倦怠の勿忘草

“汚れつちまつた悲しみは 倦怠のうちに死を夢む”

老醜

 

 

大学生は夏休みが長い。

 

夏休みといってもやることを探すと色々あるもので、せっかくこの若い時期の長い余暇があるのだからあれもこれもとやっていると、「日も短いものだなあ」なんて思ったりします。

 

夏休みなので実家の長崎に帰省しました。やはりあの街の景観は綺麗だと思う。いまでこそ九州の端にある寂しげな田舎ですが、江戸幕府鎖国していた頃には日本唯一の玄関口として様々な文化を取り入れていたので、街を歩いていると立派な洋館や中華風の寺院が突然現れたりして楽しいものです。

 

キリシタンが隠れて信仰を続けた教会では、迫害されながらも信仰心を枯らさなかった人々の思いが、ステンドグラスを通して、土の床に鮮やかな影を揺らしています。そこに立てば私の心にも、彩りに溢れた祈りが映されているような気分になるのです。

 

平和公園の鐘が鳴ると、この街に流れてきた様々な暮らしのなかで捧げられてきた祈祷の念が、時間や空間、思いや境遇の違いを超えて街に響いているようです。

 

長崎の夜景は綺麗だと言われていますが、それは単に光の量が多いからではないと思います。港と大きな造船所、島と島を繋いでいる橋の下を大小様々な船が通ります。橋の上には自動車が絶えることなく走り、たくさんの光の筋を水面に描いています。街並みは四方を山に囲まれており、山の頂上まで、民家や歴史的建造物が並んでいます。そんな多様な風景が、一斉に光を放つのです。

 

稲佐山から見た夜景はとても綺麗です。私はそこから街を眺めながら、ふとこんな事を思いました。

 

美しい景色をみていると、自分の醜さを思わずにいられないですよね。さて、この風景を作った人間は、この風景に住む人々は、美しいのでしょうか。必ずしもそうだとは言えないのではないか。人間の美しさとはいったい何物によって表現されるのだろう。

 

アイドルが好きだと言うと、可愛い女の子が好きなんだと思われます。確かに、可愛い女の子は好きです。しかしもっと言えば、「美しいひと」をみてみたいのです。「美しいひとだ」と感じるとき、その言葉が形容するところは容姿のことだけだとは限りません。

 

例えばケーキ屋さんで、スーツを着た背中を曲げながら嬉しそうにケーキを選んでいるひとは美しいひとだと思います。

 

きちんと制服を着て、洋服屋さんでワンピースを羨ましそうに眺めている女の子は美しいです。

 

公園のベンチで新品のように整った文庫本を読んでいるひとがいました。誰かの姿を見つけたのか、隠すように本を鞄に入れて駈け出します。先には誰がいたのでしょうか?私はきっと美しいひとなのだと思いました。

 

どれだけ容姿が優れていても、ひとを蔑んでいるひとは美しくありません。自分のことしか考えずに、他人を攻撃しているひとは美しくありません。思い遣りを素直に受け取れず、顔を歪めるひとの顔は醜いものです。

 

老醜という言葉があります。ひとが歳をとれば見た目も身体能力も衰えてきます。愛するひとを亡くして、寂しさが募ります。眼前に現れた孤独と、どうやって付き合えばいいのかわからなくなります。いろんなことが思い通りに動かせず、思い通りにしてくれない周りの人を恨みます。死んだほうがマシだと思っても、いざ死を前にすると、その虚無感に打ち拉がれて、卑屈になってしまいます。力を失ったとき、人間の美しさはどこに表れるのでしょうか。

 

ひとを思う心、物を感じる心がなければ、死を歓迎できないのだと思います。あなたが時間を費やしている事は、死と並べてみると腐ってしまうものではありませんか?死の恐怖を紛らわすための慰めに時間を費やしても、それは死を避けているだけではありませんか?死を感じる機会が圧倒的に少ないこの国に生まれ、平和や愛を説いていても、日常に死の影が付き纏っている人々の生活など想像もつかないでしょう。私たちと、ニュースで当たり前のように死を撮影されている彼らに、どんな差があると言うのでしょうか?私たちだって、常に死の影を背負って生きているのです。自爆テロを繰り返す人々を笑うだけの余裕は、どこから来ているのでしょう?今、爆弾が落ちてきたならば、あなたは平静を保っていられるでしょうか?死を前にした老人のように、醜態を晒すことはないと言えますか?

 

長崎の夜景を眺めながら、そこに潜在する死の空気と、原子爆弾によって灰にされてしまった万物の祈りがあるのを感じました。ふたつは同じ平和の音色を奏でているはずなのに、不快な不協和音を響かせているようです。

 

 

 

私はいま、美しいのでしょうか?