倦怠の勿忘草

“汚れつちまつた悲しみは 倦怠のうちに死を夢む”

虚無であるということ

 

 

虚無と聞いてなにを思いますか?

 

 

「ニヒルな笑い」なんて言うとなんだかかっこいいですね。「ひとはみんなニヒリストである」なんて考えた上で世界を観察すると、案外おもしろいとか聞いたことがあります。やってみると随分つまらない世界になりました。空想としてはおもしろいかもしれませんが、ただの冗談で済みそうになかったので止めました。

 

それはともあれ、いまほど「虚無」という言葉の比重が軽くなっていることがあったのでしょうか。

 

ちょっと痛い男子の抱く偶像みたいな扱いを受けているように思われるのです。そうでなくとも、世に溢れる知識人との対比として、単純に阿呆、教養がなく、夜中に街をふらついているような不審者という感じで、人々の嘲笑の的となりつつあるような空気が、確かにあるのだと思います。

 

それとは反対に、ひとが真面目にこの言葉を使うときには、そこに畏敬の念が込められているということを感じないでしょうか。

 

私は考えました。この違いはどこにあるのだろうか?

 

…いったい半端者の私が、どんな立場でそれほど深遠なテーマに挑んだのか…。

 

疑問は拭えませんが、取るに足らない愚か者の戯言だと思って聞いていただければ幸いです。

 

 

虚無。

 

 

それほど難しい言葉ではありませんね。「虚ろ」と「無」、似たようなイメージの言葉に「空」があります。中身がない、からっぽ、ゼロ、色は白や黒を思い浮かべるでしょうか。

 

調べてみましょう。「なにも存せず、むなしいこと。空虚。特に、価値のある本質的なものがないこと。」…やはり、「むなしい」「空虚」という言葉を使わざるを得ないようです。それほど、この言葉の意味が独自のイメージを持っているのだと思います。

 

さて、ニヒリズム虚無主義)と言うと、これは思想になります。この世界に存在するあらゆるものに価値や意味を認めないという思想です。過去、または現在において、人間が存在しているということに意義や目的、納得できるような真理、本質的な価値なんてないんだよ、という、なんだか絶望を感じさせるような考えのことで、聞いていると「じゃあ私たちは何の為に生きてるの?」という疑問を抱いてしまいそうです。というか、それ(虚無主義)しか信じられるものなんてない、といった感じですか。何か開き直っている印象もありますね。

 

 

さらに哲学の世界を見て行きましょう。

 

 

哲学の世界でこの価値観を確立したのは、フリードリヒ・ニーチェだと言われています。

 

ニーチェニヒリズムにもふたつの態度があると言うのです。

 

まずは、消極的ニヒリズムです。

 

ひとが何も信じられないような状況に絶望し、疲れきってしまったために、あえて自分の置かれた状況に抗わず、流れるままに生きるというような考えです。受動的ニヒリズム、弱さのニヒリズムとも言われています。

 

もうひとつは、積極的ニヒリズムです。

 

こちらは、消極的ニヒリズムを克服しようとするニヒリズムという意味で積極的なのです。全ては無価値、偽りばかりで、仮の形しかとらないものであると認めた上で、自らが生きていくその時々の場面に応じて、その無価値な抵抗を続けていこうという考えで、能動的ニヒリズム、強さのニヒリズムとも言われています。

 

と、ここまで来たのですが、私が初めに問題提起した内容がニーチェニヒリズムを調べることによって簡単に説明されてしまいましたね。

 

つまり、ひとの嘲笑の的となるようなニヒリズムは「消極的ニヒリズム」であり、ニーチェに言わせれば、まだまだ未熟だ、ということなのでしょう。

 

逆に、成熟したニヒリズム、畏敬の念を周囲に抱かせるようなそれの正体は「積極的ニヒリズム」だったのです。

 

どうやら、虚無という言葉を正確に掴むには、ニーチェの哲学を考えると良いみたいです。

 

というわけで、ニーチェ的なニヒリズムを考えていきます。

 

…えぇ、実は私、ここまで見切発車で来たのでした。

 

虚無についての単純な興味と疑問が私の中にあったのでこの記事を書き始めたのですが、まさかニーチェに行き着くとは…!

 

…感動しているのです。つまり、ニーチェ虚無主義に近いとは知っていましたが、私の疑問を解く鍵を彼が握っているなんて予想外だったのです。

 

こうやって知識ってのは広がっていくんだな!という実感に震えながら書いていきますので、些細なミスは見逃してください。

 

ニーチェニヒリズムについて書いていく過程で、彼のキリスト教批判にまで考えを及ぼす必要があるのですが、どうやら長くなりそうなので一度ここで切らせていただきます。