑いたいのです

 

 

悩みを逃さず

 

苦しみを噛みしめた先に

 

何も疑うことのない君の

 

何も気にかけず無防備に笑う君の

 

曇りのない微笑みの真似をして笑いたいのです

 

 

例えば夜に

 

孤独な月を眺めている私は

 

欠けたる心の喪失感に押し潰されそうな私は

 

きっとその日を

 

待っているのです

 

私はこの心が丸く満ちた夜を迎えない限り

 

あっけらかんとして

 

全てを忘れて

 

何か私には関係のないような問題を

 

得意げに話すことなんてできません

 

 

しかし私も告白しましょう

 

私の胸の裡には

 

常に動き回って掴みようのない

 

苦しみを掻き回す虫が飛んでいます

 

月夜になると細やかな鳴き声を聴かせ

私の心を擽って寝つかせまいとする虫

 

川のせせらぎにのって踊るように光を放ち

私を闇夜へ誘う虫

 

 

虫の声を聴き

私は不安になるのです

 

虫の光を見て

私は不安になるのです

 

 

虫の声は竟に月は満ちぬと囁いている

虫の光は月の明かりを頼りなく再現している

 

 

毎夜

 

私はこの暗闇が恋しく

 

光の中では感じられない

 

不思議な匂いを嗅ぎ

 

考える間もなく

 

その甘美な気分へと誘い込まれているのです

 

 

虫の声に聴き入るとき

 

私は母親に頭を撫でてもらっているような

 

深い安らぎを感じるのです

 

虫の光をぼんやりと眺め

 

闇夜の香り

孤独の香り

 

微笑む少女の首元に

顔を埋めたときような

 

あの香りを吸い込み

 

私は苦しみを癒しているのです

 

 

 

ああ

私はもう死んでもいい

 

 

この香りのなかで死んでしまうこと

 

それが私のしあわせに違いない

 

それでも私を生かすのは

 

いったいどんな希望か

 

この香りを漂わせた君を

 

月を憐れみながら眺めている君を

 

私はもう愛してしまっている

 

 

 

 

シュールレアリズム

 

 

シュールレアリズムという芸術の思想形態のひとつを知ってますか。

 

「シュール」という言葉が有名ですね。笑いの一要素として確立されているようです。「シュール」の意味を調べると、「超現実主義、非日常的」と出ます。笑いの一要素としてはどちらかというと、「不条理、奇抜、難解」という意味のほうが強そうです。

 

では、芸術の思想形態としてシュールレアリズムとはどういったものなのでしょうか。

 

ここではあえて、絵を紹介するのは避けたいと思います。色々面倒だし、言葉だけで表現してみたい。

 

 

 

シュールレアリズムとは、簡単に言ってしまえば「無意味」です。しかし、無意味と言えば「ダダイズム」のほうに近くなります。シュールレアリズムの元をたどると、このダダイズムに至ると考えられています。言葉から意味を抜き去ってしまおうという文学運動のひとつで、なんだか僕がこのブログを始めた動機と似てますね。

 

ダダイズムの発展した背景には戦争があります。

 

当時、西洋哲学や西洋美術の立つ思想は人間の理性の価値を高く評価していました。人間が人間たる所以は理性である。理性は自然を支配し得る特別な力であると信じられていたのです。ところが理性の向かう先には争いがあった。破壊と殺人を肯定してしまうような人間の性を理性と呼ぶなんて莫迦らしい。本当に人間には理性というものがあったのか?そもそも理性って何だ?…というのがダダという思想の始まりのようです。

 

ダダは形式を否定します。それは理性の産物だからです。もう想像がつくと思いますが、作為的なもの、意識されたものでさえ否定することになります。全て理性によって成るものだからです。

 

じゃあどうやって表現するの?

