倦怠の勿忘草

“汚れつちまつた悲しみは 倦怠のうちに死を夢む”

虚無であるということ

 

 

虚無と聞いてなにを思いますか?

 

 

「ニヒルな笑い」なんて言うとなんだかかっこいいですね。「ひとはみんなニヒリストである」なんて考えた上で世界を観察すると、案外おもしろいとか聞いたことがあります。やってみると随分つまらない世界になりました。空想としてはおもしろいかもしれませんが、ただの冗談で済みそうになかったので止めました。

 

それはともあれ、いまほど「虚無」という言葉の比重が軽くなっていることがあったのでしょうか。

 

ちょっと痛い男子の抱く偶像みたいな扱いを受けているように思われるのです。そうでなくとも、世に溢れる知識人との対比として、単純に阿呆、教養がなく、夜中に街をふらついているような不審者という感じで、人々の嘲笑の的となりつつあるような空気が、確かにあるのだと思います。

 

それとは反対に、ひとが真面目にこの言葉を使うときには、そこに畏敬の念が込められているということを感じないでしょうか。

 

私は考えました。この違いはどこにあるのだろうか?

 

…いったい半端者の私が、どんな立場でそれほど深遠なテーマに挑んだのか…。

 

疑問は拭えませんが、取るに足らない愚か者の戯言だと思って聞いていただければ幸いです。

 

 

虚無。

 

 

それほど難しい言葉ではありませんね。「虚ろ」と「無」、似たようなイメージの言葉に「空」があります。中身がない、からっぽ、ゼロ、色は白や黒を思い浮かべるでしょうか。

 

調べてみましょう。「なにも存せず、むなしいこと。空虚。特に、価値のある本質的なものがないこと。」…やはり、「むなしい」「空虚」という言葉を使わざるを得ないようです。それほど、この言葉の意味が独自のイメージを持っているのだと思います。

 

さて、ニヒリズム虚無主義)と言うと、これは思想になります。この世界に存在するあらゆるものに価値や意味を認めないという思想です。過去、または現在において、人間が存在しているということに意義や目的、納得できるような真理、本質的な価値なんてないんだよ、という、なんだか絶望を感じさせるような考えのことで、聞いていると「じゃあ私たちは何の為に生きてるの?」という疑問を抱いてしまいそうです。というか、それ(虚無主義)しか信じられるものなんてない、といった感じですか。何か開き直っている印象もありますね。

 

 

さらに哲学の世界を見て行きましょう。

 

 

哲学の世界でこの価値観を確立したのは、フリードリヒ・ニーチェだと言われています。

 

ニーチェニヒリズムにもふたつの態度があると言うのです。

 

まずは、消極的ニヒリズムです。

 

ひとが何も信じられないような状況に絶望し、疲れきってしまったために、あえて自分の置かれた状況に抗わず、流れるままに生きるというような考えです。受動的ニヒリズム、弱さのニヒリズムとも言われています。

 

もうひとつは、積極的ニヒリズムです。

 

こちらは、消極的ニヒリズムを克服しようとするニヒリズムという意味で積極的なのです。全ては無価値、偽りばかりで、仮の形しかとらないものであると認めた上で、自らが生きていくその時々の場面に応じて、その無価値な抵抗を続けていこうという考えで、能動的ニヒリズム、強さのニヒリズムとも言われています。

 

と、ここまで来たのですが、私が初めに問題提起した内容がニーチェニヒリズムを調べることによって簡単に説明されてしまいましたね。

 

つまり、ひとの嘲笑の的となるようなニヒリズムは「消極的ニヒリズム」であり、ニーチェに言わせれば、まだまだ未熟だ、ということなのでしょう。

 

逆に、成熟したニヒリズム、畏敬の念を周囲に抱かせるようなそれの正体は「積極的ニヒリズム」だったのです。

 

どうやら、虚無という言葉を正確に掴むには、ニーチェの哲学を考えると良いみたいです。

 

というわけで、ニーチェ的なニヒリズムを考えていきます。

 

…えぇ、実は私、ここまで見切発車で来たのでした。

 

虚無についての単純な興味と疑問が私の中にあったのでこの記事を書き始めたのですが、まさかニーチェに行き着くとは…!

