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倦怠の勿忘草

“汚れつちまつた悲しみは 倦怠のうちに死を夢む”

虚無であるということ:2 「アンチクリスト」

 

 

虚無とは何か。

 

人間が虚無であるというのはどういうことなのか。

 

ニーチェの話す、「消極的ニヒリズム」を克服するための「積極的ニヒリズム」、この逆説を孕んだニヒリズムは、はたして本当にニヒリズムと言えるのだろうか。

 

消極的ニヒリズムとは、世の中の決まりや人生の手順、そういった運命的なもの、個人の自由意志を阻害するものを厭う気分によって、形式や束縛からの解放を望む思想である。

 

どうにもならない事柄に対し、理想という高台に立って、現実という汚らしい欺瞞に溢れた世界とは関係を切りたいと願っている。なぜ、人間は運命に振り回されなければならないのか。そういう疑問から逃れようのない者が抱く思想なのだろう。いわゆる、「俗世から離れて自由に生きる」という考えだ。

 

キリスト教では、観念的に死を肯定した。善き生をおくった者の死の先には、安楽が与えられると説き、この消極的ニヒリズムに捕らわれた民衆に救いの手を差し出したのだ。現実と人間は汚れているが、それでも隣人を愛し、情けをかけて罪を赦し、自身の罪も償うことで、死後、神によって天へと導かれるというのだ。

 

では、キリスト教のいう罪とは何か。

 

原罪、アダムとイブが神との約束を破り、悪魔に唆されて、「知恵の実」を食べてしまったことで、人間は原罪を背負うことになった。知恵とは、物事の善悪を判断しようとする心の働きである。人間が善と悪を判別しようとしたこと、目を開いて善悪を見てしまったこと、それが罪だというのだ。

 

確かに、善悪を捉えてしまったことが原因で人間は思い悩み、答えのない葛藤に苦しむのであろう。世間が悪に見えてきたとき、ひとは虚無感を抱く。虚無は苦しみを生む。この苦しみを救うものは何か。それは神が決めた善悪、つまり道徳観念だ。世間から退けられた弱者は、世間に敷かれた価値観を、神に示された道徳観念により否定し、死後の世界で強者は悪として裁きを受け、自分は善として救われる。そうした感情がキリスト教の信者のうちにはあるのだ。このような嫉妬心に支配された信仰を、ニーチェは、「ルサンチマン」と呼んで批判したのである。

 

ニーチェ著作「悲劇の誕生」でこう語っている。

 

 

キリスト教の教えは、ひたすら道徳的であり、道徳的であることを欲している。それは、その絶対の尺度をふりまわして、たとえば神は絶対にうそをつかないというだけですでに、芸術を、どの芸術もすべて、虚偽の世界へ追放してしまう、ーつまり、否定し、弾劾し、断罪するのである。

 

キリスト教は始めから、本質的に、また根本的に、生が生に対しておぼえる嘔吐であり倦怠であった。この嘔吐・倦怠が、「もうひとつの」生、あるいは「よりよい」生の信仰のもとに仮装し、正体をかくし、化粧していたにすぎないのである。「現世」に対する憎悪、情念に対する呪い、美と感性に対する恐怖、此岸を一層上手に誹謗するために考えだされた彼岸、つきつめたところ、虚無へ、終末へ、寂滅へ、「安息日のなかの安息日」へ行きつこうという望みーこれらすべては、道徳的な価値だけを妥当させようとするキリスト教の絶対的な意志と同様、私にはいつも、「没落への意志」のありとあらゆる形式のうちでも、一番危険な、一番不気味な形式のように思われた。すくなくとも、生に対する最も深い疾患・疲労・不満・消耗・貧困化の兆候と思われたのである。

 

ニーチェにとって、「生」とは自らの意志と自由によって世界を切り拓くことであり、「知恵の実」を食べたことを罪として、神の呈示した善悪、道徳観念を絶対の価値として信者に押しつけたキリスト教の教えは、理想を描くことで新たな世界を創ろうとする芸術のすべてを虚偽として、否定、弾劾、断罪する教えであったのだ。

 

自らの意志と自由によって世界を切り拓く「生」の力は、隣にある同様な「生」と摩擦を起こす。つまり、隣り合う「生」に対する摩擦、即ち「嘔吐・倦怠」を飾りつけ、「よりよい」生、「もうひとつの」生として、信仰の形をとっているのがキリスト教だと言う。

 

よりよい生を生きているように見せてはいるが、結局それは、現世におけるより強い生を否定し、断罪するための「消極的ニヒリズム」の裏返しに過ぎない。

 

はたしてこれは、キリスト教の教えを否定しきるほどの論理的根拠を示すまでには至っていないが、自分の知性によって善悪を見極めようともせずに、神から呈示された道徳が偶々、弱者にとって都合が良かったというだけで正義の仮面を被り、強者を断罪しようとする信者の精神を、烈しく批判するものである。

 

さて、弱者に都合の良い道徳を説く神とは何者であったのか。無神論者ならば、すぐに合点がいくだろう。神を想像したのは、他でもなく人間である。

 

アダムとイブが知恵の実を食べた後、神は人間を罪から解放する救世主の出現を預言する。

 

弟子の裏切りや民衆の愚かさを嘆きながら、誰を責めることもせず、ただ祈りを捧げていたイエスが十字架に磔にされたとき、人々は彼こそが「イエス・キリスト」であると祀り上げたのだ。

 

イエス・キリストは人間の罪を背負って死に至り、3日後には復活して様々な教えを説いた。」そんなフィクションが、彼を死に至らしめた当の人間の都合によって描かれているのが「新約聖書」であるとニーチェは言う。

 

イエス自身は、自らの知性で素晴らしい思想を築いた賢人である。それはまるで、神が人間の姿を纏い、地上に降り立ったような光景であったのかもしれない。それならば、彼が死んだときに「神は死んだ」のである。復活などしていない。キリスト教信者は目を開けるべきだ。自ら世界を切り拓く以外に、人が幸福を手にする方法はないのである。

 

こうして真実を知ろうとすれば、悪魔に取り憑かれていると言って制裁を加えようとする。もはや、何が善で、何が悪であるかなど関係はなく、邪教であるか正教であるか、それだけが問題になってしまった。この考えが、現代も多くの争いを生み出しているということは、疑いようのないことに思われる。

 

 

 

 

 

…はい、ニーチェキリスト教を批判していた理屈が少しでも伝わったでしょうか?

 

突然、文語調に変わったので読みにくかったかもしれないですね。それだけ私が慎重に書いたのだと理解していただければ幸いです。

 

「消極的ニヒリズム」として、キリスト教が批判されているというところまではなんとか行き着いたと思います。

 

では、ニーチェが求める「積極的ニヒリズム」とはどういうものなのか。

 

それはまた次の記事で書いていきたいと思っています。

 

この記事の内容はともかく、聖書に書かれている言葉はとても深みのあるものばかりなので、読んだことのない方は、一度読んでみるとおもしろいかと思います。

 

ニーチェが言いたいことはいつも、誰かの言葉を真に受けるのではなく、自分の知性と感性を働かせて考えろ、ということなのです。