 

無意識です。何も考えの無いどこかからか表現を捻り出すのです。実際ダダの詩人は、言葉を切り取ることで(バラバラにすることで)意味をなくし、それを無作為に並べるという手法をとっていたそうな。

 

つまり、作為的に成り立つ表現は、本来の表現ではない。偶発的に飛び出た”叫び”のようなものこそが、本当の表現である。と言ったところでしょうか。

 

僕の好きな詩人の中原中也も、この”叫び”にこだわった詩人です。彼は抒情表現を極めることで、本当の表現を目指しました。

 

…まあ、今はシュールレアリズムの話に戻ります。

 

シュールレアリズムとダダイズムの違いと言えば、その表現方法でしょうか。ダダイズムが言葉をバラバラにする行為ように、まず形式の破壊から始まるのに対し、シュールレアリズムは無意識の世界に自分が飛び込もうと試みるのです。

 

無意識の世界に飛び込む…飛び込むという動きは意識されているのでしょうか…。屁理屈は置いときましょう。

 

さて、無意識の世界とは何処にあるのか。それはかの有名なフロイト先生が発見した世界です。

 

少しフロイト先生の話をします。

 

フロイト精神分析学の先生です。精神科医として働きながら、その優れた観察眼によって患者を分析し、精神医療や臨床心理学の基盤を作り上げた偉いひと。前述した通り、17世紀頃まで西洋では人間は人間の理性や意識をコントロール出来ると考えられていました。しかし、そんな中でフロイト先生は、こんな意見を世間に突きつけたのです。

 

「人間の意識や理性は、それらがそれら自身によってコントロールされているのではなく、それらを超えたもの、つまり無意識によって支配されているのである。」

 

衝撃です。みんな人間が自らの理性をコントロールすることで世界を変化させていると信じ、その上に哲学やあらゆる思想を組み立ててきました。それがひとりの精神科医によってひっくり返されたのです。

 

もちろん、すべての事についてフロイトの意見が通るとは限りませんが、無意識の世界の発見は様々な芸術、哲学分野に影響を与えました。現代の哲学の根底に無意識の考え方が色濃く存在しているのは間違いありません。

 

無意識の世界がどんなものか、なんとなく掴めたでしょうか。興味のある方はフロイトの本を読むともっと深く知ることができます。

 

さて、シュールレアリズムの表現方法として、この無意識の世界に飛び込まなければいけません。と、簡単に言いますが、理性や意識を支配している無意識の世界に身を投げることなど本当に可能なのでしょうか。

 

これについては、シュールレアリズムの代表的な画家、セルバドール・ダリの話が有名です。

 

彼は夢の世界を記録することで、無意識の世界を表現しようとしました。

 

まず椅子に座って、スプーンを持ちます。床には板をはり、スプーンが落ちると大きな音を響かせるという仕組みです。あとは椅子に座ったままウトウトするだけ。落ちたスプーンの音で飛び起きたダリは、夢の世界を書き留めたのです。

 

おもしろいですね。彼はその作品の奇抜さに、もしやドラッグを使っているのではないかと疑いを持たれ、このように否定したらしいです。

 

「私はドラッグなど使っていない。なんせ私自身がドラッグだからな。」

 

 

 

 

シュールレアリズム、「超現実主義」などと訳されると話しましたが、僕は、それらが自らを「超”現実主義”」と名乗るところがおもしろいと思います。

 

現実主義、リアリズムと聞くと、冷淡な印象があります。目に見えるものしか信じない、政治家のような考え方です。

 

僕は現実主義が苦手です。なぜなら、それは最強だからです。どんな理想も許さない、弱肉強食の思想。けれどもその思想を実践しようとするならば、ひとは孤独にならざるを得ません。大半の人が弱さを持っているので、現実主義を身に付けた最強のひとが他人と関係を持つには、弱さを許さなければならないのです。弱さを許すのは現実主義的ではありません。他人に自分の思想を押し付けるのは傲慢ですが、他人を弱いと見下しながら関係を持つのは欺瞞です。

 

即ち、現実主義を身に付けようとする者は孤独を覚悟するはずです。でないとすれば、皆が最強になれると信じているということになります。「皆が最強になれる」なんて夢は、理想にしてもあまりに飛躍した理想です。つまり、現実主義とは、呆れるほどに理想主義的な考えだと言えないでしょうか。

