倦怠の勿忘草

“汚れつちまつた悲しみは 倦怠のうちに死を夢む”

とケル。

 四、「山羊のツノ」

 

沈黙の中を、二つの影は進む。道に散らばる葉や土をざりざりと踏みしめながら、私は代わり映えのしない風景に飽きていた。とすれば足下から茶色いバッタは横へ跳ねて、先には不気味に漂うようなけもの道が続いている。突然、そこから何かが駆け寄ってくる。沈黙はやがてバラバラに壊れてしまう。

 

先生が拍子抜けに「おや?」と声を上げた。


「店灯りが、消えています…。」

先生の目線の向かった先を窺うと、この山中に目立って大きな一軒家が佇んでいた。すぐ隣に歩いてくるまで、その存在に気付かなかったことを不思議に思うくらいの立派な家屋だ。それほどに辺りは暗く、木々が歩道に飛び出すようにして視界を遮っていた。玄関口の戸に掛けられた「まあだだよ」との札が、バチバチと音を立てる青白い電灯に照らされていた。

奈緒さんは、少しここで待っていてください。」

 

ーはい。

 

「中に入って挨拶してきます。今日はもう店じまいしてしまったのかもしれないです。」

 

ーはい。

そう言って先生は引き戸を開け、薄暗い闇の中に消えていった。私は笑っていた。こんなに清々しい気持ちで笑ったのは久しぶりだ。声は出ていない。ただ肩が揺すれるような、胸の奥が沸き立つような、もくもくと込み上げる可笑しさに涙が溢れ出そうなくらいだった。お蕎麦、食べられないのだろうか。

 

ポツリ残されたこの躰、やりきれない。先生は少しいいかげんだ。私は息を吐いて大きな木目の覗くベンチに座った。足が痛いな。サンダルはえいっと蹴っ飛ばしてしまう。コートは寒くて手離せない。脚を折りたたんで、両腕でそれを抱いて、目の前の竹林を眺めてみた。猫がどこかで鳴いている。鈴虫の声は喧しく耳に残る。吹きつける風がきもちいい。

奈緒さん、口が開いてます。

自分で放り出すように言ってみたら、またくすくすと笑いがこみ上げてきた。可笑しい。先生って真面目なんだけど、やっぱりどこか間抜けな所もある。今度は顔がくっきり思い出せた。先生のあの目が好きだ。あの窪みに吸い込まれてしまったら、私はどうなっちゃうのだろう。そんなことは、今はどうでもいいような気もする。ふと、私も猫の真似っこして「にゃあにゃあ」と鳴いてみたいなと思った。鳴いてみないといけないような気さえするんだ。

すぅと息を吸い込んだ時、ふいに目の前の竹林がガサガサっと揺れた。密集した青白い竹の皮、何もいないように見える。けど、何かいる。

 

私は吐く息を忘れていた。

青黒い空白の隙間から、白く大きな物体がのそりと現れる様子を少しも見逃さなかった。胸の鼓動が指先まで伝わる。にゃあと鳴くかわりに「先生」と声が出た。

ー先生!…えっと、山羊がいます!

先生は何も答えてくれない。胴体を蛇のように揺らしながら、山羊はゆっくりと歩み寄ってくる。目が合ってしまっている。もう逸らしてはいけないような気がした。

 

ー先生!助けてください!

 

鈴虫の声が怯えたように、小さく、遠くに聴こえる。禍々しく伸びた山羊の角が、私と近づくにつれてしゅるしゅると成長しているように見えた。私はブワッと泣き出したくなった。イヤだ。怖い。怖いよぉ。先生、どうかこの泣きべそかいて縮こまっている私を見つけて、笑ってやってください。ここにいる子どもを宥めてください。

 

山羊は触れそうな距離に来た。目が爬虫類の目玉のように、青白く反射して光っている。何か咀嚼するように動く顎の隙間から、ぬめらんとした舌が赤々と這った。生きている。ホンモノの山羊だ。

 

私は死んだように固まっていた。

 

 

「山羊のツノ」