倦怠の勿忘草

“汚れつちまつた悲しみは 倦怠のうちに死を夢む”

虚無であるということ:3「悲劇の誕生」

 

 

虚無について考えてきました。もはや私は虚無ではないですね。「何もない」ということを見つめ直すなんて、少し冷静に考えればおかしなことです。

 

しかし、前回の記事の「堕落論」を書いていて思いました。虚無ということは、何もないのではなく、何かが有り過ぎるのではないか。無限の所有の故に、何も持たないような様相となることがあるのではないか。透明な光を分解すれば、虹色となるように、虚無という性質の人間をよく観察すれば、そこに有り余る人間性を見れるのではないか。

 

根拠などありませんが、これはいまや私のなかで、疑われない事実となりました。虚無という言葉の本質は、無限性にあるのです。

 

ニーチェは元々、哲学者ではなく、ギリシア神話などを読み解いていく、古典文献学の教授でありました。そのなかで彼はギリシア悲劇に感銘を受け、初めての著作として「悲劇の誕生」を執筆したのです。

 

奇しくもこの著作の名の通り、ここから、ニーチェという悲劇的人間が産声をあげることとなります。

 

厳格な論理によって考えていくことが求められる古典文献学の教授が、自らの芸術的欲求を優先させた詩的な著作を出したことに批難が集まりました。同時期に彼は病床に臥し、教授の仕事を辞めて、放浪しながら原稿を書くという暮らしに一転してしまうのです。

 

ニーチェ著作はあまり話題にもならず、病気まで患ってしまった彼はニヒリズム的な思想へ偏っていきます。生による苦悩から、死の安楽を求めたことだってあったのかもしれません。彼は必死に考えました。

 

「人間が生を肯定するにはどうすればよいのか?」

 

絶望の淵に立ってもなお、生を肯定しようとしたのがニーチェ哲学の凄まじい点です。この文章の脈で言えば、虚無になって初めて、彼の哲学は動き出したのだと言えるかもしれません。虚無になって初めて、彼は生きようとしたのだと言えるかもしれません。坂口安吾の説いた「堕落」をニーチェは運命として受け入れていたのです。

 

「人間が生を肯定するにはどうしたらよいか?」という問いに、ニーチェは「超人」「永劫回帰」という思想を持って立ち向かいます。

 

これは著作ツァラトゥストラはかく語りき」に色濃く表れている思想です。

 

「超人」とは「人間」という生物を介し、「動物」という概念と対立したものとして解説できます。

 

イメージとして、「動物」から「超人」まで一本の綱が張ってあり、その綱を渡るのが私たち「人間」だと考えるとわかりやすいです。

 

あなたは人生という綱を渡るひとりの人間です。

 

「超人」を目指して進むか、人間の綱の上に黙って立っているかは、あなたの自由なのです。進めば綱が揺れるでしょう。あなたは人生から脱落してしまうかもしれない。心の中の「道化師」が綱を揺らします。(「綱」や「道化師」、これらはツァラトゥストラのなかで使われた比喩表現です)

 

「落ちたほうが楽さ。進んでもあちら側まで辿り着くかわからない。リスクを冒して進む必要なんてないだろう?」

 

このように、下降を望む思考を「ペシミズム」と言います。訳すと悲観主義ですか…ニヒリズムとの違いがわかりにくいですね。

 

私の解釈ならば、「ペシミズム」はマイナスで、「ニヒリズム」はゼロなのです。ウジウジとキッパリです。「この世界は悲しみに充ちている」と「この世界に価値などない」の違いです。なんとなくわかると思います。

 

もっと私的に語るなら、ニヒリズムにはある思想的なひらめきというか、「気付き」があるんです。「ああ、なるほど!世界は無価値であるか!」です。悲観は誰にでもできますが、虚無というものには、普通に幸せな人間であればまず近寄らないでしょう。

 

彼は「悲劇の誕生」という作品で「ペシミズム」についての考察を示しています。生を肯定する最高の芸術として、ギリシア悲劇を批評し、芸術であえて悲劇を描く詩人は「厭世家」であったのかということを問うているのです。彼はこれを否定します。

 

悲劇の主人公、つまり、悲劇に見舞われていく人間の性質は、ペシミズムや厭世家という言葉では充分に表すことができない。

 

悲劇とは、ある人物の希望や愛が、何か外的な作用によって邪魔をされ、歪んでしまうことで起こります。もしも、主人公が厭世家であれば、彼の理想を邪魔する環境に嘆き、逃げるでしょう。もしくは、早々に理想を折ってしまうかもしれない。そうなれば、悲劇など起こるわけがないのです。悲劇の主人公は、外的作用、即ち彼の運命とも言えるようなある現実を進んで受け入れる者であるはずだ。

 

ギリシアの悲劇詩人はどうして、このような作品に美を見出し、わざわざ悲劇として描いたのか。ニーチェは「悲劇の誕生」を書き上げた後に書き添えたという、前書きのような文章、「自己批評の試み」の中でこう語っています。

 

…根本的な問題は、ギリシア人が苦痛に対してどういう関係を持っていたかということ、ギリシア人の感受性の度合いなのだーいったいこの関係はずっと変わらなかったのだろうか?それとも何か急転換でも起こったのだろうか?ー。美に対する渇望、祝祭や歓楽や新しい祭式に対する欲求が、ギリシア人の場合、いよいよ強くつのってゆくのがみられるが、それがはたして欠乏や不足や憂鬱(メランコラリー)や苦痛から生じたものなのかどうか、というあの問題こそ、根本的な問題なのだ。ペリクレス(あるいはツキジデス)が大追悼演説で示唆しているようにーかりにその通りだったとすれば、それなら、時代からいえばその先にあらわれた、これと正反対の欲求、醜いものに対する渇望はどこからきたのかということが、問題になってこなければならぬ。ペシミズムや悲劇的神話、生存の根底にあるすべての怖しいもの・邪悪なもの・謎めいたもの・破壊的なもの・不吉なものの姿かたちに対して、古代ギリシア人ははげしい好意をよせているが、それはなぜかということ、ーつまり、悲劇はどこから発生せざるをえなかったのか?ひょっとしたら、悲劇は快感から生まれたのではないか?力から、みちあふれるような健康から、ありあまる充実から発生したのではなかったか?…

 

ギリシア人は、生の苦痛にどう対応していたのか?「美に対する渇望」が強くなっていく背景には、欠乏や不足や憂鬱があったのではないか?彼らはこれらの苦痛から逃れる手段として、いよいよ楽天的になり、これに立ち向かうのではなく、表層を論理で囲ってしまうことで解決したつもりになり、狂喜乱舞していたのではないか?そうしてギリシアは弱体化し、解体に至ったのではないだろうか。

 

ギリシアが活気に充ち、その魂が生命力に充ち溢れていたころにはむしろ、「醜いものに対する渇望」があったのだ。つまり、悲劇とは生命の充実を描いたものであり、人生の疑わしきものや嫌うべきものを率先して引き受け、肯定してしまう精神のことを悲劇的精神というのだ。

 

その生命力過剰の人間は馬鹿に見えるだろうか、私にはむしろ、溢れんばかりの知性が感じられるのです。

 

実際、悲劇的人間に人々は共感せざるをえないのではないでしょうか。理想と運命との交差点に立ち、妥協を選べば良いものを、理想を持ったまま運命の道を歩いていく姿に、切ないくらいの共感を抱いてしまう。

 

皆、心の端ではそうやって歩きたいと思っている。どうしようもなく、運命のまえで理想は重荷であり、運命に逆らうか、理想を捨てるかの二択であると思い込んでいる。

 

幸福を感じるために不幸を避けたり、善行をしようとして悪を嫌う。そんなことをしていれば、悲観主義に堕ちてしまうのが人間の性である。これを否定し、生を肯定するには、不幸や悪を愛するだけではなく、破壊さえ愛してしまうような生命力が必要となる。そんな生命力をニーチェは「ディオニュソス的」と表現し、これこそが、悲劇詩人が悲劇を描く動機であると言っているのです。

 

そうしてニーチェは、悪や不幸、さらには破壊までをも愛せよという思想を得たのでしょう。

 

しかし、いきなり愛せよと言われても、そんな簡単に愛せるものではありませんよね。

 

そこで彼が考え出したのが「永劫回帰」という思想です。人生は何度も繰り返すものであり、人生で起こった不幸も幸福も、またもう一度あなたを迎えることになる。

 

「そんなことあるわけない」と思いましたか?私もそう思います。「あるわけない」のですが、誰もそれが「絶対にない」とは言えないという点が、この思想の肝だと思います。つまり、考え次第でどうにでもなるのです。「信じるか信じないかはあなた次第」なのです。

 

信じればどうなるか。信じれば不幸を受け入れざるをえません。それがあなたの運命なのです。同時に、幸福だって運命として用意されています。不幸と幸福があれば、幸福を楽しみにしてなんとか生きていける気がします。

 

学校がどれだけ憂鬱でも、好きな女の子に会えると思えば躰が軽くなる。学校には絶対に行かなければならないのです。それならば、好きな女の子に会えるという事実と一緒に、「学校に行く」という事実も愛してしまえば楽しいですよね。この例えが正しいかどうかはわかりませんが、私はこのように考えています。

 

掟上今日子の備忘録」という小説を知っていますか?テレビドラマ化されたことで、有名になった作品です。彼女の生き様はこの「永劫回帰」の考え方と似ていると思います。彼女は一日で記憶がリセットされてしまう病気を抱えているのです。捉えようによっては、毎日寝るたびに死んでしまい、翌日にまた生き返ると考えられないでしょうか。彼女は一日限りの最速探偵として働いています。

 

「考えようによっては幸せです。毎日が新鮮で驚きと発見に満ちている」

 

忘却という運命を愛し、毎日が新鮮であることに喜びを感じている。彼女の底無しのポジティブさは、その悲劇的な運命を愛するための強がりかもしれません。しかし、今日一日を大切に生きようとする彼女の考え方に共感したひとが多いのではないでしょうか。明日には死んでしまうかもしれないと覚悟を決めた人間は逞しいものです。ニーチェはこれを「積極的ニヒリズム」として、実践しようとしていたのだと思います。

 

 

 

正直に言いますと、私は初めから、この「虚無とは無限性を持つことである」という実感を示すためにこの記事を書いてきました。書いてきたのですが、虚無という言葉が持つ意味は覆せません。虚無とは「何もない」ということです。

 

虚無という言葉の意味はわかった。では、人間が虚無という心理状態に陥ったとき、「どのようにして虚無と立ち向かえば良いのか」と考えを発展させるのです。

 

そこには、虚無を受け入れるという選択肢もあるのではないでしょうか。

 

価値を転換してみればいいのです。何もないということは、何にでもなれるということ。

 

思想的に何も持たないということは、一切の価値に捕らわれずに全てを見ることができるということだとも言えます。

 

私は、ひとが進歩するために、議論が必要だとは思いますが、口喧嘩をするのは好きではありません。口喧嘩を好むひとは、議論が好きなのではなく、相手を打ち負かすのが好きなのです。

 

力で勝てない相手に、言葉によって復讐して、快感を得ようとしているだけです。

 

議論というものを突き詰めれば、妥協点を探ることしかできません。ある論と論がぶつかり合い、新たな論を生み出すこと。それこそが議論の目標だと思います。決して自分の論の正当性を証明するために行うのではありません。

 

絶対の真理などないのです。ある状況に対し、解決するのに妥当な策が立ち現れるだけです。何かひとつの価値に縋っていても、全てにそれを押し付けようとすれば、必ずどこかで失敗します。

 

くだらない虚言を言わせてもらうならば、「絶対の真理などない」という真理だけがあるのです。

 

これはニヒリズムの根底にある考えですが、そこらの諦観とは全く違います。

 

絶対の真理がないのなら、随時更新されていく真理の動きに、こちらがついていけばいいではないか。

 

ニーチェが「永劫回帰」の思想に至ったのは、この転換があったからではないかと思うのです。

 

 

 

ニーチェの思想とニヒリズムを考えてきました。虚無を克服した「新しい虚無」というものがあるのかもしれないという結論です。

 

あなたの描く理想はなんでしょうか?それはあなたの運命と両立が難しいのですか?もしかすると、もう道の途中で捨てたというひともいるのかもしれません。あなたが捨てたからといって、周りの人も捨てることが当たり前だと思っていませんか?

 

理想なんて捨てたほうが楽だ。

 

確かにそうかもしれません。たった一度の人生なんだから、楽に生きたいですよね。

 

「楽に生きることが一番の幸せだ。」

 

素晴らしい哲学です。どこまでも自己中心的、現代のニヒリズム的な思想にぴったりです。

 

 

 

…はたして、そこで思考停止したままでいいのでしょうか?