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倦怠の勿忘草

“汚れつちまつた悲しみは 倦怠のうちに死を夢む”

水鏡に咲く

 

 

四月九日、丁度日を跨いだ頃である。一頻り驟雨が降り、夜は霧に包まれていた。

 

霞んだ景色と潤む空気が目新しいので、私は好奇の心で外に出ていた。こういう日は、布団の中の方が却って寝苦しいものである。

 

造船に携わる人間や物資の運搬の為、戦後になってから市街と道路で繋がれた小さな島に、私の住居はある。今日のように彷徨い歩くのは決まって、街へと向かう直線的な道路の上であった。

 

作られた路は、馬鹿正直に真っ直ぐ伸びている。その先に見えるのは、製造途中の船を浮かべる海と、その周りに忙しく組み立てられた人工の埋め立て地であり、巨大な建造物とそれを覆う広大な自然との、奇形的調和が異様な空気を感じさせる風景である。背景には、反対側の島へ繋がる大きな橋が煌々とライトを浴び、さらに奥で微かな市街地の蛍光が揺れている。海に反映した無数の灯りは細く伸びて、波の揺らぎによって、その棒状の形態を幾許かに切り分けられていた。

 

道路脇に深い堀がある。堀はその両端を海と結んでおり、海が引く日は底の小石が観察できるが、満ちる日には手を伸ばして水面に触れられようかという域まで、潮を連れてくるのである。切れ切れに点滅を繰り返す街灯の下、ただ真っ黒な淵が、道路を挟んで二つの口を開けているようだ。黒い淵の存在をこの湿った暗闇の中で知らしめているのは、水面をさらさらと流れている桜の花びらであった。

 

桜が咲いているのだ。夜に、花をつけた桜を見ることは稀であろう。夜桜と呼んで見物に来る人間は、おそらく暗闇に咲く桜を知らない。彼らが見ているのは綺麗に照らされた桜なのだ。私は、野晒しに咲いた照らされない桜を見てやろうと意気込んだ。幽かなる桜の姿は、きっと身慄いを起こすほどに美しい。

 

堀に一定の間隔で架かった小さな橋のうち、最も眺めが良いと思われる橋を探した。桜も橋と同様に一定の間隔で咲いているのであるが、ひとつだけ、その間隔を乱すように蹂躙する、一際大きな桜の樹があった。私はそいつを手前に見、その背後に赤黄色の滲光を眺める一つの橋を選んで、その中間辺りの欄干に腕を臥せた。丁度梢の横に車道が線を曳き、また梢の頭上には、海と街との境界が曳かれていた。

 

桜は既に、満開の時期を過ぎてしまっていた。枝が寂しげに手放した白い花びらは、夜空に突き刺さる瑠璃色の光線を遮りながら落ちてゆく。最後は例の真黒い淵に張り付き、海へと運ばれる中途でどこからともなく、その白い躰は呑まれてしまうのであった。

 

霧雨の夜である。呼吸には水滴が含まれ、世界全体の光が微睡みに落ちている。躰が空っぽの夢想へと吸い込まれてゆくように感じられた。

 

向かい合う橋の欄干をぼんやりと眺める。濡れた円柱形の金属に、針のような光が直線を描き、そこへ落ちてきた花びらの、ひたりひたりと吸い付いてゆく様子がなんとも美しい。

 

息は深く沈んで、次第に音は遮られていった。

 

私は、時間を奪ってゆくその情景を記録に残したいと思い立ち、スマホのカメラを起動して、どこに焦点を当てるわけでもなく、漠然とそのシーンを撮っていた。

 

 

 

「…。」

 

 

 

「…っと。」

 

「…ねえ、あなた?」

 

ふと聞こえた声の方向に、咄嗟の反応で目を向ける。白いシャツに続いて、暗闇に光る薄い緋色の簪を認めた。そこには、黒髪を纏めた若い女性が立っていたのである。

 

カメラ越しにその場所を見ていた私は、彼女の存在にまったく気付いていなかった。

 

「断りもなく女性を撮るなんて非常識です。」

 

「…。」

 

「…何か言って?」

 

私は唖然としていた。彼女はいつからそこに居たのか、いったいどこから、どのようにしてやって来たのか、叩き起こされた直後のような頭で、それまでの記憶を無雑作に引き出して確認をしていたのである。しかしどうにも彼女は、突如として空から降って来たとしか他には考えようがなかった。

 

「…誰方でしょうか?」

 

「聞きたいのはこちらです。その光るモノ、下げてください。」

 

「ああ、すいません。もう、切りました。しかし私は、桜を撮っていたのです。失礼ながら貴女が居ることは知りませんでした。」

 

「ふふ、そうなの。でもねあなた、桜だって女性です。自由に撮ることが許されるだなんて考えは、少々勝手が過ぎます。」

 

そう言って外方を向いた彼女の頭から、数枚の花びらが落ちる。よく見れば、簪に纏められた頭に数枚の花びらが集められているではないか。髪の毛には無数の水滴が付き、着物はシットリと肌に張り付いている。透けた肌に血色はなく、磨り硝子のような白色が滲むばかりである。私は、硝子戸の朝露に濡れた純白のカーテンを思っていた。彼女から血の気配を感じられるは、桃色の花びらのような薄唇だけであった。

 

暫く彼女はそこに居たのだということが、私には明確に解った。けれども私には、その事実を不思議に感じる猶予もなく、直後自らの口から溢れた思いがけない言葉に気が動転していたのである。

 

「…綺麗です。簪が、素敵です。」

 

この台詞には私だけでなく、彼女も驚いてしまうことだろうと考え、私は努めて視線を避けていた。少し間を空けて、彼女は簪に手を当てようと動き始める。

 

「それは決まりきったことだわ。これは私の宝物ですもの。ひとつだけのお気に入りよ?」

 

話しながら、彼女は簪を抜き取ってしまう。確かにそれは「決まりきったこと」だった。振り解かれる黒髪は、予め決められていたような首の動きに合わせて舞い踊る。向かい合う橋と橋の間には、真黒に透き通った水鏡が隙間なく敷き詰められ、傍にあるアパートの個室の、個々の扉にひとつずつ付いた、提灯のような灯りを八つ写して、妖しく揺れている。そうして彼女が散らした花びらは、予め決められていたような動きで、そこへ舞い降りたのであった。

 

私は言葉を失っていた。その様子を見た彼女が小さく笑う。笑うと唇がいっそう薄くなる。そのまま私を誘うような言葉で続ける。

 

「まァ、そのように残念そうな顔をなさらなくたって、簪で髪を纏める所作には慣れています。スグに、元の通りに戻しますから。」

 

二の腕を晒しながら、揺れの静まらない黒髪を引き、華奢で柔らかな手先が嬌しい渦を作ったかと思った矢先には、そこに先端の跳ねた巻貝の形を再現して見せた。間髪を入れず簪を挿し込み、くるりと形を整えると、うなじを見せつけるように首を傾げ、私を見つめる。簪が垂らした二つの円い装飾は、僅かに紅潮して自慢気に揺れている。

 

「…貴女は、その巻き方を誰かに習ったのでしょうか。」

 

彼女は、少し眉を顰めると、正面に向き直して、

 

「いいえ、毎日繰り返すのです。初めは上手く付けられずに嫌になるものですけれど、曲げずにやるのです。自分の気に入る形が出来るようになるには、たくさんの時間が要るもの。本当に綺麗なものを付けたいなら、何度も、何度も、やり直すことですわ。明日はきっと良くなると、願うのではなくて、現実に見せ付けてやる。美しいものは皆、そうして完成しています。」

 

「…信じられません。その姿を見ていると、貴女は初めから美しかったのだと思いたくなります。」

 

「それは嘘。私、あなたのこと知っていました。いつもここを通りますでしょう?今日まであなたは、私に見向きもしなかったじゃないの。あなたはようやく、探し始めた。そして見つけたのです。」

 

彼女の声は、いよいよ私の耳に直接触れるような感覚を持ち、私は水月がキュッと縮む感覚に襲われ、反射的に動いた手で耳を覆っていた。

 

手に何物かの感触があった。しかし、私にはそれが何物の感触だか解らなかった。彼女は依然として、向かいの橋の上に佇んでいるのであった。

 

「ふふっ、あはははは、、。」

 

「…雨…?」

 

「…はあ、だけどもう、あなたは帰る…。」

 

彼女が笑うと途端に霧雨は沈黙し、雨垂れは頬を伝って流れるまでの大きさに成長していた。彼女が何か言い終えようとした時には、姿が霞んでしまうほどの篠突く雨が、暗闇の裡に見えない幕を降ろしていたのである。

 

私は怖しくなって、橋から逃げるように駆け出した。ふと気を留めて振り向くと、小さな人影は項垂れて、益々烈しくなるうねりの中へ連れられて行くように見えた。

 

それまで押し黙っていた溝の暗闇は、轟々と地を揺らす勢いで流れている。白い花びらを巻き込みながら蠢くその相貌は、鱗を光らせて天を這う一匹の龍のようであった。

 

住まいへ走る間、私はもはや桜の花の儚さを思い、寂しいとも悲しいとも言えなくなってしまったのだと思った。その姿は、ただ純粋に、美しいだけのものであった。