美を求める心
「美を求める心」とは、批評家である小林秀雄によって書かれたエッセイです。数ある彼のエッセイのなかでも、小・中学生向けに書かれていると言われているので、難解な表現は少なく、誰にでも読み易い内容となっています。
このエッセイは、彼がよく若いひとから受けるという、ある素朴な疑問からはじまります。それは「絵や音楽はどう鑑賞したら良いのか?」というものです。
この疑問を聞いて、何を言っているのか、と一笑に付すのは簡単ですが、これに答えられるひとは少ないのではないかと思います。
絵をみても、音楽を聴いても、その感動は胸に起こるものであって、例えどんなに伝えることが達者なものがあったとしても、他人がどのように感動しているのか、一切理解できないのが人間のコミュニケーション能力の限界というものです。
他人がどのように感動しているかもわからないのに、いったいどのようにして、音楽、絵画の鑑賞のいろはを掴めばよいのか、考えてみれば、これは自然な疑問かもしれません。
いずれにせよ、一度もそのように考えたことのないというひとより、この疑問に捕らえられてどうにもならないと踠いているひとのほうが、誠実に芸術と向き合っているように思えます。
これに、小林秀雄はどう答えたか。それは一言で済む話でした。
何も考えずに、沢山見たり聴いたりすることが第一だ
何だそんなものか、と思いますでしょうか。ところがもう少し読み進めると、どうにもこれは、簡単にみえて、そう都合の良い話でもないようなのです。
極端に言えば、絵や音楽を、理解するとかしないとかいうのが、もう間違っているのです。
「そう言ってしまえば、もうそれで結構だ」などとは言わずに聞くのです。このエッセイを最も聞くべき人間は、そういう早計な人間だと思います。
先ず、何を措いても、見ることです。聞くことです。そういうと、そんな事は解り切った話だ、と読者は言うでしょう。処が、私は、それはちっとも解り切った話ではない、読者は、恐らく、その事をよくよく考えて見たことはないだろうと言いたいのです。
彼は言います、絵をみて、難解だ。簡単だ。といっているのは、ひとがそれに見慣れているかいないかの問題に過ぎないと。見慣れてくれば、ひとはもう解らないとは言わないのだろうから、頭を働かせるより、眼を働かすことが大事であると。
ぼくは現代の芸術をみて、難解だと思います。なぜ難解かと言うと、芸術の表現が向くところが、個人の、より内的な、より深遠な感覚世界に変わったからだと思うのです。それをおもしろがっているひともいるようですが、一般には理解し難いということを逆手にとって、「難解であればよい」という逃げ道ができているようにも感じます。そこで、共感というやりかたで感動しようとするならば、芸術の評価は、単に、好きか嫌いか、という好みの話になってしまうようにも思えるのです。
芸術はどこまでも分野を広げ、芸術家はどんどん自然な感動から離れていくのかもしれません。それはおもしろくない。なぜ、おもしろくないかと言うと、芸術の感性が特異であればそれだけ良いとされてしまうような土台では、芸術家は表現の純化よりも、表現の多様化を追い求めるほうに走りたくなるからです。
表現の多様さは、表現者の多様さに任せておくべきで、ひとりの表現者がより広くあろうとして、表現のひとつひとつが浅い表現となってしまえば、芸術の萎縮になろうと言っても、大袈裟な預言として笑えないように思います。
鑑賞する側に立ってみても、あまりに日常的感覚から離れてしまった芸術を鑑賞して、正直な者は「よく解らん」と言い、軽率な者は神妙な面持ちで、「言葉では表しきれぬ」と感嘆した振りをするようになるのではないでしょうか。
芸術の深遠たる所以は、その洞察が深く、遠くまで及んでいるからであり、なんでもかんでも構わないから、我儘な性癖を露出しておけば、意味深で、表面を舐めたような人気が取れるというものではないでしょう。そんな評論が私のなかに湧いてくるほど、浅はかな芸術の世界ではなかったはずです。
見るとか聴くとかいう事を、簡単に考えてはいけない。……頭で考える事は難しいかも知れないし、考えるのには努力がいるが、見たり聴いたりする事に何の努力が要ろうか。そんなふうに、考えがちなものですが、それは間違いです。見ることも聴くことも、考えることと同じように、難しい、努力を要する仕事なのです。
音楽家は、音を聴く。画家ならば、色を見る。それぞれ、一般と同様に見たり聴いたりしているのではなく、反復した訓練と努力の結果、普通では見分けることのできない色の調子や、聞き分けることのできない細かな音の違いを感じているに違いない。そういう眼や耳を持ったひとの、色や音の組み合わせなのだから、ただぼんやりとしていれば、絵は自ら眼に写ってくる、音楽は耳に聴こえてくるというようなことはあり得ない。
あまりに単純明解な話に、拍子抜けするようですが、自分の身に立ちかえって考えてみると、こんなに納得のいく芸術論は他にないと思います。
こんな、芸術論というまでもないようなことが、私たちには忘れられているのではないでしょうか。
批評家として見ることを純化して考えた彼だからこそ、それこそ批評家独特の、訓練と努力の結果、見えたことなのかもしれません。
話は、見ることについて、さらに深く掘り下げます。
特になんの目的もなく物の形だとか色合いだとか、その調和の美しさだとか、を見るという事、謂わば、ただ物を見るために物を見る、そういうふうに眼を働かすという事が、どんなに少ないかにすぐ気が附くでしょう。
眼が普段、どういうふうに働いているか、考えてみなさいと言うのです。時計を見る眼は、時間を、時刻を示す針を見るために働きます。林檎は食べるものだ、椅子は座るためにある。そういって、林檎がどのような色合いをしているか、椅子がどんな形で成り立っているのか、はっきりと見定めるひとは少ないのだと。
絵画をみるときにも、そのように見て、終いになってはいないでしょうか?
「なんだ、絵画だ。なんちゃらという名の画家が描いたらしい。彼はちょっと頭がおかしくて、逆立ちしてこの絵を描き上げたそうだ。ふぅん…。」
これでは、彼が絵の具の色を使って、いったい何を表したかったのか、ひとつもわからないでしょう。逆立ちして描いたのは、きっと、逆立ちしなければ見えない何かを掴んでいたからなのです。画家が見るために努力したことを、鑑賞者は笑いながら眺めて、「そんなものか」と通り過ぎてしまう。これではいけないのではないか、と彼は言っているのだと思います。
言葉は眼の邪魔になるものです。例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。
— 小林秀雄bot (@hideo_critic) 2016年8月15日
【美を求める心】
この一文は有名です。読めば読むほどに新たな景色を見せてくれます。「へぇ、そうなんだ。」の先があります。その世界こそ、芸術の世界なのだと思います。
何んだ、菫の花だったのかとわかれば、もう見ません。これは好奇心であって、画家が見るという見る事ではありません。画家が花を見るのは好奇心からではない。花への愛情です。愛情ですから、平凡な菫の花だと解りきっている花を見て、見厭きないのです。
考えてください。あなたが、私が、何か芸術を見に行くとします。身近な例を挙げるならば、映画やアトラクションでしょうか。その動機は何でしょう。感動を求めて、と言ってみます。では、美を求めて、と言うひとはいるでしょうか。
いつの間に私たちは水族館や博物館に行くような気持ちで、芸術を見ていたのでしょうか。これは、好奇心を満たしたいからなのです。好奇心と言えば聞こえはいいでしょうが、野次馬精神から、と言い換えたらどうでしょう。
そのくらい簡単に、私たちは言葉に誑かされています。
美には、人を沈黙させる力があるのです。これが美の持つ根本の力であり、根本の性質です。絵や音楽が本当に解るという事は、こういう沈黙の力に堪える経験をよく味わう事に他なりません。ですから、絵や音楽について沢山の知識を持ち、様々な意見を吐ける人が、必ずしも絵や音楽が解った人とは限りません。
現代の人はよくしゃべります。お茶の間でテレビを見ながら、よくしゃべります。ライブを見ながらスマホを持って、よくしゃべります。私はおしゃべりは下品だと思います。彼の言うことを無邪気に受けるならば、真に美を求める者はあまりしゃべらないものだと言えるかもしれません。しかし、批評家とはよくしゃべる人種でしょう。一見すると矛盾しているこの事実に、私は彼の批評精神の深さを感じるのです。
彼はこのエッセイで、言葉についても言及します。感動は言葉にならないかもしれない。美しさを味わうのに、言葉が邪魔になるかもしれない。ならば詩人は、詩人はどうして、美を言葉で表現しようとするのか。そこにも詩人の工夫があるのだと言うのです。
詩人は、日常、私たちが使っている言葉を使う以外に表現のしようがありません。ならば、言葉の表現する力を、最大限に引き出すように工夫をするのだと言います。
先に、見ることを反省したように、日常的に言葉を使うことを、反省してみてください。言葉とは、何か要件を相手に伝えるために発せられ、相手に事が伝わったならば、消えていく。つまり、言葉とは、人間の行動と理解との為の道具なのだという事に気附いてください。そうして、話は次のように続きます。
ところで、歌や詩は、諸君に、何かしろと命じますか。私の気持ちが理解できたかと言っていますか。諸君は、歌に接して、何をするのでもない。何を理解するのでもない。その美しさを感ずるだけです。何の為に感ずるのか。何の為でもない。ただ美しいと感ずるのです。歌や詩は、解って了えば、それでお了いというものではないでしょう。歌や詩は、わからぬものなのか。そうです。わからぬものなのです。この事をよく考えてみてください。……歌は、意味のわかる言葉ではない。感じられる言葉の姿、形なのです。言葉には、意味もあるが、姿、形というものもある。ということをよく心に留めて下さい。
歌は溢れています。音楽との共鳴という形ではありますが、私たちは歌に囲まれて暮らしていると言ってもいいでしょう。しかし、感じられる姿、形を持った歌が、まさにそのように感じられていることはあるのでしょうか。
ひとは歌詞を聴いて、この歌詞の意味はどうだとか、実は裏にこんな意味が隠れているのだとか、そんなことばかりを話し、言葉の感じが美しく、心にどのような景色が見えたとは言いません。そもそも、そのような描かれ方をして生まれた歌詞がどれだけあるのか、というのも疑問です。
意味を伝えることばかりが重要視され、おしゃべりを喚起するために書かれているような歌詞が多いようにも感じます。
私達の感動というものは、自ら外に現れたり、叫びとなって現れたりします。そして、感動は消えて了うものです。だが、どんなに美しいものを見た時の感動も、そういうふうに自然に外に現れるのでは、美しくはないでしょう。……悲しみの歌を作る詩人は、自分の悲しみを、よく見定める人です。悲しいといってただ泣く人ではない。自分の悲しみに溺れず、負けず、これを見定め、これをはっきりと感じ、これを言葉の姿に整えて見せる人です。
ひとの感動は醜いものだ。ひとの叫びは美しく聞こえてはこないだろう。では、なぜその醜いものを表現した芸術は美しいのか。それは、芸術家の見る世界、聞く世界が、私たちのそれとはまるで違っているからなのかもしれない。その変換には、訓練と努力が必要なのでしょう。
芸術の伝統を壊したいなら、壊せばいい。壊したほうが美しいと思うならば、壊せばいい。しかし、自然に起こる感情を、ありのままの叫びの姿を、美しいと言って片付けてしまうのは、怠慢とは違うと言えますか。いや、言えなければいけない。芸術家とは、そういうものだと、私はこのエッセイを読んで思いました。
現代の虚無感のなかで、若い人はみんな、自然に帰りたがっているのではないか。難しいことはできるだけ避けたい。いつか死んでしまうのだから、いまを一番心地よい状態で過ごしていきたい。
そうなれば芸術だって、より享楽に沿ったものが良い。そういうものばかり求められているのも頷けることです。
しかし、ありのままで生きていけるのは、あなたがしあわせだからでしょう。そのような希望は、不幸のなかには起こり得ない。
自分さえしあわせならばそれでいいと言っているように、自分の醜い姿を、醜い裸を、晒して何が悪いか、ということではありません。
芸術は、そんなに単純な世界ではない。
美しさとは、見ようとするひとにしか見えないのです。
詩人は、自分の悲しみを、言葉で誇張して見せているのでもなければ、飾り立てて見せるものでもない。一輪の花に美しい姿があるように、放って置けば消えて了う、取るに足らぬ小さな自分の悲しみにも、これを粗末に扱わず、はっきり見定めれば、美しい姿のあることを知っている人です。悲しみの歌は、詩人が、心の眼で見た悲しみの姿なのです。これを読んで、感動する人は、まるで、自分の悲しみを歌って貰ったような気持ちになるでしょう。悲しい気持ちに誘われるでしょうが、もうその悲しみは、不断の生活のなかで悲しみ、心が乱れ、涙を流し、苦しい思いをする。その悲しみとは違うでしょう。悲しみの安らかな、静かな姿を感じるでしょう。そして、詩人は、どういう風に、悲しみに打ち勝つかを合点するでしょう。
どうしようもない悲しみが突然、私を襲うかもしれない。ある夜に音もなく忍び寄るその影に怯えるとき、私たちは歌を聴いて心を落ち着かせます。
詩人は、動き回るその悲しみに、ある美しい形を見出して、その形に固めてみせる技を持っているのです。悲しみを忘れ去るために踊るのではなく、悲しみ克服するために、じっと対象を見つめているのです。
現代の虚無感のなかで、叫びを抑えきれないあなたは、悲しみから逃げ出すのか、悲しみを捉えてしまうのか、どちらを望みますか。
私は、美の問題は、美とは何かという様な面倒な議論の問題ではなく、私たちめいめいの、小さな、はっきりとした美しさの経験が根本だ、と考えている…。美しいと思うことは、物の美しい姿を感じる事です。美を求める心とは、物の美しい姿を求める心です。
彼は、この美しい姿を感じる能力は、誰にでも備わっており、「美を求める心」は誰にでもあるのだと話します。
ただ、現代のように、知識や学問に重点を置く状態では、この能力がどれだけ貴重であるかということ、これを養い育てようとすれば衰弱してしまうということを知る人が、少なくなってしまう。
現代は物の性質を知りたがる、物の性質を知る道とは、物の姿を壊す行き方をする。そのために、例えば花の姿を感じる能力を、知らず識らずのうちに疎かにするようになるのだ。
彼は戦後に活躍した文士ですが、彼の言葉は現代の日本の姿を予見して、危惧していたのです。科学に支配され、唯物論に根ざした感性が、観念を迫害し、いよいよ「美を求める心」は萎えきっているのではないでしょうか。
一輪の花の美しさをよくよく感ずるという事は難しい事だ。
花をみて、綺麗だというのは簡単です。しかし、花の美しさに感じ入り、その感性を愛情によって心に留めておくことは難しい。
花を愛する者が、日常では隣人の弱さに苛立ち、愛を見失っているということは、よく見られると思うのです。
神経質で、物事にすぐ感じても、いらいらしている人がある。そんな人は、優しい心を持っていない場合が多いものです。そんな人は、美しい物の姿を感ずる心を持った人ではない。ただ、びくびくしているだけなのです。ですから、感ずるということも学ばなければならないものなのです。
いらいらしていることを、感性が豊かなだけだと言い逃れしていることがあるが、それは違っている。すぐに苛立つ感性は豊かなのではなく、怯えている何かに、過敏となっているに過ぎない。
物の姿を感じる心は、寛容な心と似ているのではないでしょうか。どんなに醜く、自分の利益を害するものがあったとしても、そこにある美しい姿を感じることができたならば、いらいらせず、すぐに許せるものなのです。泣いているひとの心を、優しく包み込めるものなのです。
そして、立派な芸術というものは、正しく、豊かに感ずることを、人々に何時も教えているものなのです。
個人の自由を叫ぶのも良い、性癖を晒すのも良い。ただ芸術の普遍的な価値とは、隣人との共感、隣人との共感への感動であり、それを美しい形として表現している芸術は素晴らしいものだと思います。
孤独のうちで泣いている、怯えた小さな心を、掬い取り、抱きしめてあげられる表現ほど、美しい姿を持った表現はないのだと、私は思うのです。
小林秀雄は批評家ですが、芸術の上に立って蹂躙してやろうとしているのではないのだと、彼の文章を読んだことのある方は理解できるかと思います。
私は、彼の文章を読んで感動してしまいます。それは、彼が見出した美を、彼の言葉が表現し、私の心のうちにありありと、その美しい姿を示して見せたからなのでしょう。
批評とは、物の姿を破壊し、分析して欠陥を探し出し、否定する、というものだと思われているかもしれませんが、彼の批評は、まるで詩人のように、感動の対象を描いてみせるのです。そこが彼の仕事の欠陥でもあり、また、ひとを惹きつけて止まない魅力なのかもしれません。
彼はこのエッセイによって、優しい表現で、誰の心にもある「美を求める心」を掬い出してくれました。
私は、「美を求める心」というものはつまり、「生きる力」だと言いたいのです。
どんなに暗い闇のなかからでも、どんなに深い悲しみのなかからでも、美を見つけ出し、表現してしまう力、これは決して、人生を楽観しているのではありません。人生に起こる悲しみも、悦びも、その姿を誠実に捉えることで、それに打ち勝つのです。
もしも、周囲の人間を軽蔑し、孤独に鬱ぎ込んで泣いているひとがいるならば、一度、このエッセイを読んでみてほしいのです。
そうして、様々な芸術を、ここに書かれていることを意識しながら感じてみると、勇気が湧いてくると思います。
あなたと同じような悲しみを、自分の身など顧みずに見つめ続け、固めてしまった勇敢な芸術家の姿が見えるようになってしまえば、彼らと対話してみたくなると思います。
何でも相談のできるような、信頼の置ける人間が見つからないと嘆いているのならば、過去に同じ苦しみを噛み尽した人間が沢山いるのだということを知ってください。そうすれば少しだけ、躰が軽くなるのではないでしょうか。