倦怠の勿忘草

“汚れつちまつた悲しみは 倦怠のうちに死を夢む”

詩人の眼 ー「萩原朔太郎の詩心」

 

 

幼い頃の記憶である。小学校の傍に大きな楠を祀った神社があった。神主さんがいるのかどうかもはっきり知れないほど、人々に忘れられ、寂れた神社であった。

 

小学生の私と数人の仲間たちは、その神社に群れて住んでいる野良猫を可愛がっていた。数十匹はいたと思う。一様に汚らしく、身体中が傷だらけの猫ばかりであったが、たれ差別することなく甘えてくる彼等を、兎も角も私たちは大好きであったのだ。

 

或る日、そこに真白い子猫が紛れ込んでいた。飼い猫のように毛並みが整っており、空を吸い込むような瞳を持っている。その妙霊な美しさを纏った子猫に私たちは一目惚れした。ひとりの女の子が、私たちの間にあった暗黙の了解を破り、この白猫を飼いたいと言い始めるほどの惚れ込みようであった。しかし、飼って独り占めしたいという思いは私たちに共通したものであったので、私たちの恋心は必然的に友情の内へ、あらぬいざこざを招いたのである。

 

その賤しい喧嘩のおかげで、それまで外部に漏らさないようにしていた猫との触れ合いが、各々の両親に知れ渡ることになり、結果として私たちは神社に立ち入ることを禁じられてしまった。

 

あの白猫がその後どうなったか知らないが、あの弱々しい身体で生きていくのは難しいと思われた。生きていたとしても毛並みは乱れ、怪我もするであろうし、あの美しい姿のままでいるという事はないであろう。

 

私は、青年の汚れたセンチメンタルにすっかり埋もれていたその小さな感傷を、寂しい雨の夜に布団を膝にかけた状態で、萩原朔太郎の詩集「青猫」を声にして読んでいて鮮烈に思い出したのであった。

 

恋びとよ

お前はそこに坐つてゐる 私の寝台のまくらべに

恋びとよ

お前はそこに坐つてゐる。

お前のほつそりした頸すぢ

お前のながくのばした髪の毛

ねえ やさしい恋びとよ

私のみじめな運命をさすつておくれ

私はかなしむ

私は眺める

そこに苦しげなるひとつの感情

 

病みてひろがる風景の憂鬱を

ああ さめざめたる部屋の隅から つかれて床をさまよふ蝿の幽霊

ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ

 

恋びとよ

私の部屋のまくらべに坐るをとめよ

お前はそこになにを見るのか

わたしについてなにを見るのか

この私のやつれたからだ 思想の過去に残した影を見てゐるのか

恋びとよ

すえた菊のにほひを嗅ぐやうに

私は嗅ぐ お前のあやしい情熱を その青ざめた信仰を

よし二人からだをひとつにし

このあたたかみあるものの上にしも お前の白い手をあてて

手をあてて。

 

恋びとよ

この閑寂な室内の光線はうす紅く

そこにもまた力のない蝿のうたごゑ

ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ。

恋びとよ

わたしのいぢらしい心臓は お前の手にかじかまる子供のやうだ

 

恋びとよ

恋びとよ。

 

ー 詩集「青猫」より『薄暮の部屋』 萩原朔太郎

 

幼心に寄り添ってきたあの、恋心にも似た儚い慕情。それは、その感情自体を発端とした諍いによって、ばらばらに割れてしまった。以後、私たちは動物に対し、それほどの愛を感じた事があったろうか。動物を嫌う人は多い。なぜなら、人間には動物の思いがわからないからである。理解できないものは怖ろしい。尤もであるが、動物の心というものは、私たち人間の方から寄ろうとしない限り、決して近づき得ないという事もさればこそなのである。

 

朔太郎は言う。「動物は人間にない特種の官能器官を持っているのである」と。

 

「動物は、人間の見ることの出来ない物象を見、人間の聴くことの出来ない音を聴いている」のだと言うのである。そして、詩人としての自分はまるで、意志の通じない人間に向かって泣き叫んでいる動物のようではないか。彼は、そんな悲しみを繰り返し嘆いているのだ。

 

人は何故、詩という言語を忘れてしまうのか。朔太郎は、「天に達する正しい路は感傷の一路である。」という結論を置く前に、次のように語っている。

 

私は私の肉体と五官以外に何一つ得物をもたずに生まれて来た。そのうへ私は、書物といふものを馬鹿にしている。そして何よりきらひなことは「考へる」といふことである。(詩を作る人にとつて、いちばん悪い病気は考へるといふことである。中年の人はよく考へる。考へるといふことを覚えた時、その人は詩を忘れてしまつたのである。)

 

そこで私の方針は、耳や、口や、鼻や、眼や、皮膚全体の上から真理を感得することになつて居る。言はば、私は生まれたままの素つ裸で地上に立つた人間である。官能以外に少しでも私の信頼したものはなく、感情以外に少しでも私を教育したものはなかつた。

 

人間のつくつた学校はどこでも私を犬のやうに追ひ出した。

 

ー「言はなければならない事」 萩原朔太郎

 

私は常々、「詩とは何か?」という疑問を拭えずにいる。言葉によって精密に組まれた世界観の表現は、「物語」という手法で向かうのが妥当であるように思われる。言葉によって厳密で複雑な思想を伝えるならば、論理を手に、問題となる対象とぶつかれば良い。そこで詩は、詩人は何を表現しようとしているのだろうか。詩人と言われている人々は、いったい何の因果で詩という形式を求めるようになったのか。

 

「詩は言葉以上の言葉である」という確信を、この陰鬱な叙情性を纏った詩人は、どのようにして得たのだろうか。

 

詩の表現の目的は単に情調のための情調を表現することではない。幻覚のための幻覚を描くことでもない。同時にまたある種の思想を宣伝演繹するのことのためでもない。詩の本来の目的は、むしろそれらの者を通じて、人心の内部に顫動する所の感情そのものの本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させることである。

 

「月に吠える 序」萩原朔太郎

 

以前、私は中原中也の記事を書いたが、彼もまた、叙情詩という芸術に取り憑かれていた。人が自然や人と対峙し、ある官能が刺激されて感動が起こる。そのときに、人は「ああ!」なる感嘆の吐息を漏らすのであろう。しかし、この叫びのようなものは、私の中の官能的気分を完全に表現してはいないのだ。

 

さて、この感動の正体は何か?

 

素裸で地に立ち、己の五官以外は信用するに足らんと言い切ってしまえば、この感動の正体を見るように努めること以外で、彼が真理に迫り得る路はないのである。

 

彼は呟くだろうか、「神よ、願わくばこの私を純朴なる動物に変身させよ!」

 

彼は代わりに詩という言葉を得たのである。言葉を超えた言葉、リズムと調和を持った言葉を得たのである。

 

人がこれを読み上げれば、それはまるで電流を帯びた物質のように振る舞い、読者の肌、耳、口、鼻、心臓を震わせ、理性や知性と言ったような、人間の作り出した虚構に隠れている切なる感情を抉り出してしまう。そんな不可思議な力を持った言葉を、彼はこの世界で唯一、汚れなく普遍性のものであると確信して手に取ったのだ。

 

人は一人一人では、いつも永久に、永久に、恐ろしい孤独である。原始以来、神は幾億万人という人間を造った。けれども、全く同じ顔の人間を、決して、二人とは造りはしなかった。

 

人はだれでも単位で生れて、永久に単位で死ななければならない。とはいえ、我々は決してぽつねんと切りはなされた宇宙の単位ではない。一人一人にみんな同一のところをもっているのである。

 

この共通を人間同士の間に発見するとき、人類間の「道徳」と「愛」とが生れるのである。この共通を人類と植物との間に発見するとき、自然間の「道徳」と「愛」とが生れるのである。

 

そして我々はもはや永久に孤独ではない。

 

ー「月に吠える 序」萩原朔太郎

 

私は「自己」という存在を関係性の内に見出す。「私」という存在は永久に孤独である。それはもはや疑いようもないが、「私」は私自身を或る世界の中に投入し、そこに「自己」を発見するのである。

 

「私」を取り囲むあらゆる物質、自然や人、動物の総てが「自己」と関係を持ち、私は五官を以て、世界との関係性を感じることが出来る。「関係性」とは一本の綱のようなもので、それはひとまとまりで「関係性」、つまり綱なのであるが、私たちはいかんせん孤独に耐え切れず、関係性の正体を知りたいと急ぎ過ぎて、わざわざ綱を幾千、幾万に切断してから、その断面を嘗めようとしてしまう。

 

実に「自己」と、結ばれている世界との関係性は、一見すると極めて単純なものであり、また同時に、絡み合って複雑なものでもあるのだ。

 

これは、感情と、その感情の波を隆起させる対象との関係性にも共通する真理ではあるまいか。触れることを怖れてはいけない。触れて感ずることなくして、関係性を愛することは叶わないのである。

 

詩は、一瞬間における霊智の産物である。ふだんにもっている所の、ある種の感情が、電流体のごときものに触れて始めてリズムを発見する。この電流体は詩人にとっては奇蹟である。詩は予期して作らるべき者ではない。

 

私どもは、不具な子供のようないじらしい心で、部屋の暗い片隅にすすり泣きをする。そういう時、ぴったりと肩により添いながら、ふるえる自分の心臓の上に、やさしい手をおいてくれる乙女がある。その看護婦の乙女が詩である。

 

私は詩を思うと、烈しい人間のなやみと、そのよろこびをかんずる。

 

詩は神秘でも象徴でも鬼でもない。詩はただ、病める魂の所有者と孤独者との寂しいなぐさめである。

 

詩を思うとき、私は人情のいじらしさに自然と涙ぐましくなる。

 

ー「月に吠える 序」萩原朔太郎

 

夜、毛布の匂いと、肌の擦れる感覚が恍惚として感じられる。こうも静かに黙り込んでいると、時は実際に止まる。空気は凍りつき、長い年月を眠って過ごしてきた化石のように、私は詩も歌えないほどの寂しさに襲われるのである。

 

そんなときに、静寂の隙間から猫の歌声が聴こえてくるのだ。街を彷徨い歩き、疲れ果てた身体を慈しみ合いながら歌っている。どうか、そうやって朝まで歌い続けてくれないか。

 

そう願いつつ、私は眠りについてしまった。

 

朝、座った姿勢のまま目が覚めると、膝の毛布の上に一匹の白猫が、窓からの陽射しに照らされて眠っているのだ。整った毛並みは、光を反射して、人のなだらかな皮膚のように見える。私がこの掌で彼女の顔を包んでやると、空色の瞳を開き、体重を私に預けてくれた。親指で鼻のあたりを撫でる。彼女は二、三度そいつを嘗めると甘噛みをして甘えてきた。微笑むような表情を、私たちは共有していた。

 

私はずっとそこに居たい気持ちであったが、次第に頭がハッキリしてくると、唐突に用があった事を思い出し、立ち上がる。彼女は急に警戒の態度を見せ、跳ねるように窓から逃げて行った。私はすぐに日常へ引き戻されたのである。

 

どうして。私も青猫にでもなって、この部屋を逃げ出したかった。そうして、いつまでも君と触れ合っていたかった。そう考えているうちに、私の幻想は早朝の霧のように消えて行くのだ。

 

ぬすつと犬めが、

くさつた波止場の月に吠えてゐる。

たましいが耳をすますと、

陰気くさい声をして、

黄いろい娘たちが合唱してゐる、

合唱してゐる、

波止場のくらい石垣で。

いつも、

なぜおれはこれなんだ、

犬よ、

青白いふしあわせの犬よ。

 

ー詩集「月に吠える」より『悲しい月夜』萩原朔太郎