倦怠の勿忘草

“汚れつちまつた悲しみは 倦怠のうちに死を夢む”

写実の世界

 

 

私は絵を見るのが好きです。しかし、絵に感動して、いったい誰が描いたのだろうという興味から、その作者名を一瞬は憶えても、それが二日ともったことはないと思います。

 

絵を見た記憶はずっと残るのですが、そのときの感動と作者名は、日を追うごとに霞んでいくのです。あの感じはどうして消えてしまうのでしょうか。いつでもあのような感動が再生できたらば、人生も彩りを持ち始めるのでしょうが、そう上手くいかないからこそ、芸術の消費というのは虚しいのですね。

 

先日、ふと考えたのですが、ひとは絵を見てどのように感動するのでしょう?絵が語りかけてくるのか、絵の広げた世界に誘い込まれるのか、それとも単に絵が美しいからなのか。私は絵画に関する評論などはほとんど読んだことがありませんので、これはとても不思議な問題なのです。幻想的な絵が好きなひとの感動と、写実的な絵が好きなひとの感動は、どう違うのでしょうか?絵を描くひとは、どのようにモノを描けばよいのかよく知っているでしょう。では、画家はいったい何を描いているのでしょうか?小説家が文体を持つように、画家にも何かを描き出す技術があって、その技術を振るっていく中で、副次的なものとして世界が構成されていくのか、それとも、何かの美を確信して、そいつを描いてやろうと試行錯誤しているのか。どちらか一方であると言い切れる画家は少ないのかもしれない。けれど、芸術家を名乗る者ならば、そのくらい確固たる信念があっても良さそうだと思うのです。いや、無いと言うならば、彼はどうやって作品の世界観を定めているのか、私には判らなくなってしまう。そのように、基軸を失ってしまった作品、もしくは、基軸を敢て隠してしまった作品の前で、私は退屈してしまうのです。作品の奥に人間がいない。技術や理論で覆われていて、そこに生身の人間の温度が感じられない。それではいけないと思うのです。

 

ひとは頻繁に、「観」という字を使いたがります。「世界観」や「価値観」というように、なんだか哲学的な意味を含んでいそうな字ですが、素直にそれを受け取れば、「観」という字が示す事柄は、即ち「みること」であるとわかるでしょう。世界観というとき、私たちは世界を「観」ているのです。価値観と言えば、価値を「観」ているということになります。日本人はだれしも、「観音様」と聞いたことがあるでしょうが、正しくは、「観世音菩薩」と言い、歴史を辿ってゆけば、梵語の「アヴァローキテーシュヴァラ  ava(遍く)、lokita(見る)、īśvara(自在者)」という言葉にまで遡ることができます。西遊記で有名な三蔵法師はこれを「観自在菩薩」と訳しており、ここまで話せば、意味は解説せずとも理解できるでしょう。「自在」という言葉も仏教から生まれた言葉であり、心を煩悩から解放することで、何事も思うがままになしうる能力の事を言っております。つまりは、「観」という言葉は単に、そこにモノがあるというふうにみるだけでなく、ここに居ながら、世界を広く見渡すように、思うがままにみるということも含んでいるのだとわかります。

 

さて、「観」という字を知るために仏教に触れましたが、私は芸術の話がしたいのでした。芸術家と一口に言っても様々です。しかし、その根底ではみな観ているのではないでしょうか。芸術は先ず観ないことには始まらないのだと思うのです。私たちは芸術を観て、リアリズムがどうとか表現がどうとか言っていますが、感動の底には一様に、何かを観たという行為の経験が端然として横たわっているのです。書く、読む、聞く、見るというようにそれぞれに表現に至る技法を持っているものの、それら全て、物性の観察という行為を省略して存在することはできないのだと思います。

 

そこではじめに戻ります。芸術家として、最も純粋に観るという事を表現に昇華しているのは画家でありましょう。どれだけ有名な画家も、たとえ新進気鋭と呼び声の高い画家であっても、「絵を描く」という行為の動機は、眼前に現れた美の再構築であるのだと思います。そこに机がある。その上に林檎や空き瓶などの静物が置かれている。手前に自分があり、それを見ている。その見たままの心象を自らの手によってキャンバスに再現してみたい。そうやって試しに描いてみると、どうやら自分の見ていた景色は、必ずしも現実世界そのものではないと合点する。自分では見たままの物の姿を描き表したつもりだが、どうしたってそれは平面であるし、光を描き込めてはいない。そこで画家は対象を観ようとするのである。なるほど、光はこのように射し込んでいるか、光の表現は、絵に奥行きをもたらすか。そこに技法が生まれてくるのでしょう。つまり画家という人間は、見るという行為について尋常ではない創意工夫を凝らしてあるのであって、彼らの視力は一般に言うところの理論でもあり、思想でもありうるのです。さらに画家としては、絵を描くことなしに、この特殊に思えるような観法は語れないのでありますから、画家の美意識は即ち観ることであり、観ることは即ち美の創作でもあると言えるのでしょう。どうやら私たちは、「観」という言葉の扱い方に関して、画家の経験則の前に立ってみると、反省を迫られるようです。

 

絵画の世界では「写実」という言葉があります。観ること即ち美の創作であると言うべき画家の仲間内で、写実派だロマン派だと言い合うというのは奇妙な出来事であって、現実の姿というものを捉えようとする姿勢は貫道されていて当然である気がするのですが、とにかく、「写実」という言葉がまるで芸術における思想の一形態であるかのように語られているのです。ピカソの素描の腕を疑う者はありませんでしょう。しかし彼はひとつの平面であるキャンバスに多角的な視点を描こうとした。それは「キュビスム」と呼ばれ、現代では彼の起こした革新として知られていますが、彼が洗練された写実を打ち捨て、あの一見すると歪に見える絵を描かざるを得なかったのは、紛れもなく「写真」が登場したことの影響を受けているからなのでしょう。見たままを容易に写してしまう写真の力によって、画家が現実を写そうと試みるのは、絵を鑑賞して楽しむ者からみれば虚しい抗戦と映るようになってしまったのです。そうすると、これから芸術の世界に入り込んでいきたいと願う者は、入り組んだ表現技法の藪の中を彷徨う羽目になってしまう。私はシュールレアリズムをこのブログで取り上げましたが、その結論は、シュールレアリズムを超現実主義と訳して、彼らは決して幻想を適当に切り取って表現しているのではなく、真の表現は無意識の世界にあるものだという、ある特異な哲学の土台の上に立ち、あくまで、その異質な世界観を現実として写したものだという内容でありました。現代はこれまでに類をみない程に人間の知覚への不信感が高まっているのです。その不信感に至るまでの歴史を語れば、ひとつの物語では足りないのでありましょう。しかし、私含め若い世代は、初めから美術の教科書に溶けた時計が載っておりました。一度も知覚を信用した試しもない者が、いきなりこの不信感に曝されてしまえば、芸術とは個人の身勝手な欲望を奔放に晒しても許される世界であるのだという錯乱を起こしてしまうのも当然かもしれません。私たち若者の感覚では、観ることの重要性などという理屈は、表現の多様性の土壌に埋もれてしまっているのです。そんな空気の中で行き着くところは、何の分別もつけないと腹を決めてしまった破壊思想か、芸術なんてのは楽しければいいじゃないと居直り、無意味に明るく振舞うようになるか、そのどちらかであるように見えます。

 

ここまで、画家の視点から写実の世界を覗いた気分になっている私は、絵画の歴史を順序立てて学んだことはありませんし、絵を描いた経験は高校生の時に所属していた美術部で、油絵とデザインや抽象画を趣味程度に描いていたのみであります。そのため、文章が少々不遜な印象を帯びているのを自覚しております。そこで、ここから言葉の世界の写実を考えたいと思うのです。

 

調べてみると不思議なもので、文学と美術の動きは連動している部分があるのですね。例として、ダダイズムからシュールレアリズムへの変遷を取って文学の世界を見てみると、これは絵画の世界と同じように動いているのです。さて、言葉の役目と言えば情報の伝達でございます。その情報、知恵が纏まりを持つとそれは思想と言えるのですね。つまり、言葉の表現が他の表現より優れている点は、束ねられた思想の伝達という目的で使用されるときによく表れるのでしょう。しかし、小説なんかを読むと、ただ思想のみが箇条書きになっているわけではありません。物語であっても、エッセイであっても、その著者が見ている風景の描写のない作品なんてのは見つからないと思います。特段、詩というものになりますと、その描写という行為が殆どであるのです。夕陽を見て綺麗だと思った。写真家ならば、カメラを使ってそいつを切り取る。画家ならば、多少時間をかけてそいつを描く。執筆家ならば、言葉を使う意外に道はないのです。そこで、物を書くことと、観ることとの間に、彼らの苦悩が生じるのですね。写真のおかげで絵描きの写実が馬鹿らしくなったと言いましたが、言語表現による写実ならば尚更のことなのです。「どうして言葉に拘るのか?」と、言葉の表現に人生を賭けた人間に聞くのは野暮でしょう。

 

私は前回の記事で、詩ともエッセイとも取れないような駄文を書きましたが、あれは部屋に射し込む朝陽の美しさを切り取ろうと苦心した後に残ったラクガキであったのです。ある朝に目覚めると、風に揺れるカーテンの隙間から日が射しておりました。その感動をどうにか表現として捉えようとしたのです。私は考えました。絵や写真の表現に劣らないようにするには、言葉は何をしたら良いだろうか?

 

その結論は二つ、空間と時間を並行させた描写と、そこに感動がどうして起こったのか、という思想を埋め込むことです。私がひとりで暮らしている部屋には、漆塗りの棚などありません。あれは小さい頃に祖父母の家で見た風景を再起させていたのです。紫の花が描かれたカーテンと、祖父母の家の庭に自生していたデュランタの花を重ねて思い出し、光の粒がカーテンの隙間を縫ってサラサラと流れてくる様子をデュランタの花の間になった黄色い実というイメージとして表現していたのです。ちょうど九州に台風が接近しているというニュースを耳にしました。幼い頃は台風が素直に怖かったという記憶、そして今は時間が絶えず流れていってしまうことに対する恐怖、どちらの恐怖も、実は変わらず胸に根を張った恐怖ではなかったか。解説してしまえばつまらない物です。自分の表現であるから好き勝手に解剖してみましたが、言葉の世界で写実と言うと、このようにあれこれ苦心を払わなければならないのだとわかりました。やはり、詩人というのは凄まじい人種だと思います。

 

詩人が物を観るということは、画家が物への異常な愛着を以って観察するのに似た、尋常ならない観察があるのだと思うのです。言葉によって物を見る、もしくは、言葉自体を見るのでありますから、彼らはおそらく、人間の無意識、心象風景の裡に置かれた対象を観ているのですね。そうなれば、シュールレアリズムという思想だって、案外目新しいものでもないのかもしれない。

 

「写実の世界」などと大袈裟な題を立て、話をだらだらと続けてまいりました。要は、芸術的に世界を眺めるということが、どのように面白いことなのかを伝えたかったのです。趣味として芸術を鑑賞するなかにも、このような楽しみはあるはずなのです。みんな、わかり易い芸術を偉そうに批評する裏で、わかり難い芸術の前では、これは「言葉にできない」なんてつまらない言語表現だけで片付けてしまっていないでしょうか。芸術とはそもそも、その「言葉にできない」感動をどう扱うかという問題の上に立っているのだと思います。その情熱から人間は、単に見るのではなくて、真に「観ること」を始めるのです。言葉にならぬ不思議な対象を捕まえてやろうとして、画家は筆を持つし、小説家は文体を持つのです。そこに立ち現れるのは、言葉にしてしまえば感動が萎えてしまうのではないか、という恐怖であります。言葉にしてしまえば、対象が崩れてしまうのではないか、という恐怖なのです。その壁を超えなければ、表現の道は見えないのでしょう。その壁を幾度となく越えてゆくのが、表現の道というものではありませんでしょうか。