倦怠の勿忘草

“汚れつちまつた悲しみは 倦怠のうちに死を夢む”

自意識

 

「自意識」という言葉があります。

 

自分という存在がある、という意識です。自我の存在を信じる意識のことを言います。

 

私はこの言葉を聞くと、「なんと自意識過剰な言葉だろう」と思うのです。自意識という言葉に意識を向けているとき、ひとは正に自分という存在をみつめているのでしょう。自意識について悩むということは、自分という存在の意味や価値、即ち「私はどうして生きるのか?」と問うているのだと思います。

 

私はこの文章を、自意識過剰な人間への妙な愛着さえ持ちながら書いているのです。決して非難したいのではないということを理解していただきたい。しかし、この厄介な意識の扱い方が未熟だと、人間はどうも浅はかな、卑屈な目しか持てないようだと、私は感じています。

 

自意識を持つということは、他人からの視線や評価を気にするということです。自分という存在は他人によって固められなければ掴めないのでしょう。鏡がなければ、誰も自分の顔を知らないのに似ています。しかしながら、鏡に映った自分が本当に自分なのか、そういった悩みはありふれていますが、皆、どこかで諦めるのでしょう。本当の自分など、どう足掻いても掴めるわけがない。そうやって、まるで他人事のように自我を捨て去るのです。それが成熟だとあなたはいいますか。しかしそれは単に自我の放棄です。自分の存在をあたかも存在しないものであるかのように扱い、それを他人にまで押し付けようとしているに違いない。あまり身勝手ではありませんか。彼らには、自我を持った人間など邪魔者でしかないのです。変な欲求を呼び起こす悪魔なのです。悪魔ならば殺してしまえ、いいやそれは悪魔なんかではなく、より人間らしい人間なのです。

 

自我は正しく観察されなければなりません。捨ててもよいわけなどなく、捨てたほうがよいと思えるのは、正しく自我を掴めていないだけなのです。ひとには自分の存在を表現する自由があって然るべきではないか。そして、自我の観察が他人に依存せずに行える方法といえば、自我を試しに潰してみるしかないように思える。潰して滲み出た中身の様相を、ただ誠実に描写せしめること。誰がやるのか?あなた自身に決まっている。潰された痛みは誰に来るのか?あなた自身に決まっている。それでも、それをしなければ、どうしても他人と比べることでしか、自分を掴めません。他人と比べる根性は、卑屈にならざるを得ないのです。他人と比べられた自我は、嫉妬します。自分がどこにもないのは、他人のせいだと思い込みます。自分があることを、必要以上にアピールします。そうして認められなければ、憎みます。自分の能力以上のことを、偽って他人に認められようとします。自らの仮象を作って、壊されたなら怒ります。都合に合わせて、あれは本当の自分ではないと言い出します。そして、本当の自分はもっと魅力的であると、そんな虚栄心からまた新たな仮象を作ります。

 

 

 

 

つまり、言いたいことはひとつです。卑屈にならないための自己表現をしなさい。何も偽らない自己表現をしなさい。それによって生じる苦しみは必ず自我を成長させると信じることです。苦しくないような表現などがあるならば、そこにはきっと偽りがあるのです。逃げ道を作ってはならないのです。逃げ道が、自我を逃します。そうしてあなたは、いつまでも自我を逃し続けているのです。