 

…感動しているのです。つまり、ニーチェ虚無主義に近いとは知っていましたが、私の疑問を解く鍵を彼が握っているなんて予想外だったのです。

 

こうやって知識ってのは広がっていくんだな!という実感に震えながら書いていきますので、些細なミスは見逃してください。

 

ニーチェニヒリズムについて書いていく過程で、彼のキリスト教批判にまで考えを及ぼす必要があるのですが、どうやら長くなりそうなので一度ここで切らせていただきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自意識

 

「自意識」という言葉があります。

 

自分という存在がある、という意識です。自我の存在を信じる意識のことを言います。

 

私はこの言葉を聞くと、「なんと自意識過剰な言葉だろう」と思うのです。自意識という言葉に意識を向けているとき、ひとは正に自分という存在をみつめているのでしょう。自意識について悩むということは、自分という存在の意味や価値、即ち「私はどうして生きるのか?」と問うているのだと思います。

 

私はこの文章を、自意識過剰な人間への妙な愛着さえ持ちながら書いているのです。決して非難したいのではないということを理解していただきたい。しかし、この厄介な意識の扱い方が未熟だと、人間はどうも浅はかな、卑屈な目しか持てないようだと、私は感じています。

 

自意識を持つということは、他人からの視線や評価を気にするということです。自分という存在は他人によって固められなければ掴めないのでしょう。鏡がなければ、誰も自分の顔を知らないのに似ています。しかしながら、鏡に映った自分が本当に自分なのか、そういった悩みはありふれていますが、皆、どこかで諦めるのでしょう。本当の自分など、どう足掻いても掴めるわけがない。そうやって、まるで他人事のように自我を捨て去るのです。それが成熟だとあなたはいいますか。しかしそれは単に自我の放棄です。自分の存在をあたかも存在しないものであるかのように扱い、それを他人にまで押し付けようとしているに違いない。あまり身勝手ではありませんか。彼らには、自我を持った人間など邪魔者でしかないのです。変な欲求を呼び起こす悪魔なのです。悪魔ならば殺してしまえ、いいやそれは悪魔なんかではなく、より人間らしい人間なのです。

 

自我は正しく観察されなければなりません。捨ててもよいわけなどなく、捨てたほうがよいと思えるのは、正しく自我を掴めていないだけなのです。ひとには自分の存在を表現する自由があって然るべきではないか。そして、自我の観察が他人に依存せずに行える方法といえば、自我を試しに潰してみるしかないように思える。潰して滲み出た中身の様相を、ただ誠実に描写せしめること。誰がやるのか?あなた自身に決まっている。潰された痛みは誰に来るのか?あなた自身に決まっている。それでも、それをしなければ、どうしても他人と比べることでしか、自分を掴めません。他人と比べる根性は、卑屈にならざるを得ないのです。他人と比べられた自我は、嫉妬します。自分がどこにもないのは、他人のせいだと思い込みます。自分があることを、必要以上にアピールします。そうして認められなければ、憎みます。自分の能力以上のことを、偽って他人に認められようとします。自らの仮象を作って、壊されたなら怒ります。都合に合わせて、あれは本当の自分ではないと言い出します。そして、本当の自分はもっと魅力的であると、そんな虚栄心からまた新たな仮象を作ります。

 

 

 

 

つまり、言いたいことはひとつです。卑屈にならないための自己表現をしなさい。何も偽らない自己表現をしなさい。それによって生じる苦しみは必ず自我を成長させると信じることです。苦しくないような表現などがあるならば、そこにはきっと偽りがあるのです。逃げ道を作ってはならないのです。逃げ道が、自我を逃します。そうしてあなたは、いつまでも自我を逃し続けているのです。

 

性善説と性悪説

 

よくある話です。

 

人の本性は悪であるか、善であるか。

 

この話題になると、私は性悪説の感覚に共感します。なぜなら、そちらのほうがひとの心に反省する姿勢を生むからです。悪いことをしたなら反省をして、善いほうに改めようとするのが人間の在るべき姿だと思います。

 

  • 善悪を決めたのは人間

 

この議論では、まず「人間の善悪を判定するのは人間である」ということを確認する必要があります。したがって、個人の都合や立場によって意見を分けるのは禁物なのです…とはりきってみたところで、これは議論の基本なので、当然、動かしてはいけません。

 

  • それぞれの説の確認

 

性悪と性善の議論がどのようなものであったのか、ここで再確認します。

 

順序でいうと、孟子性善説を説いたのが先になります。内容は次の通りです。

 

人は生まれつき、善を行うような性質を持っており、悪とはこの性質を隠したり、汚したりすることで生じるものである。

 

これに対し、荀子が反対する意見として説いたのが性悪説です。

 

人は生まれつき、自身の利益や欲望を追い求める性質を持ち、成長するうちに善行を学びとるものである。

 

議論の発端となる主張を確認しました。勘違いしてはいけないのは、性悪説が悪を肯定しているわけではないということです。「みんな本当は悪い奴なのだから、自分も少しくらい悪くたっていいじゃない。」というような主張ではありません。

 

 

…はい、少し遠回りをしてきたような気もしますが、これはあまりに人間の核心に迫る問題であり、言葉を使わずに考えを貫くことは難しいと思ったので、こうして歩いてきました。

 

ようやく出発地点です。

 

ここからは私の見解を話していこうと思います。

 

  • 人間には良心があるということ

 

いきなり罵声が聞こえてくるような気分です。

 

私の意見は性善説を支持します。ひとは生まれつき善くあろうとする生き物です。環境や教育の中で、悪さを学びます。

 

性悪説を主張しているひとは、何か外的要因の影響で善い心を見失っているだけなのです。

 

もしも、人間の本性が悪であるならば、なぜ人間は善くあろうと葛藤するのでしょうか。

 

いくら私が、葛藤の結果として自己嫌悪に陥り、「自分は悪いやつなのだ」と思い悩んだとしても、己の悪事を悔やむという行為は、善く生きようとする意欲によって起こるものであるために、これは性善を肯定する事柄だと言うことができます。

 

つまり、人間が悪事をはたらく際に、良心の呵責に苛まれるという事実が、性善の妥当性を証明しているのです。

 

  • 本性とは、「どうあるべきか」ではなく「どうであったのか」

 

本性という言葉について考えます。

 

私が初めに、性悪説に肩入れをしたのは、それによって人間の心に反省する姿勢が生まれるからだと言いました。

 

しかし、それは「人間がどうあるべきか?」という考え方であり、「人間の本性が悪である」という論の裏づけにはなりません。

 

本性とは「本来の性質」ということであり、そうすると、性悪か性善かの議論というのは、善と悪のどちらが先にあったのかということの判定に行き着くのです。

 

 

  • 感性と理性では、感性が先立つ

 

性善説は悪を後天的なもの、つまり環境や教育によって学びとるものだと考えます。

 

学びとるということは、それは理性によって捉えられているということです。

 

 

例えば、大量殺人のように、良心の呵責など感じさせない凶悪な犯罪が起こったとします。

 

殺人鬼は衝動的に犯行を起こしたのでしょうか。

 

彼が供述するには、「ひとを殺してみたかった。誰でもよかった。」ということです

 

この言葉、聞き飽きたとは思いませんか?

 

それは凶悪殺人犯ともあろう者が、似たような殺人事件の模倣をしているということを示しています。

 

では、この殺人事件を報道で知った一般人はどう感じるでしょうか。

 

おそらく、殺人犯の奇妙な供述と犯行の異様さに嫌悪感を覚えるでしょう。

 

つまり、思想的な暴走に滑車をかけるのは、また思想なのであり、それを抑えるのはある種の感受性、即ち良心だということなのです。

 

したがって悪とは、理性によって作り出された思想であり、感覚的なものではありません。

 

むしろ、感覚的なのは良心のほうです。このことが、「人間の本性は善であり、悪は後天的なものである」という性善説の考えを肯定しています。

 

 

 

 

私が性善説を支持する理由は以上です。

 

性悪説を主張する方は、「性善説が妥当なら世界はなぜ善くならないのか?」という疑問を抱いているのかもしれません。

 

性善説が「人間っていいな」的に解釈されていては、それも仕方のないことかもしれませんが、孟子が示したような性善とは、能天気な考えを肯定しているのではありません。人間が悪いようにみえるのは、世の中には善い心を様々な理由で隠したり、汚されたりしたひとがたくさんいるということなのです。

 

また、人間の乳児は命に対して残酷であるという反論もよくみられますが、それは本質的な議論になっていません。

 

前置きした通り、善悪とは客観性に依存する価値基準です。この議論は「人間の本性」を捉えようとするものであり、どちらがより強いかを求める議論ではありません。

 

乳児なら、人間の本性を観察するのに適しているとの考えかもしれませんが、乳児は理性も未発達なら、善い心を作る感性も同様だと思います。

 

そんな対象の行為に、発達した大人が善悪の判断をつけてしまうのは少々軽率だと思うのです。

 

 

 

最後に、孟子性善説を次のように説いています。

 

「人性の善なるは、猶ほ水の下きに就くがごときなり。人善ならざること有る無く、水下らざること有る無し。今夫れ水は、搏ちて之を躍せば、顙を過ごさしむべく、激して之を行れば、山に在らしむべし。是れ豈に水の性ならんや。其の勢則ち然るなり。人の不善を為さしむべきは、其の性も亦猶ほ是くのごときなり。」

 

「ひとの本性が善であることは、水が下に流れていくように自然なものである。水は下に流れるが、これを手で叩いて跳ねさせれば額にまで届き、せき止めてしまえば山を上らせることもできる。しかし、これは水の本性ではない。ひとが不善を行うことも同様で、それは外的な要因によって引き起こされるものなのである。」

 

私は、善は良心という感性によるもので、悪は思想のような理性によるものであると言いました。

 

孟子の言葉では、善が水の流れのような自然現象に喩えられています。

 

感性と理性、どちらがより自然かと考えれば、感性のほうだと私は思うのです。

 

 

 

あなたはどちらだと思いますか?

 

 

 

芸術、詩、表現。

 

要するに芸術とは、自然と人情とを、対抗的にではなく、魂の裡に感じ、対抗的にではなく感じられることは感興或ひは、感謝となるもので、而してそれが旺盛なれば遂に表現を作すといふ順序のものである。


然るに、事物を対抗的にではなく感受し得るためにはそれ相当の条件がある。(但し私の云ふその条件とは、金銭や環境、又は個性なぞと呼ばれてゐるものの裡にあるのではない。)

 

 扨、対抗的でなくなるためには人は先づ克己を持てばよい。尤も、克己なる語の用ゐられる多くの場合は個人精神の中のこととしてであるが、私の今云ふ意味は、誠実であるといふことをも含むでゐる。

 

抜粋: : 中原中也. “中原中也全集.” Public Domain, 2015-07-01. iBooks.

iBooks Store https://itun.es/jp/Iam18.l

 

中原中也による散文のうち「詩に関する話」冒頭から抜粋した一編です。

 

中原中也は抒情詩の表現を探求して創作を続けた詩人です。

 

抒情とは何でしょうか。

 

抒情とは「情を抒(叙)べる」という意味で、抒情詩は詩人の心中に起こった出来事、感情や人情を、何も飾ることなく描き出す詩の形態のことです。

 

彼は自身を取り巻く芸術を次のように批判しています。(引用ではなく、私が要約した文章です。以後、斜体で表すものとします。)

 

芸術の多くは、ある感情を起こした原因となる対象を観察し、描くための技術を試行錯誤しているのみであり、自らの感情そのものを表現としているものではない。

 

彼は感情が自然や対人によって起こり、その本質は胸の裡にあることを確信していました。そして芸術とはその胸の裡を表現することだと考えていたのです。

 

しかし、ただ胸の裡を明かすというだけの表現が案外難しいものなのでした。

 

あなたが花を見て「美しい」と表現したとします。この「美しい」という表現は、花の見た目を言い表しているのでしょうか。もしくは、花を見たことで胸の裡に何か動きがあった、そのことを形容すると「美しい」なのでしょうか。

 

後者であるならば、「美しい」という言葉が胸の裡にある感情を表現したということになります。

 

しかし、一般的に認識されている場合では「美しい」という表現はその対象、ここでは花に向けられています。

 

したがって、ひとが花を見て「美しい」と表現したとき、その表現は厳密に言うと抒情表現ではありません。胸に起こった感情が何よって動かされたかを言葉で説明したのみであり、これを叙事表現と言います。

 

こう説明されると抒情表現が不可能であるかのように思いますよね。

 

そこで中原中也は、自然や人情を対抗的に感じる…即ち、対象を外に置くのではなく、自らの魂の裡に置こうと話しています。そうして感じられたものは感興や感謝になり、それが盛んになればいよいよ表現となるだろうと言うのです。

 

そして、対象を胸の裡に置くことにはある条件が必要だと言います。そして、金銭や環境、個性だとか言われてるものとは関係がないものであると加えます。

 

…まず第一に、克己を持つことが大切であるが、それは己に打ち克つというような個人精神の話だけではなく、誠実であるという意味も含んだ克己である。

 

これだけでは少しわかりにくいですね。

 

続きを読んでいきます。

 

誠実たること――即ち愚痴つぽくないためには、敬虔なる感情を持し得るの必要、或は絶えず意識的なる自己葛藤が必要であらう。

 

何れにしても結構で、前者と後者とには各仕事がある。前者は詩の方面であり、後者は散文の方面である。

 

頻繁なる対人圏にあつて、各人が各人で朗らかであり得ぬ程度に比例して人々は互の「顔色を覗ふ」こと盛となる、即ち相対的となる、即ち創作的気心より遠ざかるわけである。

 

抜粋: : 中原中也. “中原中也全集.” Public Domain, 2015-07-01. iBooks.

iBooks Store: https://itun.es/jp/Iam18.l

 

 

 

 

誠実であること、即ち、生活が愚痴っぽくならないためには、敬虔なる感情、つまり、切実で偽りのない感情を持つことが必要であるのと、あるいは、常に自らを顧みることを意識して、自身の誠実さについて葛藤することが必要である。

 

どちらを行ってもよいのだが、前者と後者とにはそれぞれやり方がある。前者は詩の方面であり、後者は散文の方面である。

 

曰く、詩を書くことによって、「敬虔なる感情」…つまり、真に迫った嘘のない感情を持つことを探求し、散文を書くことによって、常に自らの考えを反省すること。そのどちらかを行えば、「誠実という意味を含んだ克己」を見出せるかもしれないと。

 

まだよく掴めないので、ここから少し、「誠実という意味を含んだ克己」という表現について考えていきましょう。

 

 「克己」とは「己に打ち克つ」ということです。では、己とは何か?と問われて、あなたは答えられるでしょうか?

 

「己とは自分自身のことである。」

 

その通りだと思います。このように答えられるひとはかなり多いでしょう。しかし、「自分自身のこと」って、どういうこと?と一歩踏み込めば、途端に難しい問題になります。

 

まあ、ここでは一旦、「自分自身のこと」という答えで進むのですが…。

 

はい、「克己」とは、「自分自身に打ち克つ」ということだ、という段階まで来ました。

 

これが「自分自身に勝つ」だと、まるで自分がふたりいるような感じになりますね。

 

「打ち克つ」…「克」という字は「下克上(下剋上)」という言葉に使われているように、「下から上に」「超えていく」という感じがあります。

 

つまり、「自分自身に打ち克つ」とは、過去の自分を超えて、いまの自分がより良い存在になる、ということだと思います。

 

中也が求めるのは、「誠実という意味を含んだ克己」です。つまり、自分を超えた自分は、過去の自分より誠実であらねばならないということではないでしょうか。

 

 

 

 

 

さて、抒情表現のためには、感動の対象を外的にではなく、自らの胸の裡に置くことが求められると知りました。

 

そして、詩を書くことによって、より切実な偽りのない感情を育み、散文を書くことによって、自らの考えや感性を常に反省し、過去の自分を超えた、より誠実さを持った自分になることが必要であるということ。

 

中原中也は生涯、意見を伝えることの無理を嘆きながらも、ひとに議論をふっかけ、そのたびに鼻で笑われ、相手にされていなかったといいます。彼の散文や詩も、彼の生きている間は充分に評価されていませんでした。

 

なぜ、相手にされなかったのでしょうか?

 

芸術が、それ自体として孤立し、その全体に確かな意味と価値を貫いているにも関わらず、充分な評価が為されない作品を、いつの時代にも生み出しているという事実には、芸術の本質的な矛盾が垣間見れる気がするのです。

 

芸術には形式があります。繰り返す歴史の中で洗練されてきた美の技法です。

 

「美しさ」を作り出すための一定の作法があることで、私たちは「美しいもの」とはどういうものかを学ぶことができます。

 

ところが、私たちが美を発見するということを突き詰めて考えると、経験や知識によってそれを判断しているのではなく、まさにそれは発見されるものであるということがわかるでしょう。

 

誰もが自分の美意識というものを持ち、自然の中から美を発見するのです。

 

芸術とは本来、発見された美を再表現しようとする動きであったはず。それなのに、美の技法が発達、集積したその山を眺めた私たちは、美とは人間が作り出したものであり、さもすれば、自分も美を支配し、作り出すことができるのだと勘違いしてしまうのです。

 

美の表現者は、美の発見による切実な感動を元に美を成立させようと試みているのです。誰も美を支配することなど目指していないのであり、いわば、表現者も鑑賞者も、美の前に立つという意味では同じ立ち位置にあるということを、特に鑑賞者は忘れがちなのだと言えるのではないでしょうか。

 

美の形式を評価することに拘泥し、美そのものを見つめようとする態度が失われていれば、そのうちで誰かが新たな美を発見したとしても、彼らにとってそれは前例のないもの、即ち美ではないと判断せざるを得ないのです。

 

真に美を見つめる者の叫びは、彼らが表現して形式となった対象を、後の鑑賞者が再評価するまでは聞き留められることがないという運命にあるのです。

 

中原中也は、これを嘆きました。どうにかして、誰かに認めて貰おうと必死だったのです。

 

彼の話を、彼が生きているうちに理解したひとがいました。批評家の小林秀雄です。彼の批評にも、美を見つめることの本来の意味を探求しようとする態度が貫かれています。

 

 

 

 

詩人とは、美を見つめることに没頭し、ただ誠実に美と向き合う姿勢を貫こうとする人種なのかもしれません。

 

彼らは美に対し、表現しようとするのではなく、それを見つめてはひたすら陶酔し、溜息を洩らすということを繰り返しているのだと思います。

 

芸術とは、それだけで充分なのだと表現しているのです。

 

最後に、日本の抒情詩人として有名な萩原朔太郎と、彼を詩人として尊敬し、自らも詩人として活躍した三好達治の言葉を紹介して、このいたずらに長いつぶやきを終わりにしたいと思います。

 

 

 

 

 

想像の詩人

 



君は誰を待つ

 

空を眺めて光る瞳は

 

泣いているようで

 

何も語らぬ口は

 

やさしく微笑むよう

 

背中を押す風は

 

何処へ吹くのか

 

君だけが知る

 

急かすような雲は

 

何処へ流れゆくか

 

君だけが知る

 

透き徹るひかり

 

透き徹る君

 

躰がふわり浮き

 

空と混じる君

 

染み渡る青は

 

海より深く

 

囁く旋律は

 

あの鐘の音より遠い

 

君は誰を待つ

 

 

月夜の幽香

 

 

私の存在はどうしてこうも悩ましい

 

みな同様に悩みを抱えているか

 

悩みを抱えながら

 

無理してもまだ笑うのか

 

 悩みを深刻に考え込むことが私の罪ですか

 

みなが顔を歪ませ笑うなら

苦しみに泣いていてはいけませんか

 

みなが置かれた場所で笑うなら

居場所を探して彷徨うのはいけませんか

 

 

その笑みは偽りではありませんか

 

 

私は偽りなく笑いたいのです

 

 

悩みを逃さず

 

苦しみを噛みしめた先に

 

何も疑うことのない君の

 

何も気にかけず無防備に笑う君の

 

曇りのない微笑みの真似をして笑いたいのです

 

 

例えば夜に

 

孤独な月を眺めている私は

 

欠けたる心の喪失感に押し潰されそうな私は

 

きっとその日を

 

待っているのです

 

私はこの心が丸く満ちた夜を迎えない限り

 

あっけらかんとして

 

全てを忘れて

 

何か私には関係のないような問題を

 

得意げに話すことなんてできません

 

 

しかし私も告白しましょう

 

私の胸の裡には

 

常に動き回って掴みようのない

 

苦しみを掻き回す虫が飛んでいます

 

月夜になると細やかな鳴き声を聴かせ

私の心を擽って寝つかせまいとする虫

 

川のせせらぎにのって踊るように光を放ち

私を闇夜へ誘う虫

 

 

虫の声を聴き

私は不安になるのです

 

虫の光を見て

私は不安になるのです

 

 

虫の声は竟に月は満ちぬと囁いている

虫の光は月の明かりを頼りなく再現している

 

 

毎夜

 

私はこの暗闇が恋しく

 

光の中では感じられない

 

不思議な匂いを嗅ぎ

 

考える間もなく

 

その甘美な気分へと誘い込まれているのです

 

 

虫の声に聴き入るとき

 

私は母親に頭を撫でてもらっているような

 

深い安らぎを感じるのです

 

虫の光をぼんやりと眺め

 

闇夜の香り

孤独の香り

 

微笑む少女の首元に

顔を埋めたときような

 

あの香りを吸い込み

 

私は苦しみを癒しているのです

 

 

 

ああ

私はもう死んでもいい

 

 

この香りのなかで死んでしまうこと

 

それが私のしあわせに違いない

 

それでも私を生かすのは

 

いったいどんな希望か

 

この香りを漂わせた君を

 

月を憐れみながら眺めている君を

 

私はもう愛してしまっている

 

 

 

 

シュールレアリズム

 

 

シュールレアリズムという芸術の思想形態のひとつを知ってますか。

 

「シュール」という言葉が有名ですね。笑いの一要素として確立されているようです。「シュール」の意味を調べると、「超現実主義、非日常的」と出ます。笑いの一要素としてはどちらかというと、「不条理、奇抜、難解」という意味のほうが強そうです。

 

では、芸術の思想形態としてシュールレアリズムとはどういったものなのでしょうか。

 

ここではあえて、絵を紹介するのは避けたいと思います。色々面倒だし、言葉だけで表現してみたい。

 

 

 

シュールレアリズムとは、簡単に言ってしまえば「無意味」です。しかし、無意味と言えば「ダダイズム」のほうに近くなります。シュールレアリズムの元をたどると、このダダイズムに至ると考えられています。言葉から意味を抜き去ってしまおうという文学運動のひとつで、なんだか僕がこのブログを始めた動機と似てますね。

 

ダダイズムの発展した背景には戦争があります。

 

当時、西洋哲学や西洋美術の立つ思想は人間の理性の価値を高く評価していました。人間が人間たる所以は理性である。理性は自然を支配し得る特別な力であると信じられていたのです。ところが理性の向かう先には争いがあった。破壊と殺人を肯定してしまうような人間の性を理性と呼ぶなんて莫迦らしい。本当に人間には理性というものがあったのか?そもそも理性って何だ?…というのがダダという思想の始まりのようです。

 

ダダは形式を否定します。それは理性の産物だからです。もう想像がつくと思いますが、作為的なもの、意識されたものでさえ否定することになります。全て理性によって成るものだからです。

 

じゃあどうやって表現するの?

 

無意識です。何も考えの無いどこかからか表現を捻り出すのです。実際ダダの詩人は、言葉を切り取ることで(バラバラにすることで)意味をなくし、それを無作為に並べるという手法をとっていたそうな。

 

つまり、作為的に成り立つ表現は、本来の表現ではない。偶発的に飛び出た”叫び”のようなものこそが、本当の表現である。と言ったところでしょうか。

 

僕の好きな詩人の中原中也も、この”叫び”にこだわった詩人です。彼は抒情表現を極めることで、本当の表現を目指しました。

 

…まあ、今はシュールレアリズムの話に戻ります。

 

シュールレアリズムとダダイズムの違いと言えば、その表現方法でしょうか。ダダイズムが言葉をバラバラにする行為ように、まず形式の破壊から始まるのに対し、シュールレアリズムは無意識の世界に自分が飛び込もうと試みるのです。

 

無意識の世界に飛び込む…飛び込むという動きは意識されているのでしょうか…。屁理屈は置いときましょう。

 

さて、無意識の世界とは何処にあるのか。それはかの有名なフロイト先生が発見した世界です。

 

少しフロイト先生の話をします。

 

フロイト精神分析学の先生です。精神科医として働きながら、その優れた観察眼によって患者を分析し、精神医療や臨床心理学の基盤を作り上げた偉いひと。前述した通り、17世紀頃まで西洋では人間は人間の理性や意識をコントロール出来ると考えられていました。しかし、そんな中でフロイト先生は、こんな意見を世間に突きつけたのです。

 

「人間の意識や理性は、それらがそれら自身によってコントロールされているのではなく、それらを超えたもの、つまり無意識によって支配されているのである。」

 

衝撃です。みんな人間が自らの理性をコントロールすることで世界を変化させていると信じ、その上に哲学やあらゆる思想を組み立ててきました。それがひとりの精神科医によってひっくり返されたのです。

 

もちろん、すべての事についてフロイトの意見が通るとは限りませんが、無意識の世界の発見は様々な芸術、哲学分野に影響を与えました。現代の哲学の根底に無意識の考え方が色濃く存在しているのは間違いありません。

 

無意識の世界がどんなものか、なんとなく掴めたでしょうか。興味のある方はフロイトの本を読むともっと深く知ることができます。

 

さて、シュールレアリズムの表現方法として、この無意識の世界に飛び込まなければいけません。と、簡単に言いますが、理性や意識を支配している無意識の世界に身を投げることなど本当に可能なのでしょうか。

 

これについては、シュールレアリズムの代表的な画家、セルバドール・ダリの話が有名です。

 

彼は夢の世界を記録することで、無意識の世界を表現しようとしました。

 

まず椅子に座って、スプーンを持ちます。床には板をはり、スプーンが落ちると大きな音を響かせるという仕組みです。あとは椅子に座ったままウトウトするだけ。落ちたスプーンの音で飛び起きたダリは、夢の世界を書き留めたのです。

 

おもしろいですね。彼はその作品の奇抜さに、もしやドラッグを使っているのではないかと疑いを持たれ、このように否定したらしいです。

 

「私はドラッグなど使っていない。なんせ私自身がドラッグだからな。」

 

 

 

 

シュールレアリズム、「超現実主義」などと訳されると話しましたが、僕は、それらが自らを「超”現実主義”」と名乗るところがおもしろいと思います。

 

現実主義、リアリズムと聞くと、冷淡な印象があります。目に見えるものしか信じない、政治家のような考え方です。

 

僕は現実主義が苦手です。なぜなら、それは最強だからです。どんな理想も許さない、弱肉強食の思想。けれどもその思想を実践しようとするならば、ひとは孤独にならざるを得ません。大半の人が弱さを持っているので、現実主義を身に付けた最強のひとが他人と関係を持つには、弱さを許さなければならないのです。弱さを許すのは現実主義的ではありません。他人に自分の思想を押し付けるのは傲慢ですが、他人を弱いと見下しながら関係を持つのは欺瞞です。

 

即ち、現実主義を身に付けようとする者は孤独を覚悟するはずです。でないとすれば、皆が最強になれると信じているということになります。「皆が最強になれる」なんて夢は、理想にしてもあまりに飛躍した理想です。つまり、現実主義とは、呆れるほどに理想主義的な考えだと言えないでしょうか。

 

そこに皮肉を含めてシュールレアリズムが現れたのだと思います。

 

「現実主義なんて古い考えは捨てよ、我々は”超現実主義者”だっ!」

 

みたいな。

 

私、ほたるは先日、こんなつぶやきをしました。

 

https://twitter.com/glowfly_nogi/status/765231903951642625

 

『芸術家が叫びの対象を捉えようと探求し、竟に「彼は幻想を見ている」と評されたとする。彼は表現を偽ったのだろうか?いや彼は、彼自身の目に見える叫びの対象を表現しようと、ただ誠実に対象と向かい合ったに違いない。』

 

シュールレアリズムと聞けば、「あんな非現実的な表現をおもしろがる感性は下品だ」とどこからともなく聞こえてきそうです。

 

下品なはずがありません。シュールレアリズムは理性的な人間にこう主張しているのだと思います。

 

「無意識の世界にこそ、真の表現がある」

 

「理性をコントロール出来ていると傲る人間は、無意識の世界に目を向けなければならない。自分を支配している何かを全く知らないままで、意識を野放しにしているのは、飼い犬の首輪が少しずつ劣化し、終いには箍が外れて暴れ出してしまうかもしれないという危険を、知らずに冒しているようなものなのだ。」

 

僕の周りにいる大人は、立ち止まって芸術を鑑賞しようとはしません。忙し過ぎるために、表づらだけを見て、新しい物はどこから拾ってきたのか、あらかじめ用意された経験と知識で否定しようとします。

 

これは大人が反省を忘れているということの証ではないでしょうか。

 

死ぬまでのプランに見通しがつけばそれで満足ですか。社会の歯車に混じって動いていれば、無意識のうちにひとを差別したり、嫉妬したり、憎んだりしても許されるのですか。

 

全部理性によって隠すことが出来れば偉いのですか。

 

平和や幸せを本当に望むのならば、無意識から変革を起こし、嫉妬心や傲慢な心を失くすべきではないのですか。

 

正義だ愛だと論じている人間の本性が醜くては、どんな言葉も虚しいアピールに過ぎません。

 

無意識とは大抵、醜いものです。人間は無意識に支配されていると聞けば、信じたくないと思うのが自然でしょう。しかし、自らの醜さを放っておくよりも、腰を据えて観察することで少しでも改めるほうが良いと思います。

 

シュールレアリズムは斬新で、見た目におもしろいだけではなく、このように確りとした表現の意味があるのだと思います。

 

芸術をただ鑑賞するだけでなく、表現の内容をじっと見つめてみるのもおもしろいかもしれません。