 

そこに皮肉を含めてシュールレアリズムが現れたのだと思います。

 

「現実主義なんて古い考えは捨てよ、我々は”超現実主義者”だっ!」

 

みたいな。

 

私、ほたるは先日、こんなつぶやきをしました。

 

https://twitter.com/glowfly_nogi/status/765231903951642625

 

『芸術家が叫びの対象を捉えようと探求し、竟に「彼は幻想を見ている」と評されたとする。彼は表現を偽ったのだろうか?いや彼は、彼自身の目に見える叫びの対象を表現しようと、ただ誠実に対象と向かい合ったに違いない。』

 

シュールレアリズムと聞けば、「あんな非現実的な表現をおもしろがる感性は下品だ」とどこからともなく聞こえてきそうです。

 

下品なはずがありません。シュールレアリズムは理性的な人間にこう主張しているのだと思います。

 

「無意識の世界にこそ、真の表現がある」

 

「理性をコントロール出来ていると傲る人間は、無意識の世界に目を向けなければならない。自分を支配している何かを全く知らないままで、意識を野放しにしているのは、飼い犬の首輪が少しずつ劣化し、終いには箍が外れて暴れ出してしまうかもしれないという危険を、知らずに冒しているようなものなのだ。」

 

僕の周りにいる大人は、立ち止まって芸術を鑑賞しようとはしません。忙し過ぎるために、表づらだけを見て、新しい物はどこから拾ってきたのか、あらかじめ用意された経験と知識で否定しようとします。

 

これは大人が反省を忘れているということの証ではないでしょうか。

 

死ぬまでのプランに見通しがつけばそれで満足ですか。社会の歯車に混じって動いていれば、無意識のうちにひとを差別したり、嫉妬したり、憎んだりしても許されるのですか。

 

全部理性によって隠すことが出来れば偉いのですか。

 

平和や幸せを本当に望むのならば、無意識から変革を起こし、嫉妬心や傲慢な心を失くすべきではないのですか。

 

正義だ愛だと論じている人間の本性が醜くては、どんな言葉も虚しいアピールに過ぎません。

 

無意識とは大抵、醜いものです。人間は無意識に支配されていると聞けば、信じたくないと思うのが自然でしょう。しかし、自らの醜さを放っておくよりも、腰を据えて観察することで少しでも改めるほうが良いと思います。

 

シュールレアリズムは斬新で、見た目におもしろいだけではなく、このように確りとした表現の意味があるのだと思います。

 

芸術をただ鑑賞するだけでなく、表現の内容をじっと見つめてみるのもおもしろいかもしれません。

 

 

 

ほたるのブログです。

 

ブログです。

 

どうしてブログでしょうか。

 

僕は言葉を信用しません。言葉はどのようにも飾り付けられ、ひとが言葉を紡ぐということは、ひとが嘘を紡ぐということだと思っているからです。

 

だから僕はおしゃべりが嫌いです。実践と態度によって示されたものでないと信じないようにしています。

 

そんな僕が言葉によって表現するためには、言葉から嘘を取り除く必要があります。

 

嘘とはつまり、言葉に付いた内容、意味です。世界は常に動いています。変わらないものなどひとつもありません。なのに言葉だけがいつも同じ意味を持った言葉であるために、言葉は動きについて行けず、物事をありのままに伝えることができないのです。

 

とは言っても、音楽や美術のように見る側に特別な態度を要求する表現よりも、言葉による表現のほうが即効性はありそうです。

 

では、言葉を使ってより鮮明に、より正確に何かを伝えるにはどうしたらいいのか。

 

正直、僕には分からない。

 

はい、そういうわけで、実践するしかないのだと思い至りました。

 

つまりこのブログはそういうものです。

 

感情が動いたことはそれだけで価値あるもの。しかし、それを忘れたくないというのも本音なのです。

 

つまりこのブログは記録としても働きます。

 

他人が見ておもしろいものになるかはわかりませんが、自分でおもしろいと感じたことを書いていくのでよろしくお願